ことでん全線踏破計画(その1):長尾線を終点まで乗ると、すぐそこに長尾寺

恒例の栗林公園秋のライトアップ、今年は11月18日(金)~27日(日)の10日間だそうです。一見の価値はあるので、高松旅行を考えている人はぜひ。いつまであるか判らないサンライズ瀬戸を利用して、なんてオツかも知れませんね。

秋は行楽シーズンなので、私も小さな旅をしているところですが、ふと思ったのは、「ことでん」を全線踏破してみようということです。ことでん、正式名称「高松琴平電気鉄道」は香川県唯一の私鉄で、キャッチフレーズは「うみ・まち・さと - 心でむすぶ」。

現在3つの路線を持っており、そごうグループと提携したのが仇となって、そごうグループの経営破綻の余波を受けて21世紀早々に経営難に陥ったりもしましたが、なんとか再建を果たしています。

本線にあたる琴平線(高松築港駅-琴電琴平駅 32.9Km、23駅)は、昨春金刀比羅宮に行くのに利用して踏破を完了しているので、今回は残る長尾線(瓦町駅-長尾駅 14.6Km、16駅)と志度線(瓦町駅-琴電志度駅 12.5Km、16駅)のうち、まず長尾線を攻略します。

琴平線の電車はラインカラーが黄色ですが、長尾線は緑色。ことでんは軌間、すなわち線路の幅が1435mm。これは標準軌と呼ばれ、世界で最も普及している軌間です。JRだと新幹線だけがこれで、大半の路線は1067mm(狭軌)です。狭軌の方が曲がりやすいとか低コストといった特徴がありますが、1900年代以降に建設された私鉄は標準軌を採用する例が多いようです。ことでんの走る香川平野は急カーブもトンネルもないので、鉄道は敷きやすかったことでしょう。

路線は水田と民家が合い混ぜになった中を走り、電車が走るすぐそばに住宅があったりするあたり、江ノ電を彷彿とさせます。始発駅は高松築港駅ですが、瓦町駅まで琴平線を走ります。無人駅も多く、全列車に車掌が乗務しており、精算や車内補充券の発売、IC乗車カード(IruCa)へチャージ、無人駅での集札、車内放送などを行っており、大忙しな様子です。瓦町駅は駅ビル(瓦町FLAG)が建っており、JR高松駅よりもシティライクな雰囲気があります。

終点長尾駅はまるで民家のような駅舎。個人的にはローカル線の終着駅的な味わいがあって嫌いじゃありません。ここには何があるのかと言えば、四国八十八箇所の長尾寺があります。開業当初は長尾寺への参拝路線という性格があったそうですが、今では郊外路線。

それでは長尾寺に行ってみましょう。四国八十八箇所霊場の第八十七番札所ということで、ブービー賞な(?)寺です。

こちらが山門。仁王がいるべき場所になぜか巨大な草鞋がぶら下がっています。江戸時代前期の1670年建立で、三つ棟木という珍しい工法が使われており、Wikipediaには“日本三大名門の一つという。”との記述がありますが、こんな小さな門が?「あなたの感想ですよね」「なんかそういうデータあるんですか?」とツッコみたくなりますね。

日本三大門というと南禅寺(京都府・上画像)、東福寺(京都府)、久遠寺(山梨県)が挙げられていますが、日本三大名門というのはググっても出てきません。麻布・開成・武蔵といった私立男子御三家や、桜蔭、女子学院、雙葉といった女子御三家が出てきたりします。た、たしかに名門だが。


この山門の手前に出来損ないの石灯籠のようなものがあります。これは経幢(きょうどう)と呼ばれ、鎌倉時代のもので、左側(東側)が1286年、右側(西側)が1283年のもの。経幢は多角形の長い石柱に、尊勝陀羅尼経などを刻んだもので、中国の唐代に始まり、日本でも鎌倉中期頃から作られたそうです。長尾寺のものは屈指の古さということで、重要文化財に指定されていますが、凝灰岩製なので風化が激しいようです。

境内の巨木。クスノキで、樹高19m、胸高幹周5.45m、枝張り25×22.1m。香川の保存木となっています。

本堂。奈良時代の739年に有名な行基がこの地を訪れ、霊感を得て柳の木で聖観世音菩薩像を彫り、堂宇を建立して安置したのが始まりだそうです。

大師堂。大正時代に再建された者。四国八十八箇所霊場は弘法大師に縁のある寺なので、長尾寺も真言宗でしたが、江戸時代に天台宗に改宗されており、今も宗派は天台宗。ではここの大師とは弘法大師ではなく実は伝教大師だったりして(笑)。


薬師堂(上)と護摩堂(下)。

長尾天満自在天神宮。平安時代の長尾寺の住職と讃岐国司を務めた菅原道真は親交があったそうで、道真が太宰府へ左遷された際には互いに別れを惜しんだという古事があります。建立は江戸時代中期。

静御前剃髪塚。源義経の愛妾だった静御前については、吉野で義経と別れた後母の磯禅師と共に鎌倉に送られ、鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられ「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しきなどと歌って」などと義経を慕う歌を唄い、その後義経の子を産んだものの男子だったため由比ヶ浜に沈められてしまいました。

その後北条政子や大姫(頼朝と政子の娘)に多くの重宝を与えられて母と共に京に帰され、それからの消息は不明となっていますが、各地に様々な伝承が残っています。ここ長尾寺には、母と共に母の故郷である讃岐に帰り、長尾寺で得度を受け、宥心尼と名を改めて信仰の日々を送った後、24歳で短い生涯を閉じたという伝承があります。小野小町もそうですが、美人だと各地に伝承が残りますね。

長尾寺は小さいお寺でしたが、拝観料を取られないのがいいですね。私が訪問した時は檀家らしき方々が境内の清掃を行っていました。八十八箇所巡礼をちゃんとした場合、次が最後の寺(大窪寺)なんですが、距離は15kmもあるという。

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