佐渡旅行記②:佐渡と言えばやはり金山

今年の梅雨は長いですね。梅雨明けは8月にずれ込むとの見方もあるようです。梅雨明け前は豪雨になりやすいそうですが、今朝も豪雨で目が覚めました。慌てて窓を閉める午前4時過ぎ。

さて昨日の続きで佐渡旅行記のその2です。たびのホテル佐渡の朝食は本来バイキングだそうですが、コロナ禍のせいで店員さんがおかずを色々載せたお盆を持ってきてくれます。ご飯味噌汁はおかわりOKだそうですが、おかずがたっぷりなので十分でした。まあ好きな物をたっぷり取れるバイキングの方が好きではありますけどね。

昨日はレインメーカーとなってタクシーを使いまくったのですが、カイジの如く一夜明けて豪遊を反省しました。本日は路線バスで佐渡金山に向かうことにします。乗り場はホテル近くの佐渡総合病院にありました。佐渡初のコロナウイルス患者が入院しているそうです。

新潟交通佐渡の本線で佐渡金山前まで。全ての便がダイレクトで金山に行けるわけではないようですが、約1時間かけて金山着。途中「きらりうむ佐渡」「相川博物館前」「佐渡版画村」など、心引かれるような名前の停車場もあったのですが、なにはともあれ佐渡金山。

佐渡金山のイメージといえば、江戸の無宿者を捕まえて無理矢理佐渡に送り、鉱山で死ぬまでこき使われるというものでしたが、これは見せしめの意味合いが強かったそうで、実際には普通の労働者の方が圧倒的に多かったようです。給与水準が高かったので農家の次男三男などが働いたほか、女性や子供にも専門の仕事がありました。そのため、周辺の町は大変栄えたようです。

個人での見学は江戸時代の宗太夫坑と明治時代の道遊坑。料金はそれぞれ900円ですが、セットだと1400円とお得になります。初めて来て二度来るかどうかわからないのなら、セット一択というものです。

宗大夫坑は江戸初期に開発された坑道・採掘跡で、人形が採掘作業を再現しています。暗い鉱山内での仕事はきつそうですし、「酒が飲みたい、馴染みの女に会いたい」なんてぼやいている人形もいましたが、専門技術者も多く、彼らへの待遇は決して悪いものではなく、我慢して働けば実入りはしっかりあったようなので、カイジの地下帝国強制労働施設とは全然違います。

坑道内の気温は年間を通じて約10度前後ということで、涼しいというよりは寒いくらいですが、暑い中働くくらいならこれくらいの気温の中で働いた方が楽な気もします。今と違って電気がないから灯りとか換気の問題はあったでしょうが。

もう一つは道遊坑は明治期に開削され、平成の休山時まで使用された坑道で、トロッコや機械類がそのままの姿で保存されています。

元々は最初期の採掘地とされ、当時は露天掘りをされていました。金脈を掘り進むうちに山がV字に割れたような姿になっており、「動遊の割戸」と呼ばれています。明治以降はこの割戸の下で大規模な開発が行われました。

宗太夫坑を見てから入り口に戻って動遊坑を見るという形になっていますが、どちらも終点は同じ売店に接続しているという資本主義の罠が(笑)。もう閉山したというのに金製品が多く売られています。

そうそう、資料館には金の延べ棒があって、30秒の間に小さな穴から取り出してみようというチャレンジ企画となっていますが、重いのなんの。6000万円以上の価値とはいえ、12キロの重さは持ち運びに不便極まりないですね。時代劇では千両箱を肩にかついで屋根伝いに飛び移る盗賊の図なんてよく出てきますが、重さは20kg以上になることもあるんだそうで、実際にはとても無理だろうと思います。

二つの坑道を見た上に、動遊の割戸を見に行ったりしたらそれなりの時間がかかってしまいました。やはり逆レインメーカーとして路線バスに拘るわけですが、金山から両津港にはダイレクトに行けず、相川バスステーションで乗り換え。乗り換え時間が30分もあり、両津港に着いたらジェットホイルの出発まであまり時間がないことが判明。「食事処よろこんで」再訪の夢は露と消え、待ち時間に近くのスーパーで惣菜パンを買って昼食としました。

そして帰りもあまり面白くないジェットホイル、新幹線、在来線を乗り継いで、筑波嶺に帰還。大した旅をしていないなあと自分でも思いますが、日常生活を離れて普段乗らない乗り物に乗り、普段行かない場所に行き、いつもと違う所に泊まるだけで“旅”という感じを味わえるので(個人の感想です)、きままな旅というのはたまに行かないといけませんね。

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