中国美女列伝(その30):花蕊夫人~二代の王朝の貴妃となった才女

お寒うございます。寒波キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
年明け仕事始めの一週間、長く感じた方も多かったでしょう。8日から始まったであろう学生諸君はさほどでもないかも知れませんが。私は…といえば、実はさほど長くも感じませんでした。仕事始め早々にいろいろやることがあって、気付いたら金曜日という感じです。あまり忙しすぎるのもなんですが、適度に忙しいと時間が早く過ぎていくような。

一ヶ月以上ぶりということで皆さんすっかりお忘れかもしれませんが、金曜日は中国美女列伝というものをやっておりまして…。忘年会その他でご無沙汰していましたが、今夜は久々にやりたいと思います。記念すべき30人目の美女は花蕊夫人です。

花蕊は「かずい」と読みます。五大十国時代の人ですね。唐が滅亡して宋(北宋)が成立するまでの907年から960年の間、中国が多くの国が短期間に興亡を繰り広げました。黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝を五代、華中・華南を支配した地方政権を十国と呼び、合わせて五代十国時代と呼びます。

この十国の中に、後蜀という国がありました。存続したのは934年から965年ということで、たった31年の短い国でしたが、この時代短いと10年持たない国もあったのでそう驚くには値しません。五代の一つである後漢なんかたった3年ですよ。後蜀という位なので前蜀というのもあるだろうと思ったら、本当にありました。907年から925年までの18年間は十国の一つ前蜀が現在の四川省付近を収めていましたが、五代の一つである後唐に滅ぼされました。後唐に統治を任された武将が独立したのが後蜀ということになります。四川の豊かな財物を背景に文化の華を開かせました。

蜀は天然の要害で、周辺からの侵攻の危険が少なく、塩・鉄などの資源を豊富に有することから古来より「天府」と呼ばれていました。この当たりことは、三国志演義を読んだ人は諸葛孔明当たりのセリフとしてご承知のことと思います。そのため、戦乱の時代に平和を求めて多くの文化人・僧などが中原から蜀へ流れてきて、五代十国時代最高峰の文化を花咲かせました。

花蕊夫人は後蜀の二代皇帝である孟昶(もうちょう)の貴妃です。生年は不詳ですが没年は976年とされています。青城(四川省都江堰市)の出身で、幼少の頃より文学的才能があり、容姿も美しいということで、孟昶の後宮に入り妃となり、花蕊夫人という称号を賜りました。

蕊とはしべ、雄しべ雌しべのしべのことで、花や蕊(シベ)でも形容できない美貌を持っていたことからこの名が付けられたのだそうです。

花蕊夫人は、孟昶を愛し、宮廷生活を綴った華やかな宮詩を100首余りを残しました。また芙蓉と牡丹の花を愛したということで、成都に大量の芙蓉や牡丹の種を植えたとそうです。

孟昶は即位当初は奸臣を粛清し、産業を振興して国内の安定を図った孟昶ですが、晩年は奢侈に溺れて国政を顧みないようになり、政治が大きく乱れました。

後蜀の版図は次第に他国に奪われていき、964年に北宋に攻められ、965年には降伏して滅亡することとなりました。その際、花蕊夫人は孟昶と共に北宋に捕らえられましたが、北宋初代皇帝である趙匡胤(ちょうきょういん)は無用の殺生を嫌う人だったらしく、孟昶ほかの亡国の君主らを処刑するようなことをせず、諸侯として遇しました。

孟昶は965年に死亡(毒殺説もあるそうです)しましたが、花蕊夫人はその後趙匡胤の後宮に入り、妃となりました。二人の王の夫人になった訳ですね。しかし、花蕊夫人はそうなっても後蜀のことを忘れることはなく、いつも孟昶の画像を祀っていたそうです。

ちなみに建国の王と亡国の王を対比するエピソードとして、趙匡胤は節約を旨としており、娘の魏国長公主が贅沢な肌着(カワセミのの羽を装飾に使っていたそうです)を着ているのを見て、「お前は富貴な身分として育った。そのことの有難味を思いなさい」と説教して二度と着せなかったそうです。また、孟昶が杯に宝飾を凝らしているのを見てこれを砕き、「そのようなことをしているから国を亡ぼしたのだ」と叱咤したそうです。

花蕊夫人の作った詩に「述国亡詩」があります。
君王城上竪降旗
妾在深宮那得知
十四萬人齊解甲
更無一箇是男兒
君主が城壁の上に降伏の旗を立てました。
私は、後宮の奥深くにいたのですが、どうしてそのことを知ったのかといえば
後蜀の全軍人である十四万人が一斉に武装解除をし
もはや一人前の男は、一人もいないと分かってからなのです。

太祖・趙匡胤の弟である趙光義は二代皇帝太宗となりますが、兄が花蕊夫人の美色に迷ってるのを見て、後々国を誤るもとと、狩猟に出た折に弓で射殺したとの説があります。

この太宋には黒い噂があり、太祖には成人した息子が何人もいたにも関わらず、彼らを差し置いて弟である太宋が即位したことは、千載不決の議(千年を経ても結論が出ない議論)と呼ばれる疑惑となっています。

太宗自身は、太祖の遺詔により即位したのであり、自分たち兄弟の母である昭憲太后の遺言でも趙氏の成人男子が年齢順に即位することが定められており、これに従って即位したとの立場をとりましたが、太宗は即位以降、太祖の息子を自殺に追い込んだり、昭憲太后の遺言に従えば次の皇帝になるべき趙廷美(太祖・太宗の弟)を失脚させた後に死に追い込むなどし、結局は自身の息子真宗からその子孫へと代々帝位が継承されるという路線を確立させています。

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