墨痕:奥右筆秘帖シリーズ第10弾

新学期始まりましておめでとうございます。正月休み明けの早起きはさぞやきついことでしょう。もっともこのブログ、取り上げるネタに古い物が多いので、あまり学生さんは来られていないかも知れません。就労者の皆さん(同士よ!)はとっくに朝の寒風に身を震わせたことでしょう。
そういえばもう一つ気付いたことは、女性の読者が少ないよ~と嘆いておきながら、実際には女性の好みそうな話題をあんまり取り上げていないということですね。餌を撒かずして野鳥の訪れを待つかの如き暗愚ぶりにお口あんぐりです。女性の(特に若くて綺麗な)訪問はもう期待しないことにしましょう。
ということで煩悩を吹っ切ってというか、ある意味開き直って今日の記事を。ちょうど読み終わったばかりの「墨痕」です。

11月20日のブログで上田秀人の奥右筆秘帖シリーズを取り上げましたが、ようやく図書館で第10弾「墨痕」を発見しまして。昨年12月には既に第11弾「天下」も発売されているので、いつも周回遅れになりますが、やはり無料の魔力には勝てません。
借りれぬなら 借りれるまで待とう ホトトギス
このシリーズ、奥右筆というこれまであまり話題にならなかった役職にスポットライトを当てた話題作ですが、読むほどに江戸幕府は実にサラリーマン社会だなあと感じます。もちろん現在よりも色々な身分差やしきたり、縛りはありますが、未来の人が現代社会を見たら、「江戸時代とあんまり変わらないじゃ内」と思うかも知れません。
奥右筆秘帖シリーズの登場人物の大半は、己の野望とか欲望に従って動いていて、時代劇に良く出てくる“忠義一筋の侍”なんてほとんど出てきません。主役の一人、奥右筆組頭の立花併右衛門からして、旗本だから将軍に仕えているわけですが、その将軍家斉暗殺の危機に際して同役と
「上様が代替わりされるのは、我らにとってつごうが悪すぎまする」
「少なくとも敏次郎君(世継ぎ)が、元服なされるまでは上様に生きていただければ」
なんて会話をしています。奥右筆は幕府の役職にあっては大した高官ではないのですが、幕政に関する全ての書類に目を通して吟味する役目を担っており、奥右筆の了承がなければ老中の命令も効果を発揮できないという大きな権限を持っています。これは老中達執政からイニシアチブを奪還しようという五代綱吉によって奥右筆が設けられたからで、そのため奥右筆は老中との折り合いは良くないのですが、将軍の庇護があるので老中達もうかつに手が出せないという構図になっています。

自分で判断できない幼君が立つと、ここぞとばかり老中達が現在の奥右筆達を更迭して自分たちのイエスマンを送り込んでくる……これを彼らは危惧しているのです。これも幕府の行く末を憂慮してというよりは、自分たちの権限の喪失を恐れているからという方が強いようです。なにしろ併右衛門は立身出世に血なまこになってきましたから。200俵の小普請組(無役)だった彼は必死に運動して役職に就き、さらに業務に励んで400石の奥右筆組頭になりました。シリーズが始まってからは様々な命の危機を乗り越えて、「墨痕」ではついに700石に加増され、騎乗で城に通勤する資格を得るまでになりました。
ところで平和そのものだったように思える文化文政期ですが、このシリーズでは凄まじい権力闘争が描かれています。自分の息子が将軍になったというのに、現在の身分に飽き足らず自身が将軍になることを望む一橋治済(はるさだ)、幼君の大老となって
寛政の改革を続行したい松平定信、王政復古の機運を高めたい朝廷の意向を受けた上野寛永寺、さらには権力の拡大を企図する老中達、将軍の外祖父になりたい薩摩藩、お庭番から探索・隠密の任務を奪還したい伊賀組同心などが複雑に絡み合って互いに陰謀を画策します。その離合集散ぶりは凄まじく、飼犬にしたと思った者が手を噛みにくることもあります。

現代社会においても、会社なり組織に属していても、その勤め先に必死の忠誠を尽くしていると断言できる人はほとんどいないのではないでしょうか。大抵はお金とか生活維持とかが主目的ですよね。自己実現なってちょっと高尚な理由がある方もいるかも知れませんが、そういう人は幸せかもしれません。まあ自分の目的と会社なり組織の目的が合致していればいいわけで、一部の職種を除いては生死をかけて職務を全うしようとするまでの覚悟はないでしょう。
ただ、このシリーズでは、ごくわずかながらそういう存在もいるのです。例えば将軍家斉にはお庭番が、それこを身命を賭して仕えています。その父一橋治済は御三卿で、家臣の大半は旗本・御家人の出向者ですが、元甲賀忍者の名門望月家出身の冥府防人とその妹の絹は関税に忠誠を誓っています。二人だけとはいえこの兄妹がやたら強くて誰も歯が立ちません。そして立花併右衛門にもようやく娘婿に内定した柊衛悟(もう一人の主人公である剣術遣い)がいます。彼がいなければ併右衛門は10回くらい死んでいることでしょう。上野寛永寺にも日光から呼んだお山衆という手足の如き僧兵集団がいます。

一方、松平定信や老中達にも大名なので数多の家臣がいますが、彼らもやはり幕府に仕える旗本・御家人のごとくそれぞれの立場や希望があるでしょうし、何より特殊能力を持つ者がいないので、彼らの野望や陰謀にとってはあまり頼りにはならないようです。数多の家臣を持つよりも、少数精鋭の股肱の臣がいるほうが羨ましい感じがします。水戸黄門一行も少数ながら精鋭揃いで日本中を回ってましたし、時代劇ではヒーローは常に少数精鋭ですね。
さて「墨痕」では前巻「召抱」に引き続いて上野寛永寺と松平定信が結託して家斉暗殺を図りますが、またもや失敗に終わり、お山衆は壊滅し、定信も野望が潰えたことを自覚します。今後は一橋治済(はるさだ)と家斉の父子対決となるのでしょうか。しかし、朝廷側も新たに東寺から新しい僧侶が派遣されてきたのでまだまだ手を打ってきそうです(反面、一巻から出ていた寛永寺の幹部であった僧侶は死んだようです。なんか特撮ヒーローものの悪の組織の幹部交代みたいですね)。
併右衛門も将軍の庇護下とはいえ、あまり秘密を知りすぎるようなら殺せとお庭番が言いつかっていたりして油断がなりません。そろそろ結末に向かって走り出すのでしょうか?しかし現在まだ寛政期。家斉も治済も長生きだからまだまだ死なないんですよね……
そういえば伊賀組組頭の藤林、松平定信と一橋治済に二股かけたり将軍家斉を狙ったり、果ては併右衛門を狙ったりと実に忍者らしく様々な画策を行ってきましたが、ここに来てやはり将軍に付くことに決めたようで、お山衆の暗殺を阻止しましたが、その時のセリフが
「あたらなければ、どうということはない」

……お前はシャアか!!これは狙ったでしょう、作者(笑)。
第11弾「天下」も2ヶ月位経ったら読めるでしょうか。どれ、果報は寝て待つとしましょう。

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