奈良小旅行(その6):秋篠寺と西大寺

今日は雨模様という予報だったので、小旅行もお休みかと思っていたのですが、ふたを開けてみればいい天気。どうやら雨は夕方からという気配なので、近場を攻めてきました。

近鉄の大和西大寺駅は近鉄奈良駅の手前で、大阪中心部から一時間もかからずに行けますが、かつては平城京の内側ということで古寺名刹や史跡の宝庫です。鉄道好きにはまた別の面から人気だったりします。

近鉄奈良線と近鉄京都線・橿原線が平面交差する形で乗り入れており、近鉄天理線から直通する急行・普通列車も当駅まで乗り入れているのです。カオス認定される過密ダイヤで、線路は山のような切り替えポイントでややこしく接続されています。駅を広げようにも、平城宮跡地の中であるため、掘り返せば地下から遺跡が出てくることは確実なため、工事もままならないようです。私は乗り鉄なのでこういうのにはあまり興味はないのですが、好きな人はわざわざ作られた展望デッキから思う存分見てください。

まずは秋篠寺に向かいます。駅からの道のりはほぼ住宅地となっていて、最近はまっていた奈良盆地南部とは違って京都の寺社を訪ねるような雰囲気ですが、ちょっと遠くを見ればまるで里山のように古墳が見えたりして、さすが奈良だなと思ってしまいます。

先日秋篠宮が宮内庁をお叱りということが話題になっていましたが、秋篠寺は直接「秋篠宮」の宮号とは関係ないようです。しかしご結婚直後、紀子妃殿下の横顔がこの寺の伎芸天(ぎげいてん)像に似ているという評判が起こり、多くの人が伎芸天を拝観すべく秋篠寺に観光バスなどで訪れたとか。今はすっかり静寂な境内ですが。

秋篠寺は寺伝によると宝亀7(776)年、光仁天皇の勅願により法相宗の僧・善珠が創建したとされます。保延元(1135)年に火災により講堂以外の主要伽藍を焼失しており、現存する本堂(国宝)は旧講堂の位置にありますが、鎌倉時代の再建です。が、様式的には奈良時代建築の伝統が生かされているそうです。堂内には本尊薬師三尊像(重文)を中心に、十二神将像、地蔵菩薩立像(重文)、帝釈天立像(重文)、伎芸天立像(重文)などが安置されています。

本堂内は写真撮影禁止(たいていの寺ではそうですが)なので借り物の画像ですが、これが伎芸天像です。頭部が奈良時代のもので、体部は鎌倉時代のものですが、違和感なく調和しています。伎芸天は護法善神とされますが、他の○○天と違って、ヒンドゥー教などで相当する神を特定することができないそうです。現存する古像はこれのみとか。そもそも身体は鎌倉時代制なので、造立当時の姿がどのようなものだったのかもよくわかりません。

こちらは大元堂(大元明王院)。秘仏とされる大元帥明王像が祀られています。「帥」の字は発音せず「たいげんみょうおう」と読むようです。古代インド神話に登場する鬼神アータヴァカに由来し、 毘沙門天の眷属である八大夜叉大将の一尊に数えられていますが、密教では明王の最高尊である不動明王に匹敵する霊験を有するとされており、一説には「全ての明王の総帥であることから大元帥の名を冠する」と言われているとか。四天王配下から大出世ですね。

こちらがご尊顔。秘仏なのでやはり借り物画像ですが、恐ろしげですね。軍組織における「大元帥」とか「元帥」の呼称は、この大元帥明王からきているという説もあるそうです。え!そっちが先だったの!?大元帥明王は絵巻や掛軸等が多く、仏像としてはあまり多くないようです。伎芸天といいマイナーなものが多いですね、秋篠寺は。

開山堂。小さなお堂です。開祖である善珠僧正の図像が祀られているそうです。

かつては大伽藍を有していたそうですが、大半が失われ、今ではひっそりした佇まいです。遺跡のようなものを発見しましたが、これはどうやら東塔の礎石のようです。


苔庭。金堂跡、西塔跡があるようですが、入れません。しかし苔庭というだけでもなかなかの見物です。

秋篠寺の南門を出るとすぐそばにある八所御霊神社。秋篠寺の鎮守社で、宝亀11(780)年に創建されたと伝えられています。非業・不慮の死を遂げたことで「怨霊」が恐れられた崇道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原夫人(伊予親王の母)・橘逸勢・文屋宮田麻呂・藤原広嗣・吉備大臣(吉備真備)、火雷神(菅原道真であるとも)を祀っています。典型的な御霊信仰に基づく神社ですね。京都には上御霊神社、下御霊神社があります。このうち吉備真備は地方豪族出身なのに右大臣にまで出世しており、特に怨霊になる理由がないような気がしますが、陰陽道の祖であるとか、九尾の狐を連れて唐から帰ってきたとかいう説もあり、特殊な力を持つ人物として扱われたのかもしれませんね。

秋篠寺と西大寺は「歴史の道」という小道でつながっていて、わりと迷うことなく行くことができます。この道、ぐるっと奈良市内を取り巻いており、秋篠寺-西大寺間は北西部のほんのちょっとだけです。奈良公園とか唐招提寺、薬師寺は行ったことがあるのでまあいいとして、秋篠寺から東にある古墳群が気になりますね。行く機会があるのでしょうか。

はい、そして西大寺。東に東大寺あれば西に西大寺あり。でも北大寺とか南大寺はない不思議。京都では羅生門をはさんで東寺(教王護国寺)と西寺が存在しましたが、東寺は現存するものの、西寺は廃寺になって跡だけになってしまっています。一方奈良では現存しているものの、世界級にメジャーとなった東大寺の知名度とは比べるべくもありません。しかし「大和西大寺駅」とか「西大寺町」といった地名にはしっかり刻まれています。

西大寺は奈良時代に孝謙上皇(重祚して称徳天皇)が恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱平定を祈願して金銅四天王像の造立を発願したことを経緯に僧・常騰を開山(初代住職)として建立されました。南都七大寺の1つとしてかつれは壮大な伽藍を誇りました。南都七大寺は平城京及びその周辺に存在して朝廷の保護を受けた七つの大寺を指しますが、なんか南斗六聖拳みたいで格好いいですね。ちなみに東大寺、西大寺の他、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、法隆寺(或いは唐招提寺)だそうです。

いや、南都六宗の方が六聖拳に近いかな。

「西大寺」の寺名は言うまでもなく、大仏で有名な「東大寺」に対するもので、平城京の外にあった東大寺に対して西大寺は平城京内にあり、かつては薬師金堂、弥勒金堂、四王堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持った大寺院でした。しかし寺は平安時代に入って衰退し、火災や台風で多くの堂塔が失われていき、興福寺の支配下に入っていたそうです。そもそも平安京遷都の主要な理由は仏教界の政治介入を排除するためとされており、旧都に残されて国家の庇護がなくなれば弱体化は必至かも知れませんね。興福寺は藤原氏の氏寺だったので平安時代も引き続き隆盛したと。

じゃあ東大寺とかだって駄目だろうという気がしますが、西大寺の場合、おそらく称徳天皇の発願というのが良くないのではないかと。だって称徳天皇といえば道鏡でしょ?西大寺建立に当たっては道鏡の思想的影響が大きかったと思われますが、その道鏡の失脚後は藤原氏からの風当たりが一段と強かったのでは。

しかし鎌倉時代に叡尊という人が出現し、荒廃していた西大寺の復興に尽くしたそうです。叡尊は、当時の日本仏教の腐敗・堕落した状況を憂いて戒律の復興に努め、その一方で貧者、病者などの救済に奔走した偉い坊さんだったそうで、鎌倉幕府、公家、皇族に至るまで貴賤を問わず帰依を受け、死語には興正菩薩の尊号が贈られています。

西大寺に現存する仏像、工芸品などは叡尊の時代に制作されたものが多く、まさに中興の祖な訳ですが、戦国時代になると兵火に遭って大被害を受け、現存する伽藍は全て江戸時代以降の再建となっています。現在の境内には本堂、愛染堂、四王堂、聚宝館(宝物館)などが建っているほか、本堂前には東塔跡の礎石が残っています。なぜに塔は再建しなかったし。

東門から入るとまず現れる四王堂(重文)。孝謙上皇発願の四天王像を祀っていますが、現在は足下の邪鬼のみ奈良時代のもので、四天王像本体は鎌倉・室町時代の作と推定されています。それから四王堂という名前なのに平安後期作とされる十一面観音立像が本尊として据えられています。

本堂(重文)。江戸後期と比較的新しい造営ですが、この時代の大規模仏堂建築の代表作として重文に指定されています。鎌倉時代に作られた本尊の釈迦如来立像も重文。やはり鎌倉時代作の文殊菩薩及び脇侍像5体も重文となっています。

愛染堂。京都御所の近衛公政所御殿を宝暦12(1762)年に移築したもので、元々寺院ではないせいか、人に配慮した明るさや居住性があります。本尊は愛染明王座像(重文)ですが、秘仏なので通常はレプリカが置かれています。それと叡尊の座像があり、こちらは国宝。叡尊80歳の時の肖像で、長い眉毛、団子鼻の風貌は像主の面影を伝えていると思われます。ちなみに叡尊は90歳まで生きたそうで、この時代の人としては極めて長寿でした。

東塔跡(後ろは本堂)。五重塔でしたが、戦国時代に焼失し、その後は再建されないまま塔跡のみが残っています。

平和観音像。西塔跡近くの野外に立っています。緑色で最近の作のようですが、由来など一切不明なんですが、なぜにこんな目立つ仏像を建てながら寺側は何の説明もしないのか謎ですな。

紅葉はほぼ終わってしまいましたが、我が旅心はなお消えず。大和西大寺周辺には他にもいろいろな寺社仏閣や史跡があり、まだまだ見所が一杯。可能であれば来週も訪れたいと思います。特に強そうな名前の海龍王寺と平城宮跡はぜひ行きたいです。
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