中国美女列伝(その39):戚夫人~惨殺された悲劇の美人は「トイレの神様」に?

春分の日にこんにちは。祝日なので本日は早い更新。この後旧友達が送別会をやってくれるので。

金曜恒例中国美女列伝ですが、いよいよラス前。39回目の今日は前回の恐怖の皇后・呂雉によって「人豚」にされたという可哀想な戚(せき)夫人を取り上げます。

戚夫人(? - 紀元前194年?)は、秦末から前漢初期の女性です。漢の高祖・劉邦の側室で、劉邦の第3子・劉如意の生母です。一説によると名は懿だそうで、これが正しいとすると本名は戚懿ということになります。

戚夫人は袖が大変長く軽い素材でできた華美な衣裳を身に纏い、上体を後ろに大きく反らす楚舞を得意としたそうで、中華版イナバウアーとでも言いたいところですが。イナバウアーといえば荒川静香というほど彼女の得意技ですが、本来は足を前後に開き、つま先を180度開いて真横に滑る技のことであって、上体を大きく反らしながら滑る技を指すわけではありません。

余談ですがあれはイナバウアーのバリエーションでレイバック・イナバウアーとでも言うべき技でしょう。あれ自体はフィギュアスケートで要求される技術要素ではないので得点は稼げないそうですが、見栄えはしましたよね。

戚夫人は紀元前208年頃に劉邦に見初められたようです。劉邦がまだ沛公時代に項梁に従軍して定陶で戚夫人と出会い、自分の側室にしたといいます。戚夫人は農民の出で身分は低かったそうですが、劉邦の寵愛を一身に受けることとなり、またその子の如意は庶子ながら劉邦に似て活発な性格の少年であったそうです。

戚夫人は、劉邦が親征を行うたびにこれに従い、陣中で彼と碁を打っていたとも言われます。また如意を皇太子に立てるようにたびたび劉邦に懇望したとか。

そのため如意は有力な皇太子候補となり、呂雉の子であり異母兄の劉盈(後の恵帝)とその地位を争うこととなります。寵愛する戚夫人の懇望に加えて、皇太子に立てていた劉盈に対しては、父である劉邦自身がその資質をかねてから疑問視していたこともあって、劉邦も徐々に盈を廃嫡して如意を立てることを考え始めます。毎晩のように閨で現役時代の野村克也もかくやという「ささやき攻撃」を受けていたら、劉邦ならずともそうもなることでしょう。

そこで劉邦、皇太子の交代を重臣たちに諮りますが、重臣たちはこぞって反対しました。さらに呂雉が手を回し、劉邦の信任が厚い張良の助言を受けた盈が、かつて高祖が招聘に失敗した有名な学者たちを自らの元に招いたことが決定打となり、劉邦は盈を皇太子に留めることを決断します。そこで如意は趙王のままとされました。

このとき、自分の意思が通らないことに無念を感じた劉邦が作り、我身の切なさに悲哀を感じた戚夫人が歌ったとされるのが「鴻鵠歌」です。
鴻鵠高飛 一舉千里
羽翮已就 横絶四海
横絶四海 當可奈何
雖有矰繳 尚安所施
おおとりが飛んだ 千里も翔んだ
翼をはやし 四海を渡る
四海を渡る もう止められない
ここに矰(短弓)があるけれど 安全なところにいてもう届くこともない

このことにより、戚夫人母子は盈の生母である呂雉に激しく憎まれることとなりました。呂雉からすれば自分は正夫人であり、息子の盈は長子であり皇太子は「鉄板」だと思っていたのに、危機一髪のところまで追い込まれたのですからその憎しみたるやいかばかりか。それに劉邦の寵愛を奪われたというNTR的感情もあったことでしょうし。

紀元前195年に劉邦が死去して盈(恵帝)が即位すると、皇太后となった呂雉による恐ろしい報復劇が開始されます。もはや彼我の戦力差は歴然。まさに「ずっと俺のターン!!」状態です。

呂雉はまず、戚夫人を捕らえて永巷(えいこう:罪を犯した女官を入れる牢獄)に監禁し、一日中豆を搗かせる刑罰を与えました。戚夫人が自らの境遇を嘆き悲しみ、詠んだ歌が「永巷歌」として「漢書」に収められています。
子為王 母為虏
终日舂薄暮 常与死為伍
相离三千里 当使谁告汝
子は王となったのに その母は虜となる
終日薄暗い場所で臼を搗き 常に死と隣り合わせとなっている
王である子と離ること遙か三千里 誰にこの窮状を伝えさせることができようか

これを聞いた呂雉は怒り、趙王の如意を長安に呼び戻すことを命じ、暗殺を企みました。しかし劉邦は自分の死後に如意が暗殺されることを予期していて、趙の宰相に有能な人物を付けていたこともあり、企みは阻まれ続けました。最後には遂に如意を長安に呼ぶことに成功したのですが、兄である盈(恵帝)が食事や就寝などを常に一緒に行動したりしたことで暗殺は食い止められていました。このことからも恵帝は優しい人物だったことがわかります。一体誰に似たんでしょうか。本当に呂雉の子?

しかーし、恵帝が狩りに出かけて目を離した一瞬の隙を衝き、ついに如意は毒殺されてしまうのでした。呂雉の執念たるや恐るべし。後でそれを知った恵帝は嗚咽してひどく悲しんだそうです。

さらに、如意が死亡した事を知らされた戚夫人は呂雉によって茶色で輝かしい眼を刀でえぐり取られ、鼓膜を焼き潰され、毒を飲まされ唖にされます。更に細くしなやかだった両手足を切断され、すぐには死なないように傷口を縛られたといいます。

その後、当時豚を飼育していた厠に投げこまれ、糞尿に塗れることがわかるよう鼻だけは削がれることなく放置されました。呂雉は恵帝を厠へ案内し、変わり果てた戚夫人を見せ「あれは人豚というものです」と言って哄笑したそうです。戚夫人はその三日後に死亡したとか。そして恵帝はショックで酒に溺れて早世したということになっています。

しかし実際、麻酔もない時代に両手両足を切断したらそれだけでショック死は確実でしょう。呂雉が残忍さを秘めていたことはまず間違いありませんが、一時的に栄華を誇った呂氏一族は最終的には政争の敗者になっているので、彼らを粛清し、歴史を記す側になった勝者方が、ことさら呂雉の「蛮行」を強調したという可能性が高いのではないでしょうか。

ですがこの逸話は巷間に広く流布し、中国版「トイレの神様」である道教の厠神は戚夫人とされています。伝説が本当だとしたら、戚夫人はトイレで非業の死を遂げたわけですから、怨霊になるならともかく、とても神様にはならない気がしますが……もしや中国版「トイレの花子さん」?

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