岡山遠征(その2):吉備津神社と吉備津彦神社

本日、四国は九州北部、中国と共に梅雨入りしたとみられるとの発表が。平年より21日も早く、統計史上最も早い梅雨入りだそうです。瀬戸内海地方は雨が少ないとかねて聞いていたところ、私が四国に来てからは結構雨が降っているなあと思っていたところでしたが、梅雨まで早く来るとは。今年とんでもない雨男が四国に来たんでしょうかね。多分私ではないと思うのですが…。ま、晴女とか雨男とか、そんなオカルトありえませんけどね。

先週に続いて岡山遠征の話です。岡山は16日から北海道・広島と共に緊急事態宣言の対象となっていますが、訪問はそれ以前の話なのであしからず。予約してしまったので大阪に泊まった私ですが、予定していた飲み会は緊急事態宣言のせいで当然開催できず、朝すごすごと退散しました。

そして再び岡山に。岡山駅で桃太郎線の愛称を持つ吉備線に乗り換えて吉備津駅に向かいます。発車の際の音楽は当然「桃太郎」。♪お腰につけたきびだんご 一つわたしに下さいな♪犬・猿・雉に命をかけた忠誠を誓わせるマジックアイテム「きびだんご」。黍(きび)の粉で作った団子で黍団子だと思っていましたが、岡山には名物・吉備団子というものが。もしや桃太郎が持っていたのはこっちなのか!?これについては後ほど。

吉備津駅で下車。吉備線もいかにもローカル線な雰囲気ですが、吉備津駅も鄙びた田舎駅の風情です。無人駅だし。しかしICカード対応の簡易型自動改札機は設置されています。吉備津神社の最寄り駅ということで、年末年始は駅員が配置されるそうです。

備中国一宮・吉備津神社に向かいます。岡山市は備前国だと思っていましたが、市内西部は備中国だったんですね。後で備前国一宮・吉備津彦神社にも向かいますが、どちらも吉備の中山という200メートル足らずの小山の麓にあります。静岡県掛川市にある小夜の中山は知っていましたが、吉備の中山は知りませんでした。Wikipediaに記事も立っていないし。

しかし、地元では超有名な場所だったのです。備前国・備中国・備後国が分割される前は吉備国と呼ばれていましたが、その頃の中心地ではないかとされ、山中には古墳が多数あり、山麓に一宮が二つもあるということがそれを裏付けていますね。

駅から歩いてほどなくして吉備津神社です。元は吉備国の総鎮守でしたが、三国に分割されたので備中国一宮になりました。こうした経緯から「吉備総鎮守」「三備一宮」とも呼ばれます。祭っているのは吉備津彦命。第7代孝霊天皇の皇子で、ある。四道将軍の1人として西道(山陽道)に派遣されたとされます。

四道将軍…なんか四天王みたいですね。第10代崇神天皇の時代に、北陸、東海、西道、丹波(丹波・丹後・但馬の三丹)に派遣された皇族の将軍のことです。神武天皇と、綏靖~開化のいわゆる“欠史八代”の天皇については、実在性が希薄とされており、崇神天皇がヤマト王権初の天皇という説があります。四道将軍についても、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているという説があります。

さて山陽道に派遣された吉備津彦命は、この地で温羅(うら)という鬼と戦ったそうです。温羅は異国から飛来して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配したとされています。

鬼ノ城は岡山県総社市の鬼城山(きのじょうさん)に実在しますが、おそらく7世紀後半に築かれた古代山城だろうとされています。白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗したため、当時の大和朝廷は連合軍の襲来に備えて対馬~畿内に至る要衝に様々な防御施設を築きましたが、そのうちの一つなのでしょう。崇神天皇は実在するなら3~4世紀の頃の天皇と推測されているので、吉備津彦と温羅の戦いが本当にあったとしても、鬼ノ城建設とはかなり時代が違うのですが、なにしろ古い伝承なので勘弁してやって下さい。

吉備津彦命は、温羅討伐に際し、吉備津神社の地に本陣を構え、それぞれ矢と岩をぶつけ合う遠距離射撃戦を展開しましたが、吉備津彦命が矢を2本同時に射たところ、1本は岩に撃ち落とされたものの、もう1本は温羅の左眼を射抜きました(飽和攻撃のはしりですな)。温羅が雉に化けて逃げると、吉備津彦命は鷹に化けて追い、さらに温羅が鯉に身を変えて逃げると、吉備津彦命は鵜に変化してついに捕らえたとのことです。

吉備津彦命は、犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)という3人の家来とともに温羅を討ったということで、これが「桃太郎」のモチーフになったともいわれています。この三人の家来については、「犬養縣主(犬)」「猿女君(猿)」「鳥飼臣(雉)」という豪族だという説もあるそうなので、「黍団子」に象徴される何か(金品とか)で懐柔して仲間にしたということだと更にリアリティがありそうな。MMR風に言うと「黍団子は山吹色のお菓子だったんだよ!」「な、なんだってー!!」という感じでしょうか。

黍団子と吉備団子。音は完全に一致していますが、吉備団子は黍を主原料とはしていません。吉備団子は幕末の頃に考案されたとされますが、明治時代に入って“桃太郎のきびだんご”として販売促進に利用し、昭和に入ってから桃太郎は吉備津彦命に由来するとの説がおこり、戦後からは地域をあげて桃太郎との関連をアピールしているそうです。岡山は地域を挙げて桃太郎ゆかりの地であることをアピールしていますが、山梨県大月市、愛知県犬山市、奈良県田原本町にも桃太郎ゆかりの地とされる場所があります。

なによりわが香川県高松市もその一つで、高松港沖に浮かぶ女木島は「鬼ヶ島」のモデルだとされ、「鬼ヶ島大洞窟」があったりします。香川県には浦島太郎の伝承もあるので、“三太郎”のうち二太郎までを占める勢い。浦島太郎が香川県の人だったとすると、竜宮城は瀬戸内海にあったということになるんでしょうか。“三太郎”のうち、金太郎だけはさすがに香川県には伝承はないようですが、足柄山のある静岡で決まりかと思いきや、長野説とか新潟説といった異説もあるそうです。まあ昔話ですからねえ。

閑話休題、吉備津神社の本殿と拝殿は室町時代中期の造営で、接続されて一体化しており、「吉備津造」と呼ばれています。併せて一棟として国宝に指定されています。

400メートル近い長さの回廊は戦国時代の造営とされます。所々で摂社末社への出入り口が開いています。

中でも山へ登るような階段があったのでつい登ってみたらあったのが岩山宮。地主神・建日方別命を祭っているそうです。吉備津彦命や温羅よりも古い神ですね。

御釜殿。江戸時代の再建で、上田秋成の「雨月物語」中の一篇「吉備津の釜」でも描かれている「鳴釜神事」が行われます。先ほどの温羅という鬼、吉備津彦命に首を刎ねられますが、首はその後ももうなり声をあげ続け、犬に食わせて骸骨にしても、御釜殿の下に埋葬してもなおうなり続けたそうです。これに困っていた吉備津彦命の夢枕に温羅が現れ、温羅の妻である阿曽媛に神饌を炊かさたら、温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げようと答えたということで、これが神事の始まりだそうです。

釜の上置いた蒸篭の中に米を入れ、蓋を乗せた状態で釜を焚いた時に鳴る音の強弱・長短等で吉凶を占います。一般に、強く長く鳴るほど良いとされますが、音を聞いた者が、各人で判断するものだそうです。「雨月物語」の「吉備津の釜」では婚礼の吉凶を占うのに使われ、釜は全く鳴りませんでした。明らかに凶なので婚礼は止めたら良かったのですが…

一童社。菅原道真と天鈿女命を祭る学問・芸能の社で、江戸時代の国学者も信仰したそうです。「祈願トンネル」というものが設置されており、中は進学に関する絵馬で埋め尽くされていました。

続いて吉備津彦神社へ。吉備の中山の麓に「吉備の中山みち」があるので、一本道を歩いて行けば到着します。途中に「鼻ぐり塚」というものがありました。鼻ぐりとは牛の鼻輪のことで、死んだ牛が残す唯一の形見とも言え、これを供養することで、人のために奉仕した畜類への感謝を示すものだそうです。が、この塚、元々あった円墳を利用しているんですよね。誰の墓かは知りませんが、本人はそれでいいんでしょうか?

とことこ歩いてやってきました吉備津彦神社。吉備津神社と名前が非常に似かよっていますが、吉備国を分割した際に祭神も分霊したのだそうです。神社だとよくある話ですね。備前国一宮として崇敬され、中世以後宇喜多氏、小早川秀秋、池田氏など歴代領主の崇敬を受けてきました。


こちらは吉備津神社とは異なり、拝殿と本殿は離れています。拝殿裏手の本殿は江戸前期の再建で、間に祭文殿や渡殿があります。夏至の日に正面鳥居から朝日が差し込んで祭文殿の鏡に当たるようになっているとかで、吉備津彦神社の別名は「朝日の宮」。

子授け・安産に霊験があるという子安神社からずらりと並ぶ末社群。境内の北側にあります。

境内南側にも摂社末社がありますが、注目はこの温羅神社。吉備津彦命が討った鬼なのに神として祀るあたりがいかにも日本風です。温羅の、平和や恵みの働きがあるという和魂を祀っているそうです。

吉備は、出雲、筑紫、毛野(栃木+群馬)と共に古代には独自の勢力を持った文化圏だっとされており、それが故に度々征討を受けて勢力を削減されています。三分国(後に備前から美作が別れて都合四分国)も、吉備勢力の伸張や統一を抑制するためだったのでしょうか。分国の余波は、同じ岡山県内の岡山都市圏(備前国)と倉敷都市圏(備中国)の対立や、備後国が安芸国と一体化して広島県になるという形で、現在まで影響しているとか。京都では平安時代、奈良では奈良時代や飛鳥時代に思いを馳せましたが、岡山では古墳時代。段々古代に進んでいくような気が。

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