中国美女列伝(その27):武則天~中国史上唯一の女帝

こんばんは。今日は小雪です。“こゆき”と呼んではいけません。女優になってしまいます。わずかながら雪が降り始めるころということで、関東平野では秋風が北風に変わる頃といってもいいかも知れません。

いよいよ秋もおしまい。冬がやって来るということでしょうね。本日は「いい夫婦の日」でもあるそうですが、そんなの関係ねぇ!(いや~古くなったなあ)

先週は都合によりお休みしました中国美女列伝、本日はやります。27回目の今日は中国史上空前絶後の唯一の女帝・武則天です。中国の歴史において、特に国を陥れたとされる「中国三代悪女」の一角だと言われています。ちなみに武則天のほかのメンバーは劉邦夫人の呂雉(呂后)、清末の西太后、そして殷末の傑王の妃・妲己で、この四人のうち三人を指す場合が多いようです。

日本では則天武后と呼ばれることが多いですが、確かに皇后もやってますが、皇帝に即位しているという事実は覆せません。もっとも日本では女性天皇(女帝)は結構いますが。

武則天(623年?生~705年没)は武諱は照で、幼名は媚娘といいました。乳児の頃から容姿が極めて美しかったそうです。人相見が必ず天に昇ると予言したということで、父が軍政を統括する利州都督であったこともあり、将来の皇后を期待した父は予言を実現すべく高度な教育を与えたそうです。少女期から漆黒の髪、切れ長で大きな目、雪のような肌、桃色の唇、薔薇色の頬、大きな胸、見る者を魅了する媚笑、聡明な頭脳を備えていたそうです。


8歳の時に父が亡くなり、以後は異母兄弟に虐げられていたそうですが、14歳で唐の二代皇帝太宗の後宮に入りました。太宗は唐の基礎を固める善政を行い、中国史上でも最高の名君の一人と称えられている人です。武照は当初寵愛を受けていたそうですが、武照の聡明さが唐朝に災禍をもたらすことを恐れた太宗から次第に疎遠にされていきました。

お茶を引いていた武照ですが、太宗の子で三代皇帝高宋となる李治に見出されることとなりました。太宗の崩御(649年)にともない、後宮の后妃達は出家することになりましたが、武照は女性道士となって道教寺院で修行することにしました。尼になると額に焼印を押されることになるのでこれを避けたためとされますが、それならみんな道教寺院に出家するんじゃないでしょうか。多分聡明な頭脳を駆使したんでしょうね。

即位した高宗の後宮では、王皇后と寵妃である蕭淑妃が対立していました。王皇后は、高宗の寵愛を蕭淑妃から奪うために武照の入宮を推薦しました。武照が後宮に入ると、高宗の寵愛が蕭淑妃から離れたことは計算通りでしたが、同時に王皇后も疎遠にされてしまったのでした。武照一人勝ちです。


高宗の武照への寵愛は非常に深く、655年には王皇后と蕭淑妃を廃して投獄し、武照を皇后に擁立しました。皇后になった武照は監禁されていた王皇后と蕭淑妃を百叩きにした後、四肢を切断した上、「骨まで酔わせてやる」と言って酒壷に投げ込ませ、二人は酒壷の中で数日間泣き叫んだ後絶命したそうです。武照…恐ろしい子!

武照は病気がちだった高宗に代わって政治を行うようになり、自分を支持しない貴族層に代わり、出自を問わない才能を発掘するとともに、自分の血筋の者を重用しました。密告が横行する恐怖政治となったため、高宗は武照の排除を画策しましたが、事前に察知した武照は権力奪還を許しませんでした。

683年に高宗が亡くなって武照の子である中宗が即位しましたが、中宗の韋皇后が勢力を伸ばそうとしたことから中宗を廃位して睿宗を新皇帝に擁立しました。睿宗は武后の権勢の下で、傀儡に過ぎませんでしたが、それでも飽き足らぬ武照は690年に遂に自ら帝位に就きました。国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称し、睿宗は皇太子に格下げされました。武則天の王朝を「武周」と呼びます。

唐では、帝室が老子の末裔だとされて道教が重んじられていましたが、武則天は仏教を重んじて朝廷での席次を仏教を道教より優先(「仏先道後」)に改めました。諸寺の造営と寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりだと称し、このことを記したとする「大雲経」を創り(ねつ造ともいいますね)、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせました。これは後の日本の国分寺制度の元になったものです。

15年の統治の後、武則天は病床に臥せがちとなりました。唐復活の機運が高まり、宰相・張柬之により武則天は退位を迫られ、中宗が復位し、国号も唐に戻りました。武則天は中宗の母である太后でもあったため、中宗は退位した武照に則天大聖皇帝の尊号を贈り、その後まもなく武照は死去しました。

武則天は改名好きで、元号も頻繁に変更しました。また漢字の改変も行い、則天文字と呼ばれる新しい漢字を創りました。

則天文字は20字程度で、今日使用されることはほとんどありませんが、唯一「圀」の字は日本で徳川光圀と本圀寺の名称に使用されています。国の旧字である「國」が国構えの内に「惑」を含むことを忌み嫌った武則天が、国構えの内に「八方」をそえたものです。光圀は52歳にして「光国」を「光圀」に改めているので、改名は完全に本人の意志だったのでしょう。


毛沢東夫人で文化大革命を指揮した江青は、毛沢東の後継者にならんとする野望を持っていたため、夫の死後、名実ともに国政を握った武則天を自らに重ね、これを称賛する運動を興しました。これに伴い、武則天を主人公とした連続テレビドラマも製作されており、これが「リアル武則天」の画像が多い理由となっています。

現在における武則天の評価は、武則天の治世に農民の逃散が増大し、均田制の実施が困難となった点などから、否定的な評価が下されているようです。

武則天は幼少時の逸話といい、太宗と高宗の父子に愛されたことといい、美貌であったことは疑いがないのですが、中国絵師による画像はあまりありません。これは美人だったということよりも恐ろしい女性だったというイメージが強いせいかも知れません。最後にリアル武則天画像をどうぞ(余ったとも言いますが)。




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