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中国美女列伝(その37):薄姫と竇皇后~「文景の治」を支えた二人の皇太后

河津桜

 こんばんは。二月もいよいよ終わりですね。明日から3月、ついに春到来となります。今日はびっくりするほど暖かかったのですが、明日は一転して真冬の寒さとか。カレンダーと気候がなかなか一致しませんが、風邪などひかないようお互いに気をつけましょう。

ムクドリめ…

 今日は朝から電線に止まったムクドリに糞を落とされて参りました。うんがつくと喜ぶべきか、うんの尽きと嘆くべきか、とりあえず夜まで保留しましたが、お金を拾うでもなく財布を落とすでもなく、特に何事もありませんでした。ムクドリめ……殺すほどではないけど、地上で見かけたら追いかけるくらいには怒っているぞ。

薄姫その1

 本日の中国美女列伝は、名無しさんからコメントでいただきました薄姫と竇皇后を取り上げたいと思います。本来なら一人ずつ取り上げたいのですが、二人を同時に紹介するのは、画像がなかなか見つからなかったせいです。

薄姫その2

 まず薄姫(?- 紀元前155年)は漢の初代皇帝である劉邦(高祖)の側室です。薄は姓で、古代中国ではよくあることですが名前は伝わっておらず、薄氏とか薄太后と呼ばれます。漢の5代皇帝である文帝の母です。

薄姫その3

 なぜ劉邦の子が5代皇帝かというと、劉邦の皇后であった呂后が大暴れしたためですが、それについてはまた後日詳しく語ることにしましょう。ということで呂后(呂雉)やそのライバルだった戚夫人についても取り上げるということでさらに回数を稼ぐのでした(笑)。

薄姫その4

 薄姫の母・魏氏は、戦国七雄の一つである魏の王族の出身でしたが、魏の滅亡後に薄氏と関係を持ち、薄姫を生んだようです。薄姫は成人後、魏豹の側室となります。魏豹はやはり魏王室の一族で、魏は秦に滅ぼされましたが陳勝・呉広の乱に乗じて挙兵し、項羽が秦を滅ぼすと西魏王となりました。側室となった際、薄姫の人相を占った許負は彼女を見て「貴方様は天子様をお生みなさるでしょう。」と言ったと伝えられています。

薄姫その5

 項羽と劉邦による楚漢戦争の中、魏豹は項羽方に寝返りましたが劉邦に敗れて捕らえられました。その際に薄姫も劉邦の後宮に側室として迎えられることとなりました。薄姫は同僚となった側室の女官達に「誰が寵愛を受ける事になってもお互いを忘れずにいましょう」と言い合っていたそうですが、薄姫自身が劉邦から寵愛されることはなく、専ら機織などの雑用に従事し周囲の笑い者となっていました。

薄姫その6

 それを知った劉邦は不憫に思い、ある日彼女を自身の寝所に召し入れました。この時に薄姫は妊娠し、紀元前202年に四男となる劉恒(のちの文帝)を産みました。その後も薄姫が劉邦の寵愛を得ることは少なかったようで劉邦の妃嬪としては姓のとおり影が薄い存在でした。劉恒が幼くして代王に封じられると、自身も代王太后として、弟の薄昭、代の宰相として高祖から附けられた傅寛らとともに任国に赴きました。代国は漢の北部の長城付近にあって、辺境の国でした。そのため、劉邦の没後に実権を握った呂后による、劉邦の側室や皇子たちへの迫害にも巻き込れずに済みました。薄姫が劉邦から寵愛されることが少なく、呂后の嫉妬の対象にならなかったということも理由の一つと思われます。

薄姫その7

 また劉恒自身も慎重な性格で、呂后は粛清した皇子の後釜として、劉恒の移封を検討したことがありますが、代が匈奴に近いため匈奴侵攻の防衛の重要性を理由に挙げ、移封を辞退しました。これ幸いと呂后は甥を後釜にしましたが、そういった謙虚な姿勢を示したことも薄姫と劉恒が生きながらえた大きな理由でしょう。

薄姫その8

 紀元前180年、呂后の死後に呂氏一族は周勃や陳平といった元老達の手で粛清され、代王劉恒は皇帝に迎えられ、文帝となりました。これに伴い、薄姫も皇太后として長安に迎えられることになります。他にも劉邦の子孫はいましたが、なにしろ呂氏という外戚の専横に人々は皆こりごりだったため、生母である薄姫が没落貴族の末裔で、権力欲が少なく人格者との評判の高い劉恒が擁立されることになりました。また、劉恒は生存する劉邦の遺児の最年長者であったということも即位に説得力を与えたようです。

薄姫その9

 紀元前176年、周勃に謀反の兆しがあるとの報を受けた文帝は周勃を牢に入れましたが、それを聞いた薄姫は文帝を呼びつけ、頭巾を投げつけて「周勃は呂氏を打倒する際に軍を統率していながら反乱を起こさなかったのに、どうして今になって謀反を起こそうか?」と叱りつけたそうです。また紀元前167年、文帝が匈奴親征を言いだし、群臣が諫めても聞き入れなかった際にも、薄姫が諫めると撤回しています。マザコンか文帝(笑)。文帝は自ら薄太后の毒味役を務めたとも伝えられ、類を見ない親孝行の皇帝であったとされます。

リアル薄姫その1

 皇太后となって以後も薄姫は、呂后のように権力をみだりに振るうことなく、周囲の尊敬を一身に集めました。弟の薄昭が勅使を殺害した責任を問われて自殺させられたことや、文帝に先立たれたことを除けば平穏無事に過ごしたといえるでしょう。

リアル薄姫その2

 後漢が成立した後、光武帝は呂后から皇后の位と高皇后の諡号を剥奪し、薄姫に高皇后の諡号を追贈しています。

花の歳月

 次に竇(とう)皇后(紀元前205?-紀元前135年)ですが、彼女は、文帝の皇后です。名前は猗房(きぼう)と伝えられています。この人については宮城谷昌光の「花の歳月」に描かれているので、それになぞってご紹介しましょう。

竇皇后その1

 竇家は夏王朝から続く千八百年の歴史のある名家でしたが、当時は零落して貧しい暮らしをしていました。時に呂后が支配する漢の皇室では、全国から名家の子女を宮中に集めて呂后に仕えさせるということにしていました。猗房の住む地方でも宮中に差し出す娘を捜していたところ、まだ幼い弟の世話を見ていた猗房が選ばれることになりました。宮中に入り「竇姫」と呼ばれることになりますが、あるとき呂后は、若い宮女を五人ずつ皇族の王たちに賜ることにしました。

竇皇后その2

 猗房も名簿の中に含まれており、猗房は残してきた幼い弟の広国のことが心配でもあり、故郷に近い趙国に行きたいと思って担当の宦官に「どうか必ず、わたくしを趙国へ行く名簿に入れてください」と頼みました。しかし一宮女の言うことなど、いちいち覚えているはずもなく、宦官は間違えて代国に送る名簿に猗房を入れてしまいましたが、奏上された名簿は呂后の裁可を受けてしまいます。出発の段になって、行き先が間違っていることを知った猗房は、行きたくないと泣き叫びましたが、今さら遅く、泣く泣く代国に赴くことになりました。

竇皇后その3

 猗房は代国で14歳の代王・劉恒と出会います。代王の生母である薄姫は、猗房と同時に宮中に入った娘達となぞなぞ遊びをしますが、そこで猗房が答えた内容は薄姫の期待に添うものでした。そのため劉恒は五人の宮女のうち、竇猗房だけを寵愛します。やはりマザコン…

竇皇后その4

 猗房は女子一人、男子二人を生みます。代王には正妻である王妃がおり、四人の男子を産んでいましたが、代王が皇帝になる前に死去してしまい、その四人の子も、代王が皇帝となったときに、次々と死んでしまいます。このあたり、ちょっと都合が良すぎるなあと思う人は思うところですね。

竇皇后その5
 
代王が皇帝となって数か月たつと、大臣たちは皇太子をたてるよう奏上します。そのとき、竇猗房が産んだ男児劉啓がもっとも年長だったので、皇太子となります。後の6代皇帝景帝です。

竇皇后その6

 こうして皇后として女性最高の地位に上り詰めた竇猗房ですが、実家は不幸に襲われていました。猗房に可愛がられていた弟の広国は、猗房は都に発った日に人さらいに掠われていたのでした。しかもその後12年間に12回も転売されていたのでした。広国は他の少年奴隷達と山で炭焼きをしていましたが、寒いので皆で崖下の穴で寝ていたところ、崖が崩れて広国以外は全員死亡してしまいます。その後主人の家族に従って長安に赴くと、竇皇后の噂を聞き、広国はもしや宮中に上った姉の猗房ではないかと考えます。

竇皇后その7

 広国は生まれた県の名と姓を覚えていたので、かつて猗房と一緒に桑の実を採ろうとして樹から落ちた思い出なども書き記して竇皇后に上書しました。竇皇后は文帝の許しを得ると、広国を宮中に召して様々に尋ねると、広国の述べた内容は、みな本当のことでした。竇皇后が「ほかになにか覚えているかえ?」と尋ねると、広国は「姉さんが宮中に召される日に、姉さんは湯浴みの道具を役人から借りて、ぼくの身体を洗ってくれました。食物ももらって、食べさせてくれました。それから、姉さんは旅立ったのです」と答えました。竇皇后は、その話しを聞いたとたん、広国に走り寄り、固く抱きしめ、大声をあげて泣き出しました。

竇皇后その8

 二人とも涙があふれてとまらない。左右に侍していたお付きの人びとも、皆もらい泣きして、床につっ伏していたのであった。-待御左右、皆、地に伏して泣き、皇后の悲哀を助く、と司馬遷は「史記」に書いています。皇后になった姉と奴隷だった弟の数奇な人生の果ての感動的な再会でした。

竇皇后その9

 文帝とその子の景帝の四十年間の治世は「文景の治」(紀元前180-141年)と呼ばれます。秦末から漢初は戦乱に明け暮れ、民は疲弊していました。この間はひたすら民力の休養と農村の活性化に努めさせました。文帝の政策は、父の劉邦や孫の武帝に比べれば、地味で目立った業績はありませんでしたが、民衆にとっては社会が安定して歓迎すべき時代となりました。紀元前154年に諸侯王による「呉楚七国の乱」が発生し、大規模な反乱となりましたが年内に鎮圧されます。「文景の治」の時代は、食料が食べ切れずに倉庫で腐敗したり、長期間の保管により銭差し(銭の間に通す紐)が腐って勘定ができなくなったなどの逸話が残されています。

リアル竇皇后その1

 竇皇后は中年になり重病に罹って失明し、文帝はその後若い貴妃を寵愛したそうですが、子供が生まれなかったため皇太子は劉啓のままで即位して景帝となります。竇皇后は皇太后となり、孫の武帝の即位により太皇太后となりました。竇皇后は幼い頃から老子を愛好していたため、景帝を始め太子や一族の者はみな老子を読み、尊重せざるをえませんでした。それだけならまだ良かったのですが、一族離散という悲劇を味わったためた、竇一族を引き立て、薄姫と違って皇太后となってからは政治にもしばしば口を挟み、それは太皇太后になってからは一層拍車がかかったとも言われます。

リアル竇皇后その2

 竇皇后の死後、自由になった武帝は、文景の治の蓄積を使って宿敵匈奴の外征を開始することになり、前漢の最大版図を築いた武帝の治世は、前漢の全盛期と賞されます。しかし、全盛は退廃への第一歩となり、奸臣の跳梁や財政の悪化など、後半は悪政と批判されています。竇皇后といい武帝といい、最後まで賞賛される人生を全うするのは難しいことですね。

リアル竇皇后その3
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Re: No title

 名無しさんこんばんは、いらっしゃい。

 ご提案に基づき、一件記事を作ることができました。ありがとうございました。「美人心計」は有名なドラマみたいですね。女優さんそのものという絵もありましたから。

 当ブログの「中国美女列伝」は、日本人に知名度があるかどうかと、いい画像があるかどうかが選出条件となっています。そのため四大○女の一角の女性でも、知名度が無い人は外していたりします。また画像があるかどうかも重要な条件で、「リアル○○」ということで演じた女優さんを出すこともありますが、あくまでメインは絵ということにしております。同じ画像を違う美人の絵だとするサイトがあるせいで、同一画像を複数回使ってしまっていることもありますが、本家の中国人が混同しているのなら仕方ないかなとか思っていたり(笑)。

 ところで今回ご提案の美人につきましては、検索してみたのですが、書くべきエピソードはあるものの、ほとんど絵を発見することができませんでした。どうも中国人絵師が描いていないようです。

 よってせっかくのご提案ですが、残念ながら取り上げることができそうにありません。悪しからずご了承下されれば幸いです。
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