ことでん全線踏破計画(その2):志度線の終点には寺あり伝説あり

晩秋の11月、ようやく秋たけなわといった感じの今日この頃ですが、明日は立冬。毎年テレビなどで「暦の上ではもう冬」などと報じられる日ですね。“秋が極まり冬の気配が立ち始める日”ということなので、実際には秋真っ盛りといった状態な訳ですが。考えてみれば立秋は夏真っ盛りだし、立春も冬真っ盛りですよね。

さてそんな行楽の秋なので、先週に引き続き「ことでん」全線踏破を目指していきましょう。今回は最後に残った志度線(瓦町駅-琴電志度駅 12.5Km、16駅)に乗車しました。国道11号線やJR四国の高徳線と平行して走っているので、ライバルが多いという感じですが、その中では一番北側を走っています。

ラインカラーはローズピンク。12.5Kmしかないのに16駅もあるということで、間隔が1キロない駅が多いです。まるでバス…。平行して走っている高徳線は駅数が少なく、特急も走っているので、所要時間の少なさでは高徳線に分がありますが、運転本数は志度線の方が多いようです。

海沿いを走るので海岸線が楽しめるほか、屋島や五剣山といった名所も見ることが出来るので、ことでん三線で一番乗っているのが楽しい路線ではないかと思います。屋島には四国八十八カ所第八十四番札所の屋島寺、五剣山には第八十五番札所の八栗寺があります。

五剣山は五つの大きな峰があることからこの名前が付きましたが、今見ると峰は四つしかありません。一番西側の五の剣は1707年の宝永地震で割れてしまったそうです。他の峰も風化が激しく危険なため、入山禁止となっています。

では終点の志度駅には何があるかと言うと、第八十六番札所の志度寺があります。前回訪れた長尾線終点の長尾駅には第八十七番札所の長尾寺がありましたが、両寺の距離は直線にして5キロくらいです。最後の札所である第八十八番札所の大窪寺は長尾寺の南南東10キロくらいの所にあって、最後は巡礼者に結構苦労させるようになっているような気がします。屋島寺から長尾寺までの四寺の間隔は地図上そんなにありませんが、屋島寺と八栗寺は山の上にあるので、登り降りは結構大変かも。

琴電志度駅の駅舎。いかにもレトロな木造駅舎です。日曜ということもあったかもですが、乗客が非常に少なく、それも途中で降りていくので、ここまで乗ったのは私だけでした。

実はこの志度という場所、江戸時代中期のマルチタレント・平賀源内の生誕地でもあります。どれだけマルチだったかと言うと、Wikipediaで“本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家”と記載されているほどです。志度寺に向かう途中に平賀源内記念館がありました。入らなかったので外見だけ。

平成初期に「水戸黄門」とか「大岡越前」といった時代劇を放映していたTBS系「ナショナル劇場」で、「翔んでる!平賀源内」が放映されたことがありました。もちろん主人公は平賀源内で、西田敏行が演じていました。源内が発明品を使って様々な事件を解決していくという勧善懲悪ものでしたが、続編は制作されなかったですね。

「日本のダ・ヴィンチ」とさえ呼ばれ、天才の名を欲しいままにした源内ですが、当時は色物扱いされて社会に受け入れらることがなく、失意の中で誤って人を殺傷して投獄され、破傷風で獄死することに。

墓は浅草付近にあるそうですが、志度寺そばの自性院が平賀家の菩提寺で、源内の義弟が建てたという墓がありました。意外に質素なので見落としそうですが、「源内さんの墓」という立て札のおかげですぐ判りました。

志度寺の山門。長尾寺のように巨大な草鞋がありますが、その背後にはちゃんと仁王像もありました。長尾寺と比べてかなり境内が大きい寺です。重要文化財。

長尾寺にはなかった五重塔もあります。1975年建立ということでわりと最近のものですが。高さ33メートル。

本堂。高松藩初代藩主松平頼重の寄進で、1670年建立。重要文化財。

大師堂。志度寺は真言宗なので弘法大師で間違いなし。以前は中に入れたそうですが、今は外から見るのみ。

閻魔堂。十一面閻魔大王が鎮座しているそうですが、外からは見えません。

薬師堂。薬師如来坐像が鎮座しているそうです。

お辻の井戸。仇討ちものの歌舞伎「花上野誉石碑」で、主人公坊太郎の乳母お辻が水垢離した井戸だそうです。歌舞伎は興味がないので深く突っ込まないようにしましょう。

曲水式庭園。室町時代に四国管領であった細川氏によって造成された庭園だそうですが、久しく整備されていないらしく、庭園というより石のある野原みたいな感じに。拝観料を取られないので文句は言えませんが…ご覧の有様だよ。

実はこの志度寺、八十八カ所の札所というだけでなく、「海女の玉取り伝説」の舞台でもあります。この石塔群が海女の墓とされるもので、伝説では千基の石塔があったとか。今は20基余ほどが残っています。この伝説はかなりスケールが大きいものです。

伝説によると、藤原氏の祖であり飛鳥時代の大物政治家である藤原鎌足が亡くなった際、唐の三代皇帝高宗に嫁いでいた娘・白光が追善のために三つの宝物を贈りましたが、宝物を乗せた船が志度浦にさしかかった時、竜神が三つの宝物のうち「面向不背(めんこうふはい)の玉」を奪ってしまったそうです。

鎌足の子不比等は、玉を取り戻すために身分を隠して志度へ赴きますが、その際現地の海女と恋に落ち、一子房前をもうけました。不比等は素性を明かし、海女に玉の奪還を頼んだところ、海女は房前を藤原家の跡取りにする約束でこれを承諾。海女は竜神に襲われて命を落としましたが、玉を取り戻すことには成功しました。

約束どおり房前は藤原家を継ぎ、大臣に出世しましたが、ある日不比等から母の死の理由を聞かされたことで、志度を訪問し、千基の石塔を志度寺に建て、菩提を弔いましたった。

史実からすると、鎌足の娘が唐の皇帝に嫁いだという話なんてそもそもなく、不比等の次男房前は実在の人物ですが母は蘇我娼子(兄の武智麻呂、弟の宇合も同じ)なので、志度の海女の出てくる余地はないのですが…房前が祖となる藤原北家は藤原四家の中で最も繁栄し、五摂家の他、明治維新時に137家あった堂上家(上級貴族)のうち93家を藤原北家が占めていました。

そして志度駅の二つ手前には房前駅があります。藤原房前は「ふささき」と読みますが、駅名は「ふさざき」です。

志度寺の前には今も海が。右側は八栗寺がある五剣山、左側は屋島寺がある屋島です。
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