京都小旅行(その6):初詣は京都で怨霊くくり

「艦隊これくしょん-艦これ-」の今回のイベント「邀撃!ブイン防衛作戦」を無事攻略することができました。年末年始はPCが使えず、スマホでもプレイできるとはいえいろいろと不便なので攻略できるか心配でしたが、前段作戦2海域、後段(拡張)作戦1海域という小規模作戦だったおかげで。とはいえ連合艦隊+航空隊3隊出撃+支援艦隊×2が必要とかなり経済的にはかなり厳しい作戦で、未所持艦娘との邂逅を企図するいわゆる「掘り」は資源の減少が半端ないので断念せざるを得ないかなと。

今回はちょっと突っ張って、前段作戦は難易度乙で挑んで成功させました。難易度甲の方がそりゃあ撃破ボーナスが豪華なんですが、まだちょっと自信が。

そして後段作戦は例によって安定の難易度丙。成功が最優先なのでどうしても日和ってしまいます。

今回の新規艦娘です。まずはE1(ブラケット水道/クラ湾沖)突破報酬で入手できる朝潮型駆逐艦の八番艦峯雲。キュートですが、朝潮型は皆小学生高学年といった感じなところ、この子はちょっと発育が良くて中学生位に見えますね。これで朝潮型駆逐艦は全10隻中9隻が登場し、残す七番艦「夏雲」のみです。峯雲がセリフで「なっちゃん」と呼んでいるのは夏雲のことなのか?

続いてE3(中部ソロモン海域ブーゲンビル島沖)突破報酬で入手できる(というかラスボスが改心したらしい)水上機母艦日進。神社の神官みたいな服装ですが、個人的には「うしろの百太郎」のコスプレかと思ってしまいました。広島・呉出身のせいか広島弁。浦風と仲良くなりそうです。

そして幸運にもドロップで入手した神風型駆逐艦の一番艦神風。大正時代の建造で駆逐艦娘としては最古の形式。大正時代を意識してか大正ロマン女学生スタイル。現在「艦これ」で一番の旧式駆逐艦なので性能的には最弱ですが、本人は「旧型ですって? 馬鹿ね。駆逐艦の実力は、スペックじゃないのよ?」と意気軒昂。神風型は通常では建造もドロップもないのでイベントでゲットするしかありません。戦力としてではなくコレクション的に価値があります。

最後にやはりドロップ入手の補給艦神威。速吸以来二隻目の補給艦です。大型艦建造で建造可能ですが、莫大な資源を浪費する恐れがわりに、神風同様戦力的価値は高くないのでイベント入手が基本かと。「かむい」と読みたくなりますが、実は「かもい」。北海道は積丹半島にある神威岬が由来ですが、こちらは「かむい」と読む不思議。装甲空母にもなる大型正規空母サラトガを大型艦建造で建造する場合は、神威かアイオワが旗艦である必要があるそうです。幸いサラは入手済みなので「私は一向に構わんッッ」(ドヤ顔)


ということで今回はたった4隻としょぼい結果ですが、前回の初秋イベントでゲットした艦娘達も十分に育ちきっていないので、育成を優先して資源を温存しつつまた次回のイベントに備えようかと思います。今回のご新規ジョンストンはルックス的にぜひ出会いたかったのですが、7回も十連ガチャを回して全然駄目だったFGOのブラダマンテに何となく似ているので、多分頑張っても出会えまいと(諦観)。

行楽に良い秋もとうに過ぎて冬のまっただ中。おとなしく冬ごもりしているのが無難だと思っていましたが、今日はやけに暖かいのでついふらふらと京都に行ってしまいました。私、奈良派を名乗っていますが別に京都が嫌いという訳ではありません。行けば行ったでやはり京都は京都でいいですね。今回は京阪で終点出町柳まで行きました。

そのまま叡山電車に乗り換えて比叡山というのも十分ありなチョイスなんですが、今回は年始めの初京都ということもあり、コンセプトは「初詣」。ちょっとマニアックな神社をせめてみます。まずは上御霊神社へ。先月秋篠寺に行った時、そばに八所御霊神社があってですね。怨霊として祟り、恐れられた御霊を祀るというコンセプトにちょっと惹かれました。祀っているのは崇道天皇(早良親王。光仁天皇皇子)、井上大皇后(光仁天皇皇后)、他戸親王(光仁天皇皇子)、藤原大夫人(藤原吉子、桓武天皇皇子伊予親王の母)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麿)、火雷神(菅原道真)、吉備聖霊(吉備真備)。前回も突っ込みましたが、吉備真備を除いては祟る理由があるのは理解できるのですが、なぜに祟る要素がなさそうな吉備真備が入っているのか。実は火雷神は上記六柱の荒魂、吉備聖霊は吉備内親王(元明天皇皇女で長屋王妃。長屋王の変で自殺に追い込まれる)という説もあるそうです。
平安京を造営した桓武天皇の時代に各地で疫病が流行し、これが御霊(怨霊)の祟りであるとして、貞観5(863)年に平安京の神泉苑で御霊会が催されたのが上御霊神社の創祀だそうです。「上」があるなら「下」もあるのか?そうなんです。続きは後ほど。

なお、室町時代の文正2(1467)年1月、失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘がこの神社境内の森で行われ、世に御霊合戦と呼ばれています。この戦いが応仁の乱の契機となったことから、上御霊神社は応仁の乱発祥の地とされ、石碑が建っています。

神社一辺倒ではいかんかなと勝手に神仏習合して(単に通り道にあったというだけですが)相国寺を訪れます。臨済宗相国寺派大本山の寺で、創立者は足利義満、開山は夢窓疎石です。京都五山では天龍寺に次ぐ第二位で、義満健在の頃は一位になっていました。金閣寺も銀閣寺も相国寺の塔頭(境内の外にあるので山外塔頭)なんですね。

かつては義満の「花の御所」に隣接しており、現在は同志社大学に隣接しています。南には京都御所。火災や兵火で伽藍の多くが焼失し、境内も縮小しています。現在も多数の塔頭を抱えていますが、ほぼ非公開。まあ参観料を取られず良かったとも思えますが。豊臣秀頼が再建した法堂(重文)が堂々と建っています。


山内塔頭の一つに瑞春院という寺があり、看板に作家水上勉が少年時代に暮らし「雁の寺」のモデルになった旨が記されています。「雁の寺」は直木賞受賞作ですが、堕落した禅寺の様子を描いており、これは瑞春院時代の自身の経験に基づいているそうです。つまり寺にとっては恥なんじゃないかと思われるのですが、堂々と看板に掲げているあたりはむしろ京都の懐の深さというか凄味を感じますね。

続いて白峯神宮へ。保元の乱に破れて讃岐に流された崇徳院はその地で死去しますが、その後天変地異が相次いだことで崇徳院の祟りとされ、葬られた白峯陵の前に御影堂が建立されましたが、幕末の動乱期に孝明天皇は崇徳院の霊を慰めるために京都に移すことを企図。子の明治天皇がその意を継ぎ、現在地に社殿を造営し、慶応4(1868)年、御影堂の神像を移して神体とし白峯宮を創建しました。 1873(明治6)年には、藤原仲麻呂の乱に巻き込まれて淡路に配流されて、その地で死去した淳仁天皇(淡路廃帝)の神霊を淡路から迎えて合祀しています。敷地はごく狭いのですが、後に官幣大社に昇格したことで「神宮」の号を許され白峯神宮となりました。

白峯と聞くと思い出すのが上田秋成の「雨月物語」中の一編「白峯」。西行が白峯を訪れて旧主である崇徳院の怨霊に出会う話ですが、作中崇徳院は三百以上の魔物を率いる大魔王になったと称しており、菅原道真、平将門と並んで日本三大怨霊の一角とみなされるようになりました。怨霊の慰めて鎮めることでその強力なパワーを利用しようという御霊信仰、あざといと言えばあざといのですが、賢いといえば賢い。


しかしこの神宮、境内が蹴鞠の宗家であった公家の飛鳥井家の屋敷跡ということで、現在ではサッカーのほか、球技全般およびスポーツの守護神とされるようになっています。それ崇徳院と全然関係ないやんという突っ込みもむなしく、社殿前にはサッカーやバレーボールの日本代表チームや、Jリーグに所属する選手などから奉納されたボールなどが置かれています。神宮側もスポーツにちなんだお守りが「叶う輪(かなうわ)」を売り出していたりして。

境内には崇徳院の百人一首に選ばれた「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川のわれても末にあはむとぞ思ふ」の歌碑がありました。そういえばこの和歌を題材にした落語「崇徳院」という演目もありましたね。

そして京都御所のある京都御苑へ。本来の御所と言える平安京遷都当時の内裏はもっと西にあり、現在の京都御所は、里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであった土御門東洞院殿の地に当たります。しかし南北朝時代の14世紀半ばからは内裏として定着しているので、もはやこちらが内裏であった時代の方が長いことになりますね。

御所周辺の京都御苑は皇居外苑・東御苑(休園日あり)・北の丸公園同様国民公園となっており、誰でも行くことができます。京都御所の他、京都迎賓館、仙洞御所(上皇・法皇の御所)、京都大宮御所(皇太后の御所)があってこちらは当然ながら通常非公開。せっかく仙洞御所があるのだから、平成天皇が譲位したらこちらに住んだらいいのにとか思ってしまいますが、現在の仙洞御所には庭園以外にろくな建物がないようです。

京都大宮御所は天皇、皇后、皇太子、および皇太子妃の行幸啓の際の宿泊に使用され、かつては京都を訪問する国賓の宿泊施設としても使用されていた実績があるので使えないでもなさそうですが。敷地は実に広いですが、一般人の別荘のように「ちょっと行って何日か滞在してくるわ」と気軽に使える訳でもないので、皇室に生まれるというのも実に窮屈そうですね。

そして京都御苑を縦断して向かうは本日最後の訪問地・下御霊神社。上賀茂神社と下鴨神社があるように、京都では上下がワンセットになっているのでしょうか。東西でセットにすると上手くいかない(東大寺と凋落した西大寺、東寺と消滅した西寺のように)ので南北にしたのか。こちらも「八所御霊」を祀っていますが、崇道天皇、伊予親王(桓武天皇皇子)、藤原大夫人、藤大夫(藤原広嗣)、橘大夫、文大夫、火雷天神、吉備聖霊となっており、上御霊神社と若干メンバーが異なります。伊予親王と藤大夫がインして井上大皇后と他戸親王がアウト。また神社側は火雷天神は菅原道真ではなく六柱の御霊の荒魂、吉備聖霊は吉備真備ではなくやはり六柱の御霊の和魂と解釈しているようです。

荒魂(あらみたま)は神の荒々しい側面、荒ぶる魂で、和魂(にぎみたま)は神の優しく平和的な側面とされ、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れとされ、実際別の神名が与えられたり、別に祀られていたりすることもあります。


和魂はさらに人に幸を与える働きを持つ幸魂(さきみたま)と、知識才略・学問・技術を表す奇魂(くしみたま)に分けられ、神道の一部(本田霊学)では、人の魂は天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と4つの魂(荒魂・和魂・幸魂・奇魂)から成り立つという一霊四魂説が唱えられていますが、明治以降の比較的新しい考え方のようです。そもそも神も人と同じ構造なのかどうか判りませんが、日本では人が死後に神に昇格されるケース(豊国大明神とか東照大権現とか)が結構あるので、人と神(あくまで日本の)で魂の構造はあんまり変わらないという解釈もありなのかも。

上御霊神社と同じく平安京の神泉苑で催された御霊会が創祀と伝えられています。昔は上御霊神社の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったそうですが、豊臣秀吉の都市整備などにより現在ではだいぶ引き離れています。でも上下(南北)関係は変わらないし、上賀茂神社と下鴨神社はもっと離れているから特に違和感はないような。むしろ京都御所の南北にあってちょうどいい感じすら。

ということで子供の頃「恐怖新聞」とか「うしろの百太郎」に始まって、心霊的な本・番組が大好きだった事を思いだして新年早々京都の怨霊信仰を訪ねて回ってしまいました。え、今は?ですか。小説・ゲーム・映画などのストーリーとしてはもちろん嫌いではないんですが、子供の頃に心霊に留まらずUFOとかUMAといったオカルト(含陰謀論)にどっぷりと浸かりまくっていたせいか、今ではすっかりスケプティックになってしまいまして…
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