奈良小旅行(その3):談山神社となんちゃって「ヤマノススメ」

久々の三連休いかがお過ごしでしょうか。秋は三連休が結構あるのがうれしいのですが、以前は5月のGW明けから休日が延々ありませんでしたね。6~8月はゼロでした。まあ夏休み期間になると学生はロンバケだし、リーマンもそこまで長くはないけどそこそこ有給休暇を取るのですが。海の日だ山の日だといつのまにか休日が増えて、今では休日がないのは6月のみ。いっそ6月にも何か休日を作ってはどうですかね。

秋の日曜日の恒例となった小さな旅ですが、この秋は日曜日の天気が良くて大変助かります。今日は奈良県桜井市の談山神社に行ってきました。前に長谷寺を訪れたとき、勢いで談山神社も攻めようかと思ったのですが、駅からバスで20分くらいと結構遠いのでやめて正解でした。そのバスも通常は一時間に一本くらいしかないのですが、秋の紅葉シーズンは臨時便が増えていて便利になっていました。でも今日でおしまいみたいです。

談山(たんざん)神社は十三重という過ぎたるは及ばざるが如しというか、やりゃあいいってもんじゃねーよと言いたくなる塔で有名なんですが、なぜに神社に塔が?他の神社ではなかなかお目にかからないZE!と思ったら、昔は多武峯妙楽寺(とうのみね みょうらくじ)と言う寺院だったそうです。明治の廃仏毀釈の際に寺を廃して神社のみになったそうですが、十三重塔をはじめ建物は寺院建築をそのまま使用していて、神仏習合の雰囲気を残しています。

祭神は談山大明神、談山権現と呼ばれる藤原氏の祖である中臣(藤原)鎌足。遣唐使に随行して唐に渡っていた鎌足の長男で僧の定恵が、天武天皇7(678)年に鎌足の墓をこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥だそうです。「談山」の名の由来は、中臣鎌足と中大兄皇子が、大化元(645)年の5月に「大化の改新」の談合をこの地で行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。その談山、神社の裏手にあります。

藤原氏の繁栄と共に発展しましたが、同じく藤原氏の氏寺である興福寺とは宗派が異なることから争いが絶えず、焼き討ちをされたりしています。また南北朝の騒乱の際にも南朝側の拠点とされて幕府軍に攻められたり、戦国時代にも戦乱は絶えることがありませんでした。今となってはこんな静かな場所がねえと思いますが。徳川家康により復興され、江戸幕府には3,000石余の朱印領を認められて安定しましたが、明治になって神仏分離令と廃仏毀釈により神社のみとなりました。

談山神社といえばなにはともあれ十三重塔。飛鳥時代の678年に建立されましたが、戦乱などで焼失したため、現存の塔は、享禄5 (1532)年の再建です。木造十三重塔としては世界唯一のもので、唐の清涼山宝池院の塔を模して建てられたと伝えられています。 高さは約17メートルで思ったよりも小さいのですが、なにしろ屋根が十三あるので実際よりも大きく見えますね。

塔ですが仏舎利が祀られておらず、代わりに鎌足の遺骸を埋葬した墓上に建てられているそうです。なお鎌足が神格化されて祭神となっていますが、日本の歴史上、実在の人物を神格化する例は多数ありますが、その嚆矢は鎌足だとされているそうです。

鎌足を祀る本殿は大宝元(701)年創建で、もとは聖霊院、大織冠社、多武峰社などと称されました。現在の建物は嘉永3(1850)年のものです。社殿全体が極彩色模様や花鳥などの彫刻によって装飾されており、日光東照宮造営の際の手本となったそうです。

その本殿に臨む拝殿は談山神社最大の建物です。崖に面しているので、清水寺などに比べるとずっとこじんまりとはしていますが懸造りとなっています。朱を基調とした木造の建物に檜皮葺きの屋根が深い味わいを添えています。中には神社所蔵の刀剣類が陳列されています。ここからの紅葉がまた素晴らしかったです。

廻縁に沿ったて吊灯篭が、紅葉とマッチしていますね。

摂社の東殿。別名恋神社。古くから男女の縁だけで無く様々な縁結びの社として崇敬されているそうです。祀られているのは、鎌足の長男で創健者の定恵、次男の不比等、そして鏡女王(かがみのおおきみ)ですが、鏡女王とは誰ぞやといえば、鎌足の正妻なのです。歌人として有名な額田王の姉という説もあるそうですが、確証はありません。はじめ天智天皇の妃だったのが、後に藤原鎌足の妻になったということで、こ、これは拝領妻!?そのため、不比等は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説があります。兄の定恵とは母が違うようですが、そもそも中臣氏は神祇に関わる氏族で、仏教伝来に際しては強硬な反対者を出しているのに、長男が僧になるとは。

なお、その先にある建物は縁切りに効験があるようなことをが書かれていましたが、これは観音堂では?観音様が縁切りとはこれいかに。

さらに先の山道を250メートル(公称。実際には300~400メートルはあった気がします)行くと三天稲荷神社が。昔は十三重塔の背後にあったそうですが、なぜか遙か彼方に追いやられています。祭神の中に菅原道真がいるのですが、道真といえば藤原氏に祟った怨霊なので、廃仏毀釈のどさくさにまぎれて遠ざけたのか。しかし、ちゃんと祀った方が穏便に済みそうな気がしますけどね…

末社の一つ比叡神社。比叡と書いて「ひえ」と読みます。もとは飛鳥の大原にあった大原宮で、ここに移築し明治維新までは山王宮と呼ばれたそうですが、とすると日枝神社・日吉神社と同じく山王信仰ということでしょうか。

閼伽井屋と紅葉。閼伽井とは仏前などに供養する水を汲んだ井戸ですが、この井戸は「摩尼法井(まにほうい)」と呼ばれ、創健者の定恵が法華経を講じたときに、龍王の出現があったと伝えられている井戸です。龍王は属性がカオス・ニュートラルだったっけかと思ってしまう私はメガテンのやり過ぎ。龍族は基本カオスなんですよね。

末社は他にもあるんですが、きりがないので藤原行成のグランパである摂政・太政大臣藤原伊尹が建立したという権殿の脇から延びる登山道を登って、いよいよなんちゃってヤマノススメです。目指すは談山(かたらいやま)と御破裂山(ごはれつさん)。

一帯の山は多武峰(とうのみね)と呼ばれていて、その山頂が御破裂山。山腹にあるのが談山神社という形です。低山ですし険しいわけでもないのですが、整備された木製の階段が所々朽ちてなくなっていて、階段を固定していた鉄筋だけが残っているのはちょっと危ない感じでした。登っていくと立て札があって、右談山、左御破裂山と表示されています。

まずは談山へ。海抜566メートルで、談山神社本殿の裏山という感じです。これは確かに談山の下だから談山神社と言いたくなりますね。でもなぜに訓読みと音読みに分かれたのか。

先に述べましたが談山は鎌足と中大兄皇子が大化の改新の相談をした場所だそうで、山頂には「御相談所」と刻まれた石碑があります。よくもまあこんなとこまで来たなと思いますが、そりゃあここで相談してたらばれないだろうとも思います。日産の取締役達もここでゴーン会長告発に向けての相談をしたとかしないとか(してません)。

談山の坂道が案外に急で、膝が痛みました。これで止めようかなとも思ったのですが、先の立て札の所までくるとムラムラと登山欲が沸いてきました。「ヤマノススメ」を見たせいなんでしょうか。なので心の赴くままに御破裂山に登ります。

これが山道。紅葉なんか全然なくてまさに杉の樹林が続きます。「寂しさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ」は寂蓮法師の歌だったでしょうか。もしや“まき立つ山”とは御破裂山のことではなかったか。ここなら夕暮れまでいても麓に帰れそうだし。

道のりは談山よりも長いですが、険しさはなかった御破裂山。海抜607メートルで多武峰の最高峰。なんか物騒な名前ですが、「天下に事変あれば事前にこれを察知し鳴動する」と伝えられるそうです。私が登った時は鳴動していませんでしたが、明日も平和とうことでOKでしょうか。頂上付近に鳥居があってこれが鎌足の墓所のようです。

しかーし、左に回り込むと新しめの墓が。藤原家とか刻まれていますが、え?これが鎌足の墓なの?マジですか?

山を二つも制覇したなんて言うと縦走か?登山家か?と突っ込まれそうですが、膝さえちゃんと動けば特に装備類は必要なく、散歩気分で登ることが可能です。600メートルでも0メートルから登れば結構な登山ですが、談山神社が既に山の中腹なので、登ってもせいぜい2~300メートルといったところでしょう。「ヤマノススメ」的には天覧山みたいなものでしょうか。御破裂山からは大和三山とか飛鳥地方が見渡せるはずなんですが、木が茂りまくっていて眺望は良くなかったです。大阪万博にかこつけて展望台の設置を求めたいです。

なお「大和七福八宝めぐり」の中では長谷寺に続いての訪問となりました。長谷寺には大黒堂、談山神社は総社拝殿で福禄寿を祀っているそうです。には前にも書きましたが全部行く気はないのですが、當麻寺中之坊は行ってみようかと思っています。12月になっちゃいますけど。

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