「秒速5センチメートル」考察(その4):渡せなかった手紙

ニャル子さんは相変わらず面白いですね。今回登場のイースの偉大なる種族は、旧支配者ではないんですが、時間の秘密を完全に解明した精神生命体という、ある意味旧支配者よりもすごい存在です。過去の地球では古のもの(これも旧支配者ではない種族)とかクトゥルーとかと小競り合いをしていたとか。
それはさておき「秒速5センチメートル」の考察その4です。今回はやや長文です。
4.「渡せなかった手紙」について

明里さんと貴樹君はそれぞれお互いあての手紙を用意していましたが、結局どちらも渡せませんでした。その内容は映像ではほとんどわかりません。明里さんの手紙に「きっと大丈夫」とあるのが見える程度です。それなら別れ際に伝えているからいいわけですが、風に飛ばされた貴樹君の手紙は仕方がないとして、なぜ明里さんは手紙を渡さなかったのでしょうか。小説版「秒速5センチメートル」には手紙の内容がはっきり描かれているので、とりあえず読んでみましょう。まず明里さんの手紙から。
貴樹くんへ
お元気ですか?
今日がこんな大雪になるなんて、約束した時には思ってもみませんでしたね。
電車が遅れているようです。だから私は、貴樹くんを待ってる間にこれを書くことにします。
目の前にストーブがあるので、ここは暖かいです。
そして私のカバンの中にはいつもびんせんが入っているんです。いつでも手紙が書けるように。
この手紙をあとで貴樹くんに渡そうと思っています。
だからあんまり早く着いちゃったら困るな。どうか急がないで、ゆっくり来てくださいね。
今日会うのはとても久しぶりですよね。なんと十一ヶ月ぶりです。
だから私は実は、すこし緊張してます。
会ってもお互いに気づかなかったらどうしょう、なんて思っています。
でもここは東京にくらべればとても小さな駅だから、
分からないなんてことはありえないんだけど。
でも、学生服を着た貴樹くんもサッカー部に入った貴樹くんも、
どんなにがんばって想像してもそれは知らない人みたいに思えます。
ええと、何を書けばいいいんだろう。
うん、そうだ、まずお礼から。
今までちゃんと伝えられなかった気持ちを書きます。
私が小学四年生で東京に転校していったときに、
貴樹くんがいてくれて本当に良かったと思っています。友達になれて嬉しかったです。
貴樹くんがいなければ、私にとって学校はもっとずっとつらい場所になっていたいと思います。
だから私は、貴樹くんと離れて転校なんて、
本当にぜんぜんしたくなかったのです。
貴樹くんと同じ中学校に行って、一緒に大人になりたかったのです。
それは私がずっと願っていたことでした。
今はここの中学にもなんとか慣れましたが、(だからあまり心配しないでください)
それでも「貴樹くんがいてくれたらどんなに良かっただろう」と思うことが、
一日に何度もあるんです。
そしてもうすぐ、
貴樹くんはもっとずっと遠くに引っ越してしまうことも、私はとても悲しいです。
今までは東京と栃木に離れてはいても、
「でも私にはいざとなれば貴樹くんがいるんだから」ってずっと思っていました。
電車に乗っていけばすぐに会えるんだから、と。
でも今度の九州のむこうだなんて、ちょっと遠すぎます。
私はこれからは、一人でもちゃんとやっていけるようにしなくてはいけません。
そんなことが本当に出来るのか、私にはちょっと自信がないんですけど。
でも、そうしなければならないんです。
私も貴樹くんも。そうですよね?
それから、これだけは言っておかなければなりません。
私が今日言葉で伝えたいと思っていうることですが、
でも言えなかったときのために、手紙に書いてしまいます。
私は貴樹くんのことが好きです。
いつ好きになったのかもう覚えていません。
とても自然に、いつの間にか、好きになっていました。
初めて会ったときから、貴樹くんは強くて優しい男の子でした。
私のことを、貴樹くんはいつも守ってくれました。
貴樹くん、あなたはきっと大丈夫。
どんなことがあっても、貴樹くんは絶対に立派で優しい大人になると思います。
貴樹くんがこの先どんなに遠くに行ってしまっても、
私はずっと絶対に好きです。
どうか どうか、それを覚えていてください。
次に、飛ばされてしまった貴樹君の手紙です。

大人になるということが具体的にはどういうことなのか、
僕にはまだよくわかりません。
でも、いつかずっと先にどこかで偶然に明里に会ったとしても、
恥ずかしくないような人間になっていたいと僕は思います。
そのことを僕は明里に約束したいです。
明里のことが、ずっと好きでした。
どうか どうか元気で。
さようなら。
二週間かけて書いてたったこれだけかよという突っ込みはこの際置いといて、分量には大きな相違がありますが、完全に両想いですね。それが叶わないのだからこちらも辛いんですよねえ。
さて、この手紙から何が読み取れるでしょうか。まず明里さんの手紙ですが、駅の待合室で貴樹君を待ちながら書いたものです。鞄の中にはいつも便箋が入っているという記述に要注意です。半年前に始まった二人の文通ですが、他に文通をしている相手がいるとも思えないので、貴樹君専用と思われます。栃木の中学校に溶け込めないままの明里さんは、貴樹君に手紙を書くことで何とか孤独になりがちの日々をやり過ごしていたのではないでしょうか。

ではなぜ明里さんはそんなにも新しい環境に溶け込めなかったのでしょうか。彼女の手紙には貴樹君への感謝が綴られています。引っ込み思案で内気な幼少時代の明里さんは、本人が言うように、もし彼がいなかったらきっと辛い小学生時代を送っていたことでしょう。貴樹君はまさしく明里さんにとっての救世主でした。しかし、あまりにも救われすぎたとも言えます。二人はまるで一心同体のようです。前に二人の趣味嗜好は一致していたと書きましたが、案外明里さんが貴樹君の趣味に合わせていったという側面もあるのではないかと思います。明里さんは完全に貴樹君に依存していました。彼女にとって、貴樹君との関係が全てであった時期があるといえます。好きになるのは当然でしょう。

大人になっていくためには、そんな関係はいつまでも続けていてはいけないし、続かないだろうということを我々は知っています。傷つきながら、辛抱しながら周囲と折り合いをつけていく、それが普通の子供のあり様でしょう。しかし、我々にも明里さんにとっての貴樹君のような「理想的なコミュニケーション相手」、別の言い方をすれば「安易な逃げ道」が存在したとしたら、それでも彼女と違う道を行けるでしょうか?私ならば決して行けないでしょう。どっぷりと「二人の関係」(いやらしい意味ではないですよ)に浸りきってしまった小学生の明里さんを責めることは誰にもできないのではないでしょうか。
貴樹君の凶悪なまでの優しさ(しかも彼はまだ優しさが足りないとさえ考えている。タカキ…恐ろしい子!)と、それをためらうことなく享受して楽しい日々を送ってきた明里さん。これからもずっと続くものと思っていたそうした日々を、引っ越しにより一気に失ったことは、当然ながら明里さんの精神にとって大きな痛手となりました。彼女はなかなかその痛手から立ち直るこができず、「失われた半身」である貴樹君に救いを求めることとなったのです。さらに、その矢先に判明した「貴樹君が逢うことすらも出来ない遠くに行ってしまう」という危機的な事態は、彼女にとってさらなる大きな衝撃であったことは疑う余地はありません。
一方貴樹君は、中一時代を見てわかるように、明里さんを失った後でも、部活で汗を流し、先輩からも信頼されるなど、周囲と良好なコミュニケーションを築けています。それは引っ越していないということもあるでしょうが、むしろ貴樹君自身の性格に依るところが大きいのではないかと思われます。貴樹君の手紙を見て下さい。「好きでした」と過去形で書いていますし、内容も明らかに「別れの手紙」です。

Mr.Childrenの“innocent world”という歌に「日の当たる坂道を昇るその前に またどこかで会えるといいな その時は笑って」という一節がありますが、まさにそんな感じではないですか。第一話の描写からみて、いつもそばにいた明里さんがいなくなるということは、貴樹君にとっても大きな痛手だったと思われますが、彼はそれを克服していました。いや、克服したと信じていたというべきでしょうか。第二話第三話を見れば彼が過去を引きずっているのは明白ですから。
しかし諸君、待っていただきたい。私はあの雪の日以前の時点では貴樹君は「明里さんとの日々」を克服していたと思うのです。それではどうしてあんなに喪失感一杯になって彷徨うようになったのか。その原因こそがあの「雪の一夜」だったわけです。私の弟(違う)、諸君が愛してくれた遠野貴樹は死んだ!何故だ!

手紙の考察を続けましょう。貴樹君の引っ越しに衝撃を受けた明里さんですが、それは彼女が精神的に大きな成長を遂げるための大きな転機となったのです。
「私はこれからは、一人でもちゃんとやっていけるようにしなくてはいけません。そんなことが本当に出来るのか、私にはちょっと自信がないんですけど。でも、そうしなければならないんです。私も貴樹くんも。そうですよね?」彼女の手紙のこの一節には、幼いながらも凛々しく気高い彼女の決意が感じられます。うーん、さらに惚れそうだ。明里ー、俺だー!結婚してくれーっ!!

そうです、彼女は「懐かしくも楽しかった貴樹君との関係」がもはや二度とは戻らないということをこの時はっきりと自覚し、今後はそれに頼ることなく生きていくということを宣言しているのです。明里さんはこの手紙を貴樹君に渡すべきだったと私は思います。渡していれば、その後の彼の人生はまた違ったものになっていた可能性が高いと思うのです。貴樹君の手紙は風に飛ばされてしまったので、渡したくても渡せないものとなりましたが、明里さんは自分の意志で手紙を渡しませんでした。なぜ渡さなかったかといえば、私はやはり「雪の一夜」のせいだと思うのですが、それについては後ほどたっぷりと。
最後に明里さんが愛の告白をしています。「好きです」と明里さんは現在形で言っています。そして将来もずっと好きだと、未来についてさえも言及しています。本当でしょうか。私は、結婚して幸せに暮らしているだろう現在においても、明里さんは貴樹君のことが大好きなんだろうと思います。好きといっても今後不倫関係に陥るかもしれないといった危険なものでは決してなく、今の自分が形成されるにあたって大きく、好ましい影響を与えてくれた、彼女にとってはほとんど全てといっていい時期があり、“I was born to be yours. You were born to be mine.”(竹内まりあ「テコのテーマ」より)と感じることができた、忘れられない瞬間をも共有した貴樹君が好きでないなんてありえないのです。それは自分自身を否定するに等しいのですから。

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