ドラゴンクエストⅣ 導かれし者たち:「天空シリーズ」第一弾は悲しみがいっぱい

前にも書きましたが、これまで外食でカレーというとCoCo壱番屋一辺倒だったんですが、最近インドカレー屋に行くことを覚えまして。別にココイチが嫌いになった訳ではないんですが、ナンやタンドリーチキン、ラッシーと一緒に食するカレーというのもなかなかいいですね。デフォルトのカレーはココイチの普通より辛くない位ですが、ナンは大きくて熱くて、口も指もアツゥイ!ということに。ナンはおかわりもくれるので、トータルではココイチより安上がりでお腹いっぱいになります。

昔、“ギャルゲーの日曜日”“懐ゲーの日曜日”と銘打って、大昔にプレイしたゲームソフトを紹介していたんですが、いつしか途絶えてしまいました。それをこの2月から急に復活させた(思い出したとも言う)訳ですが、昭和から平成に変わったあたりからプレイのペースが落ちていることが判明しました。まあ理由もわかってるのですが、要するに金も暇も無尽蔵ではないということですよね。ということで(どういうことだ)、本日紹介しますは大作「ドラゴンクエストⅣ 導かれし者たち」です。

「ドラゴンクエストⅣ 導かれし者たち」(以下「DQⅣ」)は」1990年2月11日にエニックス(現スクウェア・エニックス)が発売したファミコン用RPGです。「ファミコン探偵倶楽部 うしろに立つ少女(後編)」から半年以上もゲームを買っていなかったんですね。「蒼き狼と白き牝鹿」でも繰り返しプレイしたりしていたんでしょうか。どうも30年前の話なので記憶が…

DQⅢが発売日に大騒ぎを引き起こしたことを教訓に、DQⅣは日曜日に発売されました。そうでなくても「建国記念の日」なので休みですが、ということは翌日の月曜日も振替休日になっていた訳ですね。これは発売日にゲットできたら腰を据えてプレイできたことでしょう。ファミコンでのDQシリーズはこれが最後で、DQⅤからはハードをスーファミに移すわけですが、DQⅠ~DQⅢのいわゆる「ロトシリーズ」と離れて、新たに「天空シリーズ」が開始されることになります。終わりにして始まり…なかなか複雑な特徴を持っていますね。PS版やDS版でリメイクされていますが、実は私、ファミコン版しかプレイしていません。DQⅤなんかスーファミ版から始まってPS2版も3DS版もやっているんですけどねえ。

DQⅣは5章立てとなっており、勇者と一緒に旅をする7人については1章~4章でそれぞれの経緯が描かれ、5章で勇者の旅立ちと仲間との出会い、そして冒険という展開になっています。AIによる戦闘システムや、パーティーメンバーが以外が待機している馬車システムは本作で初めて導入されました。馬車で仲間の戦いを見ているだけでEXPが貯まるというのはなんかズルい気がしなくもないですが、そうしないと育成が面倒なんでこれはこれで良い発想だったんではないかと。きっと勇者の仲間たる者、みんな北斗神拳奥義「水影心」か虚刀流奥義「見稽古」を習得しているんですよ。

また本作では、これまでプレイヤーが漠然と抱いていた疑問「どうして魔族たちは勇者が魔王を倒しに来るのを座視していたのだろう?」に対する回答を示したことでも知られています。5章冒頭、まだ勇者として覚醒していない主人公を魔族の軍勢が殺しにやって来ます。人間側もそれを阻止すべく勇者を隠れ里のような山奥の村で隠蔽しながら育成していたのですが、情報が漏洩してしまったのですね。しかし危機管理術は人間側は一歩上を行っていて、囮を出すことで多大な犠牲を払いながらも勇者だけは守り抜きます。


その囮になるのが勇者の幼なじみのシンシア。勇者のことは恋人(勇者が男の場合)ないし姉妹(勇者が女の場合)のように思っており、魔物軍団の襲撃の際は勇者を隠してモシャスの呪文で勇者に化け、身代わりとなって殺害されてしまうのです。魔物軍団が引き揚げて静まりかえった山奥の村の廃墟にぽつんと取り残される勇者。シンシアのものと思われる羽帽子が落ちているのを見つけた時の気持ちは…そりゃあもう復讐の鬼と化して魔物退治にいそしみましたよ。

実はシンシア、エンディングのラスト、全てが終わって廃墟となった山奥の村に帰ってきた勇者の前に姿を現すのですが、このシーンについては「マスタードラゴンが生き返らせた」「実は死んでいなかった」「勇者が見たただの幻だった」など幾つかの解釈に分かれています。ハッピーエンド希求派だとやはり生き返ったないし生きていたがいいんでしょうが、現実はシビア派だと幻ということになるんでしょうかね。私も現実はシビア派に近いんですが、散々苦労した挙げ句なんで、勇者にも少しぐらいご褒美があってもいいんじゃないかとも思います。「プレイヤー各自の想像にお任せします」はDQシリーズの十八番なので、それぞれが好きなように解釈していいのでしょう。


1章「王宮の戦士たち」は戦士ライアン一人+NPC(ホイミスライム)でDQⅠっぽく。なおこれが以後のシリーズでお約束になる「仲間になるモンスター」の嚆矢のようです。2章「おてんば姫の冒険」は武闘家、僧侶、魔法使いの3人パーティーでDQⅡっぽく。可愛くて強くて「会心の一撃」を連発するアリーナは人気キャラになりました。3章「武器屋トルネコ」 はDQⅢっぽいのかと思いきやお金儲けが主軸の異色編でした。一人で行動するもよし、NPCを雇うもよし。戦闘をNPCに任せるとレベル1でもクリアできますが、後々のことを考えるとちゃんと育成しておいた方がいいでしょう。なおトルネコは旅する商人というキャラクター性を見込まれ、スピンオフ作品「トルネコの大冒険 不思議のダンジョン」シリーズの主役を張ることになります。


4章「モンバーバラの姉妹」はNPCを加えると3人パーティーになりますが、それまでの2人旅は魔法使い系の踊り子と僧侶系の占い師なのでバランスが悪くて戦闘が難しかった記憶があります。戦闘では強いマーニャですが、妹ミネアに稼がせておいて自分はひたすらカジノにハマっていたあたりのダメさ加減はその後よくネタにされることに。失意のラスト、旅の吟遊詩人の「人々の色々な思いを乗せて、船は出てゆきます。娘さん。この国で何があったのかは知らないが、元気をお出しなさい。生きてさえいれば、きっといい事もあるでしょうから……」というセリフが胸を打ちます。

この4章ラストと5章冒頭の打ちのめされ感で、DQⅣにはそれまでになかった「暗さ」があったように思います。そりゃあDQⅡだってムーンブルクの王女は王国を滅ぼされてたり、DQⅢだってパパン行方不明とかありましたが、事件の過程をはっきり描いているだけにDQⅣの暗さは格別です。この暗さはDQⅤの「奴隷10年石10年」という苦行に続く流れではないかと思います。

まあ魔族側にもですね、人間を憎む理由は描かれているんですよ。有名な魔族の長ピサロとロザリーの一件です。愛するロザリーが人間に殺されたことがピサロを狂気に走らせるのですが、救われないのは、それが魔族側の幹部であるエビルプリーストの策略だったという点です。これはピサロを真に魔族の王たらしめようとするためで、ピサロに対する忠誠心ゆえの行動であったようですが、リメイク版では自身が王者となるためにピサロには面従腹背していたということで、完全に裏切り者となっています。


なおリメイク版ではロザリーを復活させることが可能で、これによりデスピサロと化したピサロに理性を取り戻させることができ、ピサロを仲間にできるようです。ロザリーを生き返らせることが出来るならシンシアだって…と思うので、リメイク版ではシンシアが本当に生き返ると解釈していいと思いますね。逆にロザリーが生き返らないファミコン版ではシンシアも…(涙)。


AI戦闘はDQⅣで導入され、以後シリーズに踏襲されていきますが、第一弾だけあって問題も山積していました。一番有名なのは「クリフトが通用しない相手にザラキを連発」でしょう。AIは戦闘を重ねるごとに敵の弱点や行動パターンなどを学習するように設定されているはずなんですが…まだまだ生まれたてのせいかおマヌケでした。この反省を踏まえて、以後のシリーズでは「めいれいさせろ」が追加されるようになりました。アリーナやライアンといった呪文や余計な特殊行動を持たない戦闘バカキャラの場合は、倒した敵への二重攻撃を回避するなどAIならではの有利な特徴が活用され、また余計な補助呪文を持っていない攻撃魔法バカマーニャも比較的有利な行動をとってくれるのですが。

実は「戦うたびに賢くなるAI」との触れ込みでしたが、これは正確ではなく、段階が4つあり、一定確率で上の段階に移行するといった学習をするのだそうです。つまり運が悪いといつまでも段階が上がらずおバカなままだという。しかもラスボスなど何段階かに形態変化する敵の場合、AIは各形態ごとに別モンスターと認識してしまい、それぞれ1戦しないと学習しなかったんだそうです。そうか、だからクリフトは馬鹿の一つ覚えでザラキを。

AIはザキ系を「味方の被害を減らすためにもっとも効果的な行動」として選択するのですが、プレイヤー側はクリフトを回復役の要と考えているため、ボス戦でザキ系を唱えてターンを無駄にする、道中でザコに連発しすぎてMPが足りなくなるなど、回復役であることを放棄したかのようなクリフトの行動はありがた迷惑以外の何物でもありませんでした。「じゅもんを使うな」で封印可能ですが、それをすると今度は回復魔法まで使わなくなってしまいます。あまりのザラキ魔ぶりは半公式設定になってしまい、リメイク版でも優先してザラキを唱えるようにわざわざ調整されていたり、外伝作品でも得意呪文がザキ系になっているそうです。突き抜けるとギャグになる訳ですね。

あと7人いる仲間ですが、役割がかぶっているキャラがいて、レギュラーが固定されがちになります。勇者は別格として、もう一人の前衛はアリーナとなりがちです。ライアンは加入が遅く、その頃にはアリーナの装備が充実しているせいです。僧侶系のミネアとクリフトでは、キアリー、ザオリク、ベホマラーを覚えないミネアは辛いです。しかもステータスの伸びが悪く特にHPの成長が極端に悪いのも大きな弱点でしょう。まあクリフトがレギュラー化するので「ザラキ馬鹿クリフト」の定評が確固たるものになっているという面もありますが。

魔法使い系ではブライとマーニャがかぶります。一応ブライが補助呪文重視型、マーニャが攻撃呪文重視型という棲み分けがあるのですが、ブライは補助呪文を的確に使ってくれないことが多かったように思います。ステータス・装備品でマーニャが上回り、またマーニャのほうが仲間になるのが先なため、こちらはマーニャ一択となりがちです。そもそも色っぽいお姉さんとむさい爺では考える余地もない気がしますが。

主人公は人間の男(木こり)と、天空から舞い降りた天空人の娘との間に恋が芽生え、その間に生まれた混血児という設定になっています。しかし、天空人と人間は夫婦になれぬのが定めで、そのため父は裁きの雷に打たれて死に、母は天空に連れ戻されたとされています。天空シリーズには世界を統治する竜の神マスタードラゴンが登場しますが、もしや裁きの雷は彼が撃ったのでは?小説版では、主人公の父親を殺したのは故意ではなく、地上にふと向けた視線が雷となって父親を打ってしまったからだとされています。ただの視線が雷撃と化すとは…「今のはライデインではない…視線だ」ってか(笑)。

なお天空城でただ一人主人公の事を知っている女性が主人公の母親ではないかと思われ、EDでは世界に平和が訪れた事を喜ぶ天空人達の中で、この女性だけが主人公の仲間達に主人公といつまでも仲良くしてくれるように願い、まるで主人公との別れを惜しむかのように泣いています。さらにDQ6の「ゼニスの城」(後の天空城)には、DQ4で彼女がいる場所と同じ所で下界に興味を抱いている女性がいますが…後の彼女なのかも知れません。DQⅥはDQⅣの数百年前の物語ですが、天空人は人間より遙かに長命らしいです。

世界に平和を取り戻したあと、その血筋は遥か未来である続編「V」の「天空の花嫁」(ビアンカ、フローラないしデボラ)とその子どもたちに受け継がれようです。それじゃあ天空人としての血がちょっと薄いような気もしますが。なおDQⅥはロトシリーズと同じくシリーズの発端であり、一番過去の物語となっています。ちなみにロトシリーズは三部作で完結していますが、天空シリーズは三部作とはアナウンスされておらず、今後続編が登場する可能性もあります。

カジノの登場、「小さなメダル」とメダル王の登場など、以後定番となる要素もDQⅣから始まっており、いろいろ画期的要素に満ちていた本作ですが、どうも「AIが死ぬほどバカ」「抱き合わせ販売」といった負の部分に目がいきがちになってしまいます。「ファミコン通信」の読者投票による「1990年ベストヒットゲーム大賞」では「ファイナルファンタジーⅢ」を僅差で抑えて1位に輝いているのですが。

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