小説:パラダイム・シフト(前編)
早朝の更新で失礼します。ちょっと所用がありまして。本日は久々に拙作を掲載させていただきます。3回の予定です。だいぶ前に書いてshobunoさんと壇蜜さんに送ったのですが、何の反響もなかったというある意味「問題作」ですが(笑)。
それではよろしくお願いします。
パラダイム・シフト(前編)
1
ふと顔をあげて向かいの壁にかかった時計を見たら午後10時過ぎだった。職員室に一人きりになってもう2時間か…。僕は両手を突き上げて大きな伸びをする。肩がばきばきと音をたてて鳴るほど凝っている。大き目な湯呑の底に残っている冷たくなった出涸らしのお茶をぐいっとあおり、さあ今日こそは午前様になる前に帰ろうと試験問題作りを再開しようとしたまさにその時、目の前に彼女が現れた。
艶やかな黒髪は腰近くまで伸び、人間離れするほど整った顔には宝石のような光が瞬く大きな瞳がじっと僕を見つめている。わが校の制服をきっちり着こなしたその姿はいかにも模範的な生徒だったが、今の時刻が問題だ。
「君……一体どうしたんだ、こんな時間に?何か忘れ物でも…」
もっと重要なことに気付いていながら、僕は間の抜けた質問をしてしまう。口角をわずかに上げた、くすっいう笑いとともに、彼女はその美貌に見合ったやや低めの深く穏やかな声を聞かせてくれる。
「……そんなことより、もっと大事な質問がおありじゃありません?清正先生。」
彼女は僕の綽名を知っていた。わが校の生徒なら当然といえば当然なのだが。
「あー…失礼かもしれないが、君はここの生徒なのかい?ちょっと似てる子がいると思ったが勘違いのようだ。よく見るとどうも見覚えがないようなのだが。」
2時間ほど前に泣きながら去っていた女生徒のことを想い浮かべながら僕が言うと、彼女はにっこり笑う。大輪が咲いたような笑顔で、職員室が急に明るくなったような気がする。
「そう、それです清正先生。私はここの生徒じゃありません。この制服はまあ便宜上の措置です。いきなり先生を驚かせないようにという。私は…」
「生徒じゃない?こんな時間に、部外者が、わが校の制服を着て、こんなところで、何をしているんだ?だいたい僕の名字は加藤であってだね、生徒達はともかく部外者がそういう呼び方をするのは…」
思わず彼女の発言を遮って、僕は頭の中からあふれ出てきた疑問をぶつけてしまう。しかし、彼女が右手を優雅に挙げて僕に白い手のひらを見せると、僕の口はおのずと閉ざされてしまう。
「落ち着いてくださいな、先生。今お見せしますから。」
そして軽やかにジャンプすると、通路を隔てて僕の机の向かいにある毛利先生―そういえば彼にも「そうせい公」という綽名があったな―の机に愛らしくちょこんと腰を載せた。次の瞬間、彼女はまばゆい光につつまれる。その光は一瞬で消えたものの。
2
「う、うわっ…き、君は…一体?」
顔は確かに彼女のままだった。しかし、高校生離れした美しいプロポーションを見せる身体には、張り付くようにぴったりした薄物がごくわずかに身体を覆うのみ。真っ白な肩や腕を露出し、婀娜っぽく組んだすらりとした両脚もその付け根近くから艶めかしい素肌を覗かせている。いや、それは大したことじゃない。彼女の背中からは純白の羽毛の翼と蝙蝠に似た漆黒の翼が、一対ずつ四枚も伸びていた。そして艶やかな黒髪からはやはり漆黒の細長い角が2本突き出し、その周囲には白金色に輝く環が浮かんでいる。
「ご覧のとおり、人外なの。人によって様々な姿に見えるから、天使・悪魔・妖精・精霊・意識体・旧支配者なんて色々な呼ばれ方をしてきたけど、要するに人外の存在が人間との接触を円滑に行うための媒体とか端末みたいなものね。今風にいうとインターフェースとかアバターってやつなのかしら?」
艶やかな微笑みはさっきと変らないけど、口調はやや砕けて蓮っ葉になった気がする。
「アバター…?単語はわかるが意味がよくわからない。まるで天使と悪魔がごっちゃに混ざったような…もしかして、天使と悪魔のハーフ?」
「なあに、ハーフって…まるで不義の子みたいじゃない。」
けらけらと喉をのけぞらせて哄笑する彼女。だが不思議と彼女を笑わせたことが嬉しく思える。
「私の姿は見る人の願望とか立場によって様々に解釈されるのよ。美女とか美男子はもとより、場合によっては醜い老婆だったり、威厳のあるおじいさんだったり、無邪気そうな子供だったり、時には大きな龍だったりね。だから、今の私の姿は先生なりの解釈なの。天使か悪魔か判断できないってとこかしらね。」
「え、じゃ、じゃあ美少女の姿をしているのは…僕の願望?ああ、なんてあさましい煩悩の塊…。」
僕は頭を抱えて呻く。これじゃいけない。僕のモットーに反する。どうして克服できないんだ。
「あ、これ?ご心配なく。コスチュームはともかくとして、この姿は私の都合なの。こういうケースはごく珍しいのだけど。理由は追々わかるわ。それより、私が人外の存在であることは理解していただけたかしら?」
可憐に小首をかしげて尋ねる彼女。なぜか彼女の発言は僕自身が驚くほど腑に落ちるものだった。
「…わかった。人外なんていうと化け物みたいだから抵抗があるが…。人智を遥かに超えた存在であることははっきり理解できた。それも君の力のなせる業なのかも知れないが。」
彼女の砕けた物言いのおかげで、異様な状況にも関わらず、僕もわりと普通に話せるようだ。それも彼女の意図によるものなのだろうが。
「しかし何だって僕なんかのところに?君は救世主とか預言者とかに奇跡とか啓示を与えるような存在なんだろう?世界には君を求める人たちがごまんといるんじゃないか。」
異形の美少女はこくこくと可憐にうなずく。
「先生の言いたいことはわかるわ。どうしてこんな凡俗のところにやってきたのかってことよね。手っ取り早く説明すると、私は人間の都合で現れるものではないってこと。あくまで私の方の都合でのみ出てくるのよ。」
「そちらの都合か。まあ、そうなんだろうな。戦争とか飢餓とか病気で多くの人々が死んだり苦しんだりしている時に、君が救済に出てきたなんて話は聞かないし。」
僕なりに精いっぱい皮肉をきかせたセリフのつもりだったが。
「そういうこと。基本的に人間の…というか、世界のなりゆきには一切介入しないの。世界はそこに住む人々が自ら運営し、進行させていくものだから。良い方向へも悪い方向へもね。」
彼女は僕の言葉を全く意に介さない。しかしまあ、こんなにも可愛らしい顔でなんと可愛くないことを言っているのだろう。
「…なるほど。じゃあ、どうしてこんなところに?」
「当然の疑問よね。じゃあ本題に入るわよ、先生。」
彼女の星をちりばめた夜空のような大きな瞳がじっと僕を見つめる。その視線を外すことができず、僕も彼女を見つめかえす。
3
「加藤誠46歳。生徒や同僚からの通称は“清正”。加藤という姓と、皆に知れ渡ったモットーの“清く正しく誠実に”に由来。一貫して二流の学校を卒業後、翔琶女子大学附属高等学校に奉職して24年目。いまだに管理職はおろか教務主任や学年主任、生徒指導主任などにも縁のない平教諭。家族は十人並みの妻とあまり出来の良くない子供が二人。30年ローンの建売住宅に居住し、10年落ちの中古車で通勤……ざっと基本的な人定情報はこんなところね。」
彼女は淀みなくプライバシーを暴きたてていったが、僕は腹も立たなかった。内容がことごとく正鵠を射ていたというばかりではなく、まるで“神の託宣”のごとき響きがあったからだ。まあ彼女の説明が正しいのなら、彼女は何らかの超越者の使者な訳だから、当たり前と言えば当たり前かも知れないが。
「…うだつの上がらない中年教師であることは認めるよ。」
自嘲気味に気弱に笑う僕を意にも介さず、精緻な顔に営業スマイルのような微笑みを貼り付けた彼女は暴露を続ける。
「自身のモットーである“清く正しく誠実に”を、周囲にも公言しながら貫き続けて40年近く。その信念と要領の悪さにつけこまれて学校の雑務を押し付けられることも多々あり、同僚教師からは“清正”ではなく“雑務主任”と陰口を叩かれる方が多いくらい。今日も狡猾な同僚から試験問題の作成を頼まれてお一人様で残業中。」
「…僕は、人一倍努力することで、ようやく人並みにやれてるようなものだから。」
「しかーし、どういう訳か生徒達には昔から割と人気がある。分け隔てなく親切に接するってだけではなく、要領の悪さが女生徒達の母性本能や保護欲をくすぐるのかも知れない。年に数回は生徒から“愛の告白”を受け、これまでの通算はなんと50人以上。つい先ほども学年、いや学校一の美少女から『先生、抱いて下さい。』と迫られ…」
「ちょ、ちょっと待った!」
僕はたまりかねて彼女の発言に割り込む。
「確かにどういうわけか僕を慕ってくれる子たちは時々いる。いるのは事実だけど、これまで一度だって不適切な関係を持ったことはないんだ。」
彼女はまさににんまりとした満面の笑みを浮かべる。
「でも…あなたの奥さん…この学校の出身よねえ?」
「ええ?…そ、そうだけど、妻が在学中にそういうことは一切なかった。昔の校長の仲介で見合いをして交際を始めた後で、ここの卒業生だって判ったくらいで…」
うふふ…と妖艶に笑った後、彼女はぴょこんと頭を下げる。
「ごめんなさい。ちょっとからかってみただけ。知っているわ。見事なまでの石部金吉の半生よね。清正先生より金吉先生の方が良くないかしら?」
「…それは生徒達に言ってくれよ。そ、それより、さっきの夏目君のことだけど…」
「ええ。2時間前位かしらね。学校一の美少女、あなたが担任を務める3年C組の夏目千鶴を前にして『一時の感情に流されて君の将来を傷つけてはいけないよ。君が本当に愛し、君を本当に愛してくれる人のために君は君自身を大切にしなくちゃいけない。』なんて恰好つけたりしてね。内心では彼女を抱き締めて唇を奪って押し倒すような妄想を抱いていたくせに。」
そこまで把握しているのか彼女は…いや、もとより隠し事はなしだ。僕は唸り声をあげながら認める。
「…そのとおり、僕は口先で綺麗事を言っている。心の中では裏腹にそういう醜悪な欲望を抱いていた。それを罪だというのならどうか厳しい罰を…」
彼女は少し慌てたように両手を身体の前で振った。
「ああ、いやいや罪じゃない罪じゃないの。…ついからかいたくなっちゃうのよね。どうも調子が出ないな。こういうところが人気の秘訣なのかしら。」
こほん、と愛らしく咳払いをする彼女。
「ちょっと事務的に説明するわね。あなたの抱いた欲望は、それ自体別に異常でもなんでもないの。ああいう美少女を前にすれば男なら誰でも抱くようなものだし、そもそも思うことと実行することの間には決定的な差、または越えられない壁があって…要するに、私はあなたを罰するとか叱責するために来た訳ではないのです。これをまずはっきりさせておきます。」
暗記したマニュアルを棒読みする保険の外交員のような口調で彼女が続ける
「あなたは様々な欲望の誘惑にも負けることなく、“清く正しく誠実に”のモットーを貫き通し、相手の幸福を心から願い、明るい未来が訪れることを祈念してきた。その行為は誠に賞賛に値するものです。」
実際に彼女は小さくぱちぱちと拍手をした。からかっているように見えなかったのは、その表情がいかにも厳粛に見えたから。
「さっきも言ったとおり、私は基本的に世界に介入することはありません。この世界を回していくのはこの世界に住む者の務めです…良かれ悪しかれ。ただし…」
こころなしか彼女の瞳の光が強くなり、形の良い眉がきりりと引き締まり、怒りにも似た表情を作る。
「この世界そのものが破壊されるような事態は防がねばなりません。そのために私はやって来たのです。」
僕は茫然とした。
「それは…ぼ、僕が世界を破壊しようとしているってこと?ど、どうしてそういうことになるのか、け、見当もつかない。」
「でしょうね。私もあなたが世界を滅ぼそうとしてるなんて思っていないわ。結果的にそういうことになってしまう、と言うべきかしら。」
彼女はマニュアル説明路線をやめ、元の口調に戻っていた。
「…どういうことなんだ?」
「つまり…あなたの取った行動とその結果が極めて不一致な状況が続いているということよ。」
(中編に続きます)
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