奈良小旅行(その5):女人高野 室生寺

今日は寒かったですね。大阪でも最高気温が一桁でした。真冬の寒さだというのに、性懲りもなく秋の流れで古寺名刹探方を続けてしまいました。そろそろ終わりにした方がいいのかも知れませんねと言いつつ、今回は「女人高野」の別名を持つ室生寺です。個人的には「階段地獄」の異名を進呈したいですが。

鶴橋から近鉄特急と急行を乗り継いでやって来たのは室生口大野駅。それにしても淋しいところです。無人駅化は仕方ないとして、駅前の寂れ具合たるや。

室生寺行きのバスが停まっている他は、客待ちのタクシーが一台いるっきり。秋の観光シーズンは過ぎたとはいえ、
五木寛之が「古寺巡礼」第一巻の冒頭で取り上げた名刹を擁するというのに何という静けさ。だがそれがいい。外人どころか日本人観光客すら少ないという状況が孤独な旅人(私のことです)の旅情と哀愁をひときわ刺激します。……ま、日帰りなんですけどね。

バスで15分ほどで室生寺に到着。最近は田舎のバスも電子マネー対応になっていることが多く、乗り降りに手間取らなくて便利ですね。バス停から2~300メートル歩くと室生川に朱塗りの太鼓橋が掛かっていてここが入り口です。拝観料は600円。醍醐寺とか當麻寺に比べるとお安くなっています。

室生寺は室生山の山麓から中腹にかけてが境内になっていて、典型的な山岳寺院とされています。とにかく階段が多い。奥の院までで700段あるとか。寺が出来る前から、この辺りは奇岩や洞穴が多く、霊地とされていたようです。いわゆるパワースポットというやつでしょうか。社寺があるからパワースポットなのか、パワースポットだから社寺が建てられるのかは、卵が先か鶏が先かといった感じでよくわかりませんが、少なくとも室生寺はパワースポットだったのが先だった模様です。

奈良時代末期の宝亀年間(770-781年)、時の皇太子山部親王(後の桓武天皇)が病を得た際、5名の名僧が室生山に派遣されて修法を行ったところ効験があったということで、その後興福寺の僧・賢璟(けんきょう/けんけい)が、山部親王の命で室生山に寺を建立したということです。おそらく賢璟も5名の名僧の中に含まれていたのでしょう。

賢璟は当時すでにかなりの高齢だったとされ、在世中にどこまで寺が整えられたか不明で、実質的な創建者は次代の興福寺別当・修円であろうと言われています。二代に渡って興福寺の僧が関わったことで、室生寺は中世を通じて興福寺の末寺でしたが、江戸時代前期に真言宗豊山派(総本山は長谷寺)の本山となり、さらに戦後、独立して真言宗室生寺派の大本山となっています。

先ほど書いたとおり、室生寺の別名は女人高野です。今では真言宗も多数の分派にわかれていますが、二大拠点といえば弘法大師空海自らが創建した東寺(教王護国寺)と高野山金剛峯寺となろうかと思います。このうち高野山がかつては女人禁制でしたが、室生寺は女人の参詣が許されていたことから付いた別名とされますが、そもそも室生寺が真言宗に加わったのは江戸時代なので、「女人高野」と言われ始めたのもの江戸時代以降ということになります。ということは、結構最近のことなんですね。

それにしても女性も参詣するんだから楽だろうと考えたら大間違いで、全山山の中にあるのでとにかく階段だらけです。一番高い奥の院に行くには400段の階段を登らなければなりませんが、そこに至るまでに300段位は登っているという。しかも階段が高さや形が一定化されていない石段なもので、これは健脚でないとかなりキツいです。私もどうしようかと思いましたが、これでも談山と御破裂山を踏破した男、ここは一発根性見せねばとトライしました。

ま、それはおいおい書くとして、まずは仁王門を通って、鎧坂という急な石段を登ります。石段の両脇には石楠花や木々の枝が迫っているので、あんまり端を通ると枝が頭にぶつかります。

石段を登り切ると平安時代前期の建立で国宝の金堂。建物前面が斜面に張り出して懸造りとなっていますが、ごく控えめです。中は撮影禁止ですが、向かって左から十一面観音立像(国宝)、文殊菩薩立像(重文)、本尊釈迦如来立像(国宝)、薬師如来立像(重文)、地蔵菩薩立像(重文)の5体が横一列に並んでいて、その手前には十二神将立像(重文)が立っています。

金堂の左手には重文の弥勒堂がありますが、残念ながら現在は修理中。なので石段を登って先に進みます。今度はやはり国宝の本堂が現れます。別名灌頂堂で鎌倉時代後期の建立。灌頂という密教儀式を行うための堂で、如意輪観音坐像(重文)を安置しています。日本三如意輪の一つと称されているそうですが、しかし好きですね日本(世界)三大○○というやつが。

さらに石段を登ると平安時代初期の800年頃建立の五重塔があります。屋外にある木造五重塔としては、法隆寺塔に次ぎわが国で2番目に古いそうで、もちろん国宝。高さは16メートル強ということで、国宝・重要文化財指定の木造五重塔で屋外にあるものとしては日本最小だそうです。談山神社の十三重塔よりも小さいですね。

1200年以上前の建築物にしてはやけに新しく見えますが、1998年に台風7号によってそばの杉の大木が倒れて塔の屋根に直撃するという大被害を受け、1999年から2000年にかけ復旧工事を行ったからのようです。「女人高野」という名前のせいか、なんとはなしに女性的な優美な塔のように思えます。

さあ、五重塔の脇から400段の石段が奥の院まで伸びています。こちらも段差や石の形状がまちまちで、かなり登り辛いです。もう上を見ずにひたすら目前の石段に集中して登っていきます。

周囲は完全に山中の雰囲気。室生山の山中には違いないから当然といえば当然なんですが、奥山の雰囲気があります。途中天然記念物の暖地性シダ群落があります。イヨクジャク、イワヤシダ、ハカタシダ、オオバハチジョウシダなど、四国や九州以南の暖地に生育する種類のシダのなんだそうです。

へとへとになりながらふと見上げると金堂よりずっと豪快な懸造りの建物が。これが常燈堂。国宝とか重文とかに指定されているのかと思えばなにもなし。それもそのはず、建立は昭和10年なんだそうで。ほぼ現代の建築やんけ。

でもぐるっと周囲を回ることができ、山の下を見ることも出来ました。結構な高さに思えますね。この石段を朝夕上り下りしたら、運動部の学生なんかはいいトレーニングになりそうですが…

大きさは常燈堂よりずっと小さいですが、こちらが奥の院のメインである重文の御影堂。弘法大師を祀っていて、板葺き二段屋根の宝形造りで、建立は室町時代前期。日本各地にある大師堂の中でも最古級の堂だとされています。正直、これを見るためだとすると400段の石段はちょっとハード過ぎる気もしますが、まあ踏破すること意義があると考えましょう。山岳寺院どんと来い!

御影堂のそばにあったご詠歌。?なんとなく東寺にあるご詠歌「身は高野(たかの)、心は東寺に納めおく、大師の誓いあらたなりけり」に似ているような。まあ弘法大師謹製でないことは確かでしょう。

降りは汗はかきませんが、膝にはむしろ登りより負担が。でも気持ちに余裕が出てくるのでいろいろ道草する気になってきます。杉の大木の中に小さなお堂が。何の説明もないので正体不明です。賽銭箱はありましたが、説明がないと入れにくいのでは。

「神皇正統記」を著したことで有名な北畠親房のものと伝えられる墓。親房は南朝方の総司令官として南朝方の勢力拡大を図って奮闘しましたが、その死後は南朝に指導的人物がいなくなり、衰退への道をたどっていくことになります。南朝の行宮があった奈良県五條市賀名生が終焉の地で墓もあるのですが、分骨でもしたんでしょうか。

どんどん石段を降っていって弁財天社。弁天様といえば水の神様ですが、そばに変わった形の池があるせいでしょうか。梵字の「バン」の形をしているというこで「バン字池」と言います。

さらに入り口近くに戻って護摩堂。ひっそりと目立たないお堂ですが、桜の季節は背後と正面の桜がそれは美しいそうです。

本坊。坊さん達が居住したり食事をする庫裏といった感じです。

そして慶雲殿。時期によっては特別秘宝展とかを開催するようです。

室生寺紅葉コレクションをやりたいんですが、既に紅葉の盛りは過ぎてしまったようで、冬の気配が濃厚となっていました。

一番秋っぽいのとしてこれはどうでしょうか。散り敷き紅葉の色がちょっと褪せてしまっているのが惜しいですが。

奈良というと奈良市とかせいぜい奈良盆地というイメージが強いですが、「京に田舎あり」のことわざがあるように、奈良も奈良盆地以南はほぼ大山岳地帯です。「奈良に秘境あり」ということわざを作りたいぐらいのものですが、室生寺周辺だったかなり秘境っぽい感じがあります。「山と渓谷」って感じがしませんか?


まだまだ京都奈良の古刹は山ほどあるんでしょうが、行ってみたいなと思っていたところは大体訪れたような気がします。もう寒いからこの辺りで打ち止めにしようか、いやいや週末あたりからまた暖かくなるという予報もあるしと、ちょっと思い悩んでいます。とりあえず雨が降ったらやめときましょう。
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