鳥取再び(その2):米子超短期観光

昨夜から栗林公園で恒例の秋のライトアップが始まっています。こういう幻想的な光景が随所に…といいたいところですが、これは明らかにプロの仕業。こんなのはなかなか撮れません。

昨年行った私のベストショットはこれ。まだ見たことがないという方はぜひ一度ご覧頂きたいですが、年パスも切れてしまったので私は今年はいいかな。

さて鳥取紀行の続きです。境港に泊まった翌日、境線で米子に戻りました。行きはねずみ男列車でしたが、帰りは普通の列車。

米子駅で特急やくもに乗り換えになりますが、まっすぐ帰るには早すぎるし、米子を訪れるのは何気に初めてなので、ちょっと観光に。米子駅は工事中。

来春にはこういうふうに変わるそうです。おしゃれですね。でも私は鄙びた駅舎も好きですよ。
さて途中下車して向かうは米子城址。湊山という90メートルぐらいの小山というか丘の上に建っていましたが、城郭は明治期に取り壊されました。戦国時代には隣接する飯山に砦がありましたが、江戸時代になって湊山に近世城郭が築かれました。

四重天守と四重櫓を有し、30棟の櫓と20棟の門が建てられ、城域の周囲に張り巡らされた堀には海水をひき入れていたそうです。なので城としては平山城にして海城ということになるでしょうか。本丸に向かう道はこんな感じでした。

仰ぎ見る本丸跡。中腹には石仏がたくさんあって、四国霊場八十八ヶ所に対応しているそうです。つまり米子城址を巡ると四国八十八カ所が巡れるという。ただし単純に山頂を目指している場合は全部を回ることはできません。私は巡礼に興味がないのでとにかく山頂を目指します。疲れるのが判っているのに高いところに登りたがるのは“性”というやつでしょうか。

やっと辿り着いた山頂。ここに本丸がありました。小山ですが、頂上からの眺めはなかなかのものです。

西側には日本で5番目に大きな湖である中海が見えます。中海は日本海に開いた湾口が砂州で塞がれてできた潟湖で、東は境水道で日本海とつながり、西は大橋川を通じて宍道湖と繋がっています。中海と宍道湖は日本で数少ない連結汽水湖でもあります。

北側。町並の向こうに弓ヶ浜、そして日本海が見えます。

東側。伯耆富士こと大山が見えるはずなんですが、この日が雲が多くて裾野しか見えませんでした。残念。

城郭はなくなっても石垣だけは残っています。米子城は1600(慶長5)年に城主となった中村一忠が築きました。パパンは豊臣家の三中老の一人・中村一氏。五大老と五奉行との意見が合わないときの仲裁役が三中老とされますが、三中老制度が実際にあったかについては疑問の声もあります。

折しも晩秋。荒城の月の歌詞が思い浮かばれますね。11歳で大名となった一忠は、わずか20歳で急死し、伯耆一国17万5000石を支配した米子藩はあえなく断絶。その後因幡の国主だった鳥取藩の池田光政が伯耆も所領としました。米子城は家老の荒尾但馬家が城代として駐在しました。1615(慶長20)年に一国一城令が発布され、諸大名に対し、居城以外のすべての城の破却が命じられましたが、一つの大名家が複数の令制国に跨がって領有している場合は、各令制国ごとに一城は認められました。なんと池田家は因幡、伯耆の二令制国で三城の所有が認められ、居城の鳥取城の他、米子城と倉吉城を持っていました(但し倉吉城は陣屋扱い)。鳥取池田家は徳川将軍家の親戚でもあって信用絶大で、西の毛利家への備えという点からも特別に三城が許されたのではないかと言われています。

こちらは内膳丸に向かう道。湊山と峰続きの丸山(標高52メートル)にあります。中村一忠の家老である横田内膳正村詮が担当して構築したため「内膳丸」と呼ばれるいます。この人は幼少の一忠の後見役として家康が派遣した人物で、城下町の建設、検地、運河の造成などで現在の米子市の礎を築いた優秀な才覚を発揮しましたが、これによって一忠の側近に妬まれ、暗殺されることに。しかし天下人の家康が派遣した人物を暗殺したらどうなるか、考えなかったのでしょうかね。

内膳丸跡から本丸を見上げています。今は秋風が吹くばかり。

運動してお腹が空きました。駅弁を買ってやくもの車中でいただくのもいいのですが、まだ時間があったので米子駅近くの中華料理店「大連」に。

名物は元は賄いだったみそちゃんぽんだそうですが、店長オススメのセットメニュー「ちゃーラーセット」を頼みました。チャーハン小盛+ラーメン小盛で800円。チャーハンはカレーチャーハンも選べます。ラーメンもチャーハンも美味しかったです。


ホテルで貰ったクーポン券を使わねばと、お土産を買いました。メルカリが昨夏行った企画「インディーズ土産全国デビューへの道」でNO.1土産に選ばれた「因幡の白うさぎ」。ウサギ型で可愛いですが、頭から痛快丸かじりしてしまうことになるという。

米子駅前には、今にも空に舞い上がろうとしている銀河超特急999のようなモニュメントが。造られたのは1995年4月だそうで、“「山陰鉄道発祥の地」米子の交通拠点としてのイメージと「21世紀の国際交流都市」を目指した街づくりの姿をダイナミックな蒸気機関車のフォルムに重ね合わせ、天空へと向かって今走り出す瞬間を造形化しています”とのことです。山陰地方で最初に鉄道が開通したのは1902年のことで、境港~米子~御来屋間だったそうな。しかしどうみても999…いや、いいんですが。

特急やくもに乗ってさらば鳥取。車窓から、米子城では見えなかった大山が姿を見せてくれました。まるで別れの挨拶をするよう。
スポンサーサイト