感想が遅くなって申し訳ありません。
『秒速』も初見から一か月がたって、ようやく冷静に見返すことが出来ました。
〉シンクロニシティってやつですか
〉
自分もあったと思います。
冷静に第三話を見直すと、貴樹は明里を忘れています。
そして、明里が手紙を見たことをきっかけに夢を見ます。
それがシンクロして、貴樹も夢を見ます。それが第一話なのでしょう。
貴樹は夢のおかげで、自分が何のために頑張っていたのか、ようやく思い出しました。
そして、過去を振り返り、いろいろと反省します。
それが花苗にシンクロして、第二話の夢を見たのでしょう。
勝手な妄想です。すいませんm(__)m
〉漫画を書いた清家雪子的には②のようですが
〉
たぶんそうでしょうね。
物語上、途中で花苗を登場させたならば、何らかの決着をつけないと不自然なキャラになってしまいます。
短編を並べた映画とは違いますからね。
〉どうにも花苗には明里的な要素がないような気がします
〉
自分は貴樹が求めていたのは、感動の共有だと思いました。
最初の彼女や理沙はそれを理解できず、二番目の彼女は刺激だと曲解したのでしょう。
この辺は小説を読んでないので、勘違いしているかもしれませんが、そう思いました。
だから、東京での奇跡の再会は、あの一夜以上の感動を二人に共有させることになり、貴樹の心を充足させると思いました。
冷静に考えて、映像の中で社会人の貴樹を苦しめていたのは、上司のと確執と前の彼女との泥沼でしょうね、たぶん。
とても中一の想い出ではないでしょう。
漫画でも、理沙と付き合うときに明里のことは思い出していませんし、「怖い」と思ったのも前の彼女とのことが大きいでしょう。
現実的にあれは酷い状況ですw
でも、明里との想い出が、貴樹に自分の原点を思い出させて、きっと救ってたのでしょう。
だから、最後の踏切のシーンは、ハッピーエンドなのだとようやく思えてきました。
それから、前回のコメントは自分の勘違いでした。
申し訳ありません。漫画じゃなくて、「 One more time, One more chance 」のyoutubeの映像でした。
本当に申し訳ありませんでした。
最後に、本当に長いことご苦労さまでした。
harryさんこんばんは、いらっしゃい。コメントのスピードなんか全然気になさらずに。
> 自分もあったと思います。
> 冷静に第三話を見直すと、貴樹は明里を忘れています。
> そして、明里が手紙を見たことをきっかけに夢を見ます。
> それがシンクロして、貴樹も夢を見ます。それが第一話なのでしょう。
> 貴樹は夢のおかげで、自分が何のために頑張っていたのか、ようやく思い出しました。
> そして、過去を振り返り、いろいろと反省します。
> それが花苗にシンクロして、第二話の夢を見たのでしょう。
> 勝手な妄想です。すいませんm(__)m
やはりシンクロしているんでしょうかね。明里が幸せになったことを自覚したことで貴樹は呪縛から解放され、それは花苗にも伝播したのでしょうか。
コミック版の花苗は、水野さんとともに映像版に較べて非常に優遇されているというか、そのひととなりを詳細に描いていると思います。女性が「秒速」を見ると、花苗に感情移入しやすいらしいので、清家雪子もそうなのかも知れません。その分貴樹のヘタレっぷりが目について、貴樹・明里派の私としては「う~ん」と思うこともあるのですが。
私としては、「One more time,one more chance」の歌詞のごとく、貴樹は無意識に明里の破片を捜しているのだと思います。明里との別れの際の気持ちが、変形し、歪んだ形で「前に進まなければ」という脅迫観念となったのように、明里のことは諦めながら、それでも明里の姿を捜さずにはいられなかったのではないかと。
もちろん、解釈も感想も人それぞれなので、自分なりの感動を持って鑑賞すればいいのですが。
YouTubeで見られる「One more time,one more chance」のPVは、もう一度二人が子供の頃からやり直すかのような終わり方をしますね。同じ事を繰り返すのなら辛いだけですが、今度は二人に引っ越しがないようにと祈るばかりです(せめて中学卒業までは一緒に過ごさせて)。
拝啓 拝読致しました。
秒速病になって早半年、このサイトに巡り合ったおかげで、随分癒されましたし、勉強にもなりました。ありがとうございます。年末の掃除も一息つきましたので(笑)、今年最後の感想は、記事の中で一番書きたかった、また今年種子島へ旅する理由にもなった、この記事の感想を書かせて頂きます。
感想の前に、この話と前回(第10話)の話って、どの位時間が開いていると思われますか?月刊誌に連載されていたので、一月位と考える方が多いと存じますが、
私は一年位後が相応しいと思います。理由として、ラストで花苗と貴樹が再会する様な終わり方になっていますが、貴樹には理紗との別れや踏切でのすれ違いを通じて、前へ進んで、花苗を受け入れるだけの人間に成長する必要があるので、一年位の時間が欲しいかなと考えたからです。
二年以上経つと二人とも三十路に手が届くので(笑)、
20代のうちには結ばせてあげたいですね。
本体の感想は、明日書かせて頂きます。
拝啓 昨日の続きです。感想を書かせて頂きます。
この回は清家さんのオリジナルですから、ファンには賛否両論あるそうですが、私は素直にほっとしました。ベタなハッピーエンドと言われればそれまでですが、(貴樹と明里が結ばれない以上)貴樹と花苗が寄り添う姿が見たいなー、(いわゆる「正典」では無いにせよ)after storyがあればいいなーなんて思います。
この作品では「別れ」「喪失」「引き裂かれ」という言葉が沢山目と耳に入ってきますが、最後の最後くらい「再会」という要素を入れてくれても・・・・ねえ(笑)。
最終話で印象に残ったのは、最終ページの東京の空ですね。仰るとおり最初のページの種子島の空と対比しているのでしょうが、私にはこんなメッセージが浮かんできました。
「種子島の空が好きな花苗さん。どうです?東京の空も素敵でしょう?貴女もきっと好きになってくれると思います。私が貴樹君と引き合わせてあげましょう。貴方達2人は、この空の下で結ばれ、共に歩んでいくのですよ・・・・。これは以前、貴方達が私の空への旅立ちを見送ってくれたお礼です。どうか幸せになってくださいね・・・・・」
このメッセージって、誰が発信したの?????
・・・・この空の遥か彼方にいる「ELISH」でしょう・・・・・
・・・・・って、書いてる自分が恥ずかしくなります。すみません(笑)。
satoruさんこんばんは、いらっしゃい。いつもありがとうございます。
コミック版秒速の9話(例の踏切のシーンです。コミック版ではチビ明里が去って行く貴樹に手を振っていました)と10話の間の時間についてですが、私は実は直後の話だと思っていました。
というのは、クリスマスの夜に悔恨の涙を流した貴樹は、4月になって踏切で明里とすれ違い、そのまま去って行った明里の様子に彼女の幸せを感じ、肩の荷を降ろした風情があったので、(少なくともコミック版では)貴樹はこれまでの呪縛から心が解放されたのだと思います。
元来貴樹という男は悔しいことにモテモテ体質です。そこそこイケメンでとにかく女性に優しいからだと思いますが、雪の一夜の呪縛にかかった状態でもモテモテだった貴樹が、心が解放された状態で一年も経過したら必ず誰か女性とくっついているのではないかと。そして今回は必ず上手くいきそうな予感がするのです。
故に、花苗が貴樹と結ばれるならば、貴樹の心が解放された直後しかないのではないかと。じゃあいつ告るか?今でしょ!一年後だと、せっかく奇跡の再会を果たしたのに、貴樹の傍らには綺麗な女性(貴樹の交際女性はこれまでみんな美人さんですから)が…というシチュエーションになってしまう怖れがあるのではないかと。
もちろん様々な解釈があって当然ですし、そもそも正解なんかないので銘々が自分なりの解釈をしていいのだと思います。貴樹の精神的成長に時間が必要だというsatoruさんの解釈も非常に説得力があると思います。
ただ、花苗って貴樹がもがいている時間の間中、ずっと種子島で一人でいたんでしょうかね。貴樹に似た苦しみを花苗も背負っていたというのはとても可哀想です。別に彼氏をとっかえひっかえしろというつもりはないのですが、何となく花苗は誰とも交際することなく現在に至っているような気がするのです。まさかまだ処…いやいや。
花苗の苦悩の時間をできるだけ早く終わらせるためにも、踏切直後がいいかな、なんて思ってしまうのでした。
satoruさんこんばんは、いらっしゃい。連日コメントありがとうございます。
おっしゃるとおり、コミック版最終話は異論が噴出しているようですね。この話に異議が唱えられる理由の一つとしては、花苗の行動が同じ女性の明里よりも、男性の貴樹に近いからなのではないかと思います。
よく「男性の恋は“名前を付けて保存”、女性の恋は“上書き保存”」なんて言います。秒速をごく表面的に見れば、明里を忘れることができずに恋の失敗を繰り返した貴樹と、貴樹との思い出はさて置き全く別の男性と結婚した明里という二人の姿はまさに上記の表現にぴったり当てはまっているかのようです。
私自身は好きではないのですが、男は○○、女は××といった紋切り型の解釈をしようとする場合、貴樹と明里の対照的な姿はそれにかなり無理なくはまるのですが、コミック版最終話の花苗の存在はそれに異議を唱えるものとなります。すなわち、花苗は女性であるにもかかわらず、貴樹を“上書き保存”することなく、しっかり“名前を付けて保存”してしまっているからです。
故に、自分の解釈を重視した場合、キャラクターの幸せ云々はとりあえず脇にのけて、解釈にそぐわない花苗の行動を排斥したくなるのではないでしょうか。
私自身は、あっさり別の女に乗り換える男がいてもいいし、過去の恋愛に拘る女がいてもいいと思っているので、最終話の花苗については特に異論はないのですが、一点不思議に思うのは、貴樹は明里との「雪の一夜」という大きなアクシデントの末に出会った奇跡的な「理想の恋」を経験したが故に呪縛に囚われたのに対し、花苗は貴樹との間にそれほど劇的なシーンがなかったにも関わらず呪縛に囚われてしまったのはなぜなのかということです。
貴樹と二人でロケットを見上げたあの夕暮れが花苗にとっての「雪の一夜」だったのでしょうか。それじゃインパクトが弱いのではないかというのはあくまで外野の意見なので、花苗自身があれで十分なのだと思うのならそれはそれでいいのですが。
一つの解釈としては、貴樹と明里の過ごした年齢と花苗が貴樹に片思いしていた年齢に差があるということでしょうか。貴樹と明里の恋愛は恋ともいえない幼いものでしたが、中学生になって「雪の一夜」を経験したことで理想の恋となった。一方、花苗は中学2年生という思春期真っ盛りで貴樹に出会って一目惚れし、以後高校3年生になるまでの青春の黄金時代ともいうべき時間を貴樹を想って過ごしてきた。この5年の間の感情の蓄積こそが、今に続く花苗の貴樹へのこだわりになったのだとすれば、それはそうかも知れないなと思えるような気がするのですが、いかがでしょうか?
ただ、花苗には幸せになって貰いたいと思う反面、相手は別に貴樹でなくてもという気持ちもあります。コミック版の亮くんはちょっと…という感じですけど、貴樹に雰囲気が似ている優しい男だったらいいかな、なんて。
とにかく、貴樹の苦悩して足掻いていた日々、その長い時間をそのままに花苗も苦悩を背負っていたというのに私は驚きましたし、花苗にはそんな重荷を背負わせたくないというのが本音です。貴樹があまりに罪深い男になってしまうような気がして。
satoruさん、本年は大変お世話になりました。よろしければ来年も引き続きご贔屓にしていただければと思います。良いお年をお迎え下さい。
拝啓レスありがとうございます。只今帰省途中です。
越後湯沢駅の雪は少なめです。
コミック版の踏切の話って、第10話でしたよね(^_^)?。
色々なご意見、参考になりました。私の頭は、貴樹の恋愛に1年間のインターバルを設けて、禁欲生活をさせるつもりでしたが(笑)。
貴樹が東京で苦しんでいた間、花苗も種子島で苦しんでいた考察は、全く私も同感です。
もし出来るならは、清家さんには
①何故オリジナルの最終話を描いたのか(他作品との関係や、単行本化の都合なのかな?)
②何故ラストは再会を思わせる終わり方にしたのか
③この終わり方に対して、新海監督は何と言ったか
って、聞いてみたいですね。
それでは、良いお年をお迎え下さい。
satoruさんこんばんは、いらっしゃい。あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
実は一時期、「秒速」を女性に見せてみたらどういう感想を持つのかということを知りたくて、何人かの女性に見せてみたことがあります。うち一人は今やビッグネームとなった壇蜜さんで、もう一人は今年ブレイクする予定のグラドル吉住はるなさんでした。
で、その結果ですが…皆さん一様に「面白かった」とは言うのですが、我々「秒速病」患者のようなインパクトを受けた形跡はありませんでした。それで思ったのは、「秒速」は完全に男性向け作品だったのではないかということです。男性は貴樹に自らの気持ちをシンクロさせますが、女性はそうはならないみたいです。
故に、コミック版の作者の清家雪子さんも、本当のところ貴樹の気持ちを理解しかねたのではないかなという気がします。コミック版の貴樹はかなり印象が悪く、特に水野理紗に対する仕打ちは男の風上にも置けないのですが、それは貴樹の「ひととなり」というものを掴みかねてのことなのではないかと。
花苗救済ルートとも思えるコミック版最終話も、清家さんが貴樹ではなく花苗に共感したが故ではないかと思われます。確かに「コスモナウト」の花苗の片思いは、文字通り泣き寝入りという結果で報われませんが、世の女性達の中には同じような気持ちを持っていた時代があるという人も多いのではないかと思われます。
一部の男性が貴樹に共感し、衝撃の受けるのと同様、一部の女性は花苗に同情するのでしょう。明里は別の幸せを見つけますし、水野理紗は映像版ではあまりに出番が少なくて共感し難いので、消去法で言っても花苗しか残っていないという話もありますが。
根拠のある見解ではありませんが、新海監督は、加納版の秒速小説にも文句を付けなかったようなので、コミック版のラストにも特に異論は挟まなかったのではないかと思います。いろんな人がいろんな解釈をしていいというのが監督のスタンスらしいので。貴樹の水野理紗に対する外道ぶりの方には言いたいこともあったのではないかという気もしますが(笑)。
初めまして、そして新年おめでとうございます。
私は2013年5月にYouTubeにて偶然本作品を知り、レビューを見るうちにこちらへ辿り着き半年強が経ちました。
漫画版に始まりアニメと小説を揃えるに至り、まずはお導きに感謝申し上げます。
さて主様は漫画版の貴樹に良くない印象をお持ちですが、私は小説版における水野理紗への冷たさに驚きましたね。
仕事にかまけて次第に放置した挙げ句、ほとんど自然消滅してしまった。
引き留めもせず悔やむことすらあっさりとヤメて強がっています(文庫版P144)
これでは自分を見失ったまま、同じことを女性に繰り返すように思えてなりませんでした。
私の憶測ですが、清家さんはアニメと小説を読み込んで同様の印象を受けたのではないでしょうか。
そこで貴樹をきっちり自分に向き合わせ、再生していくストーリーを再構築した…と思います。
2巻第7話P48~49の同窓会で、酔って絡む竹内女史は清家さん自身の気持ちではないかと。
この最終話については新海さんが“星を追う子ども”公開頃に、ポジティブな花苗に賛辞を述べておられます。
花苗自身の救いはもちろん、“遠くのものに手を伸ばし続ける”という新海イズムが『どんなに遠い存在も…』という花苗のセリフに表現されているからでしょうね。
原作アニメと小説の切なさに比べ、別の意味で乗り越え感の強い良いラストだと思います。
前向きに再生していく貴樹と、新たな想いを抱く花苗にどうか幸あれと願うばかりです。
いきなり最終話の項に来たうえ、この場に適切でない内容を長々と書いてしまいすみません。
towama5011さん初めまして。こんな僻地にようこそいらっしゃい。
「秒速5センチメートル」に限った話ではありませんが、作品をどのように鑑賞し、どのような感想を持つかについては、例え作者がどのような意図をもっていたとしても、完全に鑑賞者に委ねられているのだと思います。だから「秒速」を見た上で、「クソつまらない作品」だと思う人がいたとしても、それはそれでいいというか、仕方のないことだと思います。感性は人それぞれ違いますし、それぞれが自分の感性を最優先するのは当たり前ですから。そんな中、共に「秒速」の物語を愛する人と語らえることは嬉しい限りです。
さはさりながら、貴樹の心理をどのように解釈するかについては、作品を見る順番というものが結構大きな影響力を及ぼしているのではないかと思います。
私の場合は、映像版→コミック版→小説版→加納版の順番に読んだのですが、本来はコミック版までしか買うつもりはありませんでした。ではなぜ小説二作を買ったのかといえば、「秒速」愛もないではないのですが、映像版とコミック版の描写の乖離を埋めたいと思ったからなんですね。
towama5011さんは小説版における水野理紗への冷たさに驚かれたということですが、映像版での水野さんは本当に断片的にしか登場しておらず、貴樹の最新の破局した恋人という以上の人となりがほとんどわからない人でした。せいぜいちょっと地味目で真面目そうという印象程度でした。
小説版は新海誠自ら書き上げたもので、映像版を補完するための作品だったと思います。映像版の印象を壊さない範囲で、貴樹の大学時代の恋愛遍歴や会社の事、水野さんとのなれそめなどが描かれていました。そのため、映像版での貴樹の水野さんへの態度が冷淡(電話に出ないなど)である以上、小説版もそういう描写にせざるを得なかったのではないかと。
異論はあるでしょうがあえて私の意見を書けば、映像版を聖典とした場合、小説版は正典、加納版は外典、そしてコミック版は偽典と称するべきなのではないかと思っています。これは出来云々ではなく、映像版にはないオリジナル要素の入り込み方からの分類です。要するに新海誠自ら書いた小説版は映像版から全く乖離していないのですが、加納版、コミック版と次第に乖離して、作者(加納新太と清家雪子)の自身の解釈が入り込んでいるように見受けます。
そこで私が不満なのは、貴樹がヘタレ野郎になってしまうことなんですね。男性が映像版を見た場合、第一話からしてすでに貴樹とシンクロしている状態にある訳で、第二話での花苗に対する仕打ちも、女性視点ではかなり酷いのかもしれませんが、「雪の一夜」を貴樹と共に体験している男性視点(語弊があれば、私個人の視点ということでも結構です)では「ああいうことがあったんでは仕方ないな」という風に思えてしまうのです。
で、肝心の第三話ですが、明里というか「雪の一夜」の呪縛に心を(はっきりと自覚せずに)囚われている貴樹なので、他の女性と交際しても上手くいかないのは自明の理だなあと思えるのです。ラストの踏切でようやく長かった呪縛から解き放たれたと解釈するか、こんなにも長い間思い続けていても結ばれなかった悲恋と解釈するかは人それぞれなのですが、「秒速」に強いインパクトを受ける人というのは、貴樹の結ばれる相手は明里しかいないと思う人なのだろうと思います。「そんな昔の初恋にうじうじ悩んでいないでさっさと次ぎ行けよ」と思える人にとっては、この作品は大して面白いものではないかも知れません。
コミック版の功績は、あまりにも影が薄かった水野さんの人となりを描いてくれたことなんですが、水野さんがいい人であればあるほど、その彼女を捨てる貴樹のへたれっぷりが目について、「俺の思ってた貴樹はこんなヤツじゃない」という気持ちにさせられてしまうんですよね。岩舟置き去りなんていくらなんでもド外道だと思います。
そして花苗視点で描かれた第二話がある以上、その後の花苗が描かれてもおかしいことはなく、それがコミック版の最終話ということになるのでしょう。ただこの場合は、花苗も10年近く呪縛に囚われて恋愛ができてこなかったということになり、映像版第三話で断片的に描かれる暗い瞳の貴樹の姿、あれが花苗にも同様にあったのかと考えると、あまりにも花苗が可哀想に思えるのです。
だから、私個人としては、花苗にも当然幸せになって欲しいのですが、明里同様貴樹以外の別の人と結ばれ、貴樹の想い出は「決して分けることの出来ない自分の血肉の一部」として大事にしまっておくということでも良かったと思うし、そうであれば花苗のその後については、映像版同様あえて描く必要はないかな、と。
もちろん作品の鑑賞や解釈に正解なんかないので、あくまでの私の個人的な意見です。異論があるのは当然ですし、どのような意見があってもいいと思っております。私も拙いながらハッピーエンドをSSで書いてみたのは、そうしろとゴーストが囁いたからで、ゴーストの囁きが人によって違うことであるのは当然です。
> いきなり最終話の項に来たうえ、この場に適切でない内容を長々と書いてしまいすみません。
そんなことはありません。よくぞ来ていただき、またよくぞコメントを書いていただけたと感謝の心で一杯です。よろしかったらまたおいで下さい。
遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
本年も楽しい記事をよろしくお願いいたします。
年末年始、秒速病の症状がやや重くなっていましたので(笑)、
もう少しここの記事で書かせて頂きます。
私も(特に恋愛に関して)男女で分ける云々は嫌いなのですが・・・。
最近、書店に並ぶ某恋愛小説に「女子が男子に読んでほしい本
№1」という、「そんなランキングどこにあるんじゃ!」と言いたくなる
宣伝文章が付けられていましたが、もし秒速に付けるとなると
「男女で感想が違うアニメ№1」とでもなるんでしょうか(笑)。
他の記事でも書きましたが、ユースフ様と私には「明里派」「花苗派」の
違いがありますが(笑、もうひとつ、捕らえ方に違いがありますね。
盛んに仰っている「漫画版は貴樹がヘタレで・・・・」云々の感想、
実は私はあまり気にならないのです。むしろ「ああ、人間らしい
弱さが出ているな~」とさえ感じてしまいます。もちろん私が
理紗なら怒るでしょうが(笑。
この原因、現在私が漫画版に一番接している(映像は1回観たのみ)
のが理由かなと当初は思いましたが、よく考えると別に理由が
あるみたいです。
やはり貴樹の持つ「弱さ」そしてその弱さゆえに周囲の女性を
傷つける・・・言い方は変ですが「罪に問えない罪」の様な行為に
シンクロ・・・・というか、過去の自分を重ね合わせているのかも
しれません。自分も結構弱さ故に(男女問わず)多くの方に
迷惑を掛けてきた人間なもので。
長々と失礼しました。
でも、あの壇蜜さんにそういうことが出来るお立場であることが
一番すごいですね。
satoruさんこんばんは、いらっしゃい。
私も何事につけ「女だから~」「男だから~」という解釈はそこで思考停止に陥ってしまうような気がするので好きではないのですが、全部をそうとは割り切れませんが男に見られる傾向、女に見られる傾向みたいなものはあるのかなとは思います。「秒速5センチメートル」なんかもそうなのではないかと思います。面白いかどうかというより、思い入れの深さに差があるような気がします。
私は映像と音楽に脳をやられてしまったので、映像版至上主義(原理主義というべきか)なのですが、中心となる媒体が何かにより感想は異なるのでしょう。コミック版の貴樹はいかにも「そういう男、いるいる」という感じで、ダメンズの一種のように描かれていますが、映像版を愛する身からすると、「そんな、映像で描かれていない事を勝手に描くなよ」という気持ちになってしまうのです。
コミック版での水野さんと貴樹の関係は、恋愛は楽しみたいけど結婚には消極的な男が、結婚を匂わされて不機嫌になったという、いかにも世間にありふれているようなもので、わざわざあの「雪の一夜」を経験していてもこれかいと思ってしまうのですよね。
奇跡のような「理想の恋」の降臨であった「雪の一夜」。映像版によって貴樹と共にあれを経験した(つもりの)私からすると、貴樹と明里は特別の存在であって欲しいのです。別に聖人とか天使とか言うつもりはないのですが、常人が通常体験できないことを経験した人として、あまり凡俗のような行動をとって欲しくないというか。
あれさえ経験していなければ、貴樹は普通の恋愛で妥協することが出来たのではないかと思います。花苗だと遠距離恋愛になってしまうのでどうかと思いますが、水野さんはゴールインしてもおかしくなかったと。貴樹をしてそれができなかったのは、やはり「理想の恋」を経験してしまっていたからではないかと。
あれはあのキスした一瞬、長くても「雪の一夜」限りのものだったので、明里と交際したからといって再現できるもなのかどうかわかりません。
ついこの間、大学生時代に再会していたら上手くいくのではないかという妄想をしておいて何ですが、例の踏切で明里が留まっていて、しかも未婚であったとしても、いざ付き合ってみると貴樹は「あれ?明里ってこんなだったっけ?」みたいな違和感を感じてしまうのかも知れません。でも相手が明里なら「いや、こんなもんだろう」と納得することはできたかな、なんて。
作品の鑑賞は人それぞれで、他人が口を出すことではないことは重々承知しているのですが……同じ秒速病患者としてあえて言わせていただくと、映像版の視聴が一回だけというのはもったいないのではないかと。二回三回と見ると新たな発見もありますし、何よりも第三話は一回では理解困難ではないかと。せめて第三話だけでも複数回見ていただきたいなあと思います。
壇蜜さん(私は本名の斉藤さんと呼びたいのですが)に「秒速」を貸したり、彼女からマンガとかを借りたりしていた日々ももう昔。まさしく「想い出は遠くの日々」です。この曲は胸に沁みますよね。
http://www.youtube.com/watch?v=0ZO6LznJ4gY