中国美女列伝(その22):秦良玉~実在した中国の「戦乙女」

本日東京はなんと30度。観測史上一番遅い真夏日らしいです。それまで一番遅い真夏日は1915(大正4)年の10月9日だったそうなので、およそ100年ぶりの記録更新。それなのに冷房期間は終わったとかで会社は放置状態。こうなったら逆に24度で暖房入れてくれよなんて思ってしまいます。
さて三国志の女性達もひとまず終わりにして、「中国四大○女」シリーズに戻りましょう。本日は四大師女の秦良玉です。師女というのは「女将軍」という意味なんですが、なんだそれなら三国志に一杯いたじゃんとお思いかも知れませんが…あの人達、本当は戦っていませんから!ええ、知っております。確かにゲーム内では男顔負けの活躍で兵の群れをばったばったとなぎ倒していますよ。でもあれはあくまでゲームの中だけのことです。
そりゃあむさ苦しいおっさん武将ばかりが出てくるよりも、華やかで綺麗な女性が登場する方がいい決まっています。だからゲームで女性キャラが女将軍を務めるのはいいのですが、だからといって貂蝉や甄姫や大喬・小喬らを女武将と認識してしまっては三国志マニアに叱られてしまうでしょう。
しかし、実際の中国史にも女将軍はいないでもありませんでした。それが四大師女なのですが、このうち日本でも有名なのは穆桂英(ぼくけいえい)と秦良玉の二人でしょう。有名無名をどうやって判断するかは人それぞれなのですが、当ブログの場合はWikipediaの日本語版に記事があるかないかを一つの目安にしております。
このうち穆桂英は京劇に登場する架空の人物であり、画像も上記のようなけばけばしいものばかりなので、ここはひとまずお引き取り願おうかと思います。ということで只一人残った女将軍・秦良玉を紹介してきましょう。
秦良玉(1574~1648)は、中国の正史に列伝を持つ唯一の女将軍です。字は貞素。四川の少数民族の出身ながら、漢民族のために戦い、斜陽の明のために戦いました。また武力だけでなく、教養にも優れ詩文を良くしたといいます。
秦良玉の軍はトネリコでできた槍を持っていたため、白杆兵と呼ばれて怖れられました。ちなみにトネリコは日本原産の木で、弾力性に優れ、バットや建築資材などに使用されいるほか、樹皮は漢方薬とされ、止瀉薬や結膜炎時の洗浄剤として用いられます。北欧神話に登場する世界樹ユグドラシルは同じトネリコ属のセイヨウトネリコです。
出身地は四川の忠州(重慶市)で、幼少時より父から武芸を習っていたそうです。成長して忠州を治めていた石砡宣撫使・馬千乗の妻となりました。万暦27(1599)年に楊応龍の乱が起きると、夫ととも秦良玉自身も500の兵を指揮して従軍し、敵軍の夜襲を見抜いて撃退したり、七つの塞を抜く等の活躍して戦功一等とされましたが、自ら功を誇ることはしなかったそうです。
その後、夫の馬千乗は民事訴訟で無実の罪に問われて獄死してしまいます。それ以降は秦良玉が代わって夫の兵を自ら統率しました。
天啓元(1621)年には、金の侵入を防ぐため戦い、兄弟ととも遼東の地を守りきることに成功します。しかし兄が戦死したため、秦良玉は明朝廷に対し、兄と遺族に対する保障を願い出ます。この際、秦良玉は「わたくしは潘州の戦い以来従軍し、いささかの功を立て、嫉妬心を起こすことなく、騒々しい讒言にも忠誠を持って潔白を証明してまいりました。」と訴え、これに対して明朝廷は、彼女の著しい戦功を賞し、兄に役職を追贈すると共に遺族による世襲も認めました。
同年、四川で奢崇明が反乱を起こし、秦良玉はこの反乱軍に勧誘されましたが、使者を切り殺すと弟や甥達を率いて鎮圧に出陣し、伏兵を用いて賊軍の船を焼き払い、檄を飛ばして賊軍を破り、蜀の土地の平定に成功します。
崇禎3(1630)年、永平の四城が陥落すると、秦良玉は時の皇帝・崇禎帝から呼び出しを受けます。敗軍の責任を追及されると考えた秦良玉は、全ての軍費を兵に分け与えたうえで北京に赴きました。しかし崇禎帝は秦良玉のこれまでの功績を賞賛するために謁見したのであり、秦良玉は崇禎帝が作った詩を4つと恩賞をもらい、四城の回復を命じられて帰還しました。意気に感じた秦良極は、その後も数多くの賊軍を退治し、賊軍の勢力を大きく衰退させました。
ちなみに崇禎帝が、秦良玉の功績を表彰した際に贈った詩は、次の四首でした。もう秦良玉絶賛の嵐です。全米、いや全明が泣いた!
1.學就西川八陣圖,鴛鴦袖里握兵符。由來巾幗甘心受,何必將軍是丈夫。
(学ぶにすなわち四川八陣図、鴛鴦袖の裡に兵符を握る。古来、巾幗、心に甘んじて受く、何ぞ必ずしも将軍これ丈夫たらん)
2.蜀錦征袍自裁成,桃花馬上請長纓。世間多少奇男子,誰肯沙場萬里行。
(蜀錦の征袍自ら剪りて成し、桃花馬上、長纓を請う。 世間、多少の奇男子、誰か沙上萬里を行くを肯せん)
3.露宿風餐誓不辭,飲將鮮血代胭脂。凱歌馬上清平曲,不是昭君出塞時。
(胡虜を飢えて餐うも誓いて辞せず、飲むは将に鮮血、胭脂に代える。 凱歌馬上にす清吟の曲、是れ昭君出塞の時にあらず)
4.憑將箕帚作蝥弧。一派歡聲動地呼。試看他年麟閣上,丹青先畫美人圖。
(凭るは将に箕帚、虜胡を掃(はら)い、一派の歓声、地を動して呼ぶ。試に看る他年の麟閣上、丹青先ず画く美人の図)
崇禎13(1640)年には、大量虐殺で有名な張献忠と戦いますが、これにはかなりの苦戦を強いられます。その理由は、相手の兵力が多かったこともありますが、味方武将が秦良玉の建策を受け入れてくれなかったせいでもありました。このため、結局四川は張献忠に支配されることになってしまいました。
崇禎17(1644)年には李自成の乱により崇禎帝が死亡、明は滅亡してしまいます。しかし、秦良玉は亡命政権である南明の弘光帝に仕えて、官爵を得て忠州で立て籠もって戦い続けます。秦良玉は、順治3(1646)年に清軍が乗り込んできて張献忠が死ぬまで戦い続け、張献忠敗死の後老衰により大往生を遂げました。
秦良玉は、明史によれば「人となり胆略智謀あり、騎射をよくし、詩文をよくして風雅と文雅を好み、軍を御すにあたっては厳峻であり、令を発するごとに隊伍は粛然」と称された女将軍でした。
「中国美女列伝(その16)」の陳円円の記事(8月30日)で触れたとおり、崇禎帝という人は政治に熱心で倹約を心がけ、色事にふけるようなこともありませんでしたが、とにかく猜疑心が強くて重臣を次々と誅殺してしまい、当時侵攻凄まじかった満州族
(清)から明を守っていた最強の盾ともいうべき名将・袁崇煥まで誅殺してしまうほどでした。
(清)から明を守っていた最強の盾ともいうべき名将・袁崇煥まで誅殺してしまうほどでした。
だから北京に召喚された時には秦良玉は死を覚悟したのでしょうが、そんな皇帝に仕えながらもただ賞賛だけを受け、天寿を全うしたあたり、その忠誠心には一点の曇りもなかったということでしょう。
なお、秦良玉の若き日のエピソードに、秦良玉が馬千乗の妻になった際、兵法書や農業書を数十冊も買いこみ、一年間こもりきりで読み込んだ後に、家財をつぎこみ借金をしてまで山や土地を買いあさり、乾燥に強い米を植えたという話があります。
その年は大干ばつとなり、買いあさった土地に植えた米が売れに売れてあっと言う間に借金を返したほか、充分な暮らしが出来るだけの蓄財が出来ました。その翌年は、秦良玉が雨に強い作物を栽培すると、その年は長雨が続いた為、またもや作物が売れに売れました。
夫の馬千乗が秦良玉に「どうして天候が予測できたのか?天文でも学んだのか?オカルトか?(要旨)」と尋ねると、秦良玉は、「木に巣をつくれば風とわかり、穴に巣をつくれば雨とわかる、と前漢書にあります。私は蟻に教えてもらっただけです。およそ干ばつのときはその穴が必ず深いものですし、雨の多いときは必ず高いところに行きます。それによって気候を知ったのです。」 と答え、オカルト的なものに頼ったのではなく、勉学の結果得た知識を活用したのだと笑顔で答えたそうです。
日本でいえば安土桃山~江戸時代の人ですが、実在した最強女将軍として、ゲームでは三国志なんかにもゲスト出演しているらしいです。年を取ってお婆ちゃんになっても戦い続けた人ですが、画像ではいつもうら若い「戦乙女」です。
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