京都小旅行(その3):拉麺小路再び

今日は雲一つない快靖。秋晴れとはまさにこのこと。こんなにいい天気だと、JR東日本に洗脳された訳ではないですが、どうしても「そうだ、京都に行こう」という気持ちになってしまいます。筑波嶺にいたら思い立ったからといってすぐ行くわけにも行きませんが、大阪住みならば思い立ったら即ぶらっと行けます。望んで赴任した訳ではありませんが、この点だけは本当にありがたいですね。

ということでまたも京都へ。京都は見所にあふれていて、どこが好きと言われれば各人各様だと思いますが、私個人としては東山界隈がわりとお気に入りです。見所がたくさんあるということもありますが、京阪電車に乗ったらすぐ行けるという点が便利で。以前住んだ枚方も、今も京阪電車にはお世話になってます。で、清水寺とか知恩院とか南禅寺・銀閣寺といったメジャーなところは既に行っているので、今回はマイナーどころを攻めて見ました。まずは祇園四条駅からほど近い建仁寺へ。

京都五山の第3位の名刹をマイナー呼ばわりとは、まさに神も仏も恐れぬ所行と呼ばれそうですが、今まで行ったことなかったんですよね。臨済宗を日本に伝えた栄西が、建仁2(1202)年に、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の援助を得て、京都における臨済宗の拠点として建立したもので、京都では最古の禅寺になります。元号を寺号になっているというそのノリは昭和○○大学とか平成○○大学と同じか。

かなりの大伽藍なんですが、応仁の乱などたびたび火災に遭っており、創建当時の建物は残っていませんが、超有名な俵屋宗達の国宝「風神雷神図」、海北友松の重要文化財の襖絵などの文化財を豊富に伝えています。

立派な法堂があり、天井には創建800年を記念して平成14(2002)年に小泉淳作が双龍の絵を描いています。なかなかの迫力。

重要文化財の方丈は室町時代の建物で、広島の安国寺から安国寺恵瓊が移築したものです。禅寺といえばつきものの石庭はもちろん、四面正面の中庭として知られる潮音庭という禅庭もあります。

続いて名前だけは知っていて、気になっていた六道珍皇寺へ。なんと言ってもこの名前(笑)。建仁寺に比べたらそれはそれは小さな寺ですが、創建は延暦年間(782~805年)ということで、建仁寺より遙かに古い古刹です。今は「ちんのうじ」と読みますが、昔は「ちんこうじ」と読んでいたとか。なんかヤバイ気がするのは不信心者の妄説でしょうか。

元は東寺の末寺でしたが、中世には衰退して建仁寺の塔頭になっていましたが、今は建仁寺派の寺院として独立しています。この寺の所在地付近は、平安京の火葬地であった鳥辺野の入口にあたり、現世と他界の境にあたると考えられていたので、「六道の辻」と呼ばれていました。


閻魔堂には閻魔王と小野篁が祀られていました。小野篁は小野道風や小野小町の祖父とされますが、政務能力に優れ、漢詩にも和歌にも秀でていました。書も優れており、さすが三蹟・小野道風のおじいさんと言わざるを得ませんが、その一方で反骨精神を示すエピソードも多く、野狂とも称されています。この小野篁さん、昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府で閻魔大王の裁判の補佐をしていたという伝説があり、冥府に行くのに六道珍皇寺の井戸を使っていたとか。

実際、近年六道珍皇寺旧境内から井戸が発見されており、六道珍皇寺ではこの井戸を「黄泉がえりの井戸」と呼称しています。秋の特別公開・寺宝展が開かれていると、有料ですがいろいろ見られたんですが、ちょうど開催されていない時に来てしまい、無料だった反面みるべきものはありませんでした。

そのそばにはある六波羅蜜寺。踊り念仏で知られる空也が天暦5(951)年に創建した西光寺が元になっており、977年に六波羅蜜寺に改称されました。名称は仏教の教義「六波羅蜜(大乗仏教で説く悟りの彼岸に至るための6つの修行徳目)」という語に由来しますが、この地を古来「六原」と称したことに由来するとも考えられています。六道珍皇寺のすぐそばで、あっちは「六道の辻」ということで、この辺りやたら「六」に縁があるような。

この辺りには平清盛ら平氏一門の屋敷があって清盛は六波羅殿と呼ばれました。またその後鎌倉幕府が朝廷監視のために設置した六波羅探題もこの辺りにあったということで、源平両氏に縁があるんですね。六波羅蜜寺も敷地は狭いのですが、それにそぐわぬ本堂の大きさを持っています。江戸時代までは大伽藍を連ねていましたが、明治維新の廃仏毀釈を受けて大幅に寺域を縮小したのだそうです。

口から6体の阿弥陀仏の小像を吐き出している有名な空也上人の立像など、重要文化財になっている仏像類は本堂裏手の有料の宝物殿に展示されています。もちろん見に行きました。薬師如来座像と四天王立像のほか、伝・運慶坐像、伝・湛慶坐像などもありました。

そこからは少し離れるのですが、三十三間堂の東隣にある智積院へ。その途中で予定にはなかったのですが、立派な建物があったのでついふらりと妙法院へ。青蓮院、三千院とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院だそうです。皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を「門跡」と呼びますが、妙法院は後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られ、近世には大仏や「国家安康 君臣豊楽」の鐘銘で有名な方広寺や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は現在も所管しています。

どーんと立っているのは本堂ではなく庫裏。桃山時代の建築で、本来は寺院の台所兼事務所の役割を果たす内向きの建物ですが、豊臣秀吉が先祖のための「千僧供養」を行った際の台所として使用されたと伝える豪壮な建物です。ケンシロウには「おまえのような庫裏があるか!」と言われそう。国宝なんですが外見は無料で見られます。

そして最後の目的地智積院。「ちせきいん」ではなく「ちしゃくいん」と読みます。こちらは建仁寺以上の大伽藍なんですが、隣の三十三間堂は超有名なのにこちらは意外にマイナーです。真言宗智山派総本山の寺院で、成田山新勝寺や川崎大師といった初詣の人出で日本一を競うような大寺院を配下に置いています。六波羅蜜寺も配下でした。

もともと和歌山の根来寺の塔頭でしたが、豊臣秀吉に攻められ全山炎上する中、智積院の住職は脱出し、散々辛酸をなめた後に関ヶ原の戦いに勝った徳川家康から庇護を受けて京都で再興を果たしました。豊臣氏が滅びると、隣接地にあった豊臣家ゆかりの寺地も与えられてさらに規模を拡大することに。



広い境内の中、金堂や明王殿などは無料で拝観でき、中に入ることもできます。大師堂や密厳堂も無料で参拝できますが、収蔵庫、講堂、大書院、名勝庭園は有料拝観となっています。収蔵庫には長谷川等伯・久蔵親子の国宝の障壁画「草花図」「桜楓図」などが展示されています。長谷川等伯は建仁寺の襖絵を書いている海北友松と並ぶ桃山時代を代表する画家ですね。ちなみに「雷神風神図」の俵屋宗達は尾形光琳と並ぶ江戸時代初期の大画家。

そして名勝指定されている庭園。「利休好みの庭」と呼ばれています。山は廬山、池は長江を模しているそうです。利休を気取る気は全くありませんが、確かにこの庭は畳に座って見入ってしまうだけの魅力がありますね。

それにしても境内の広い寺社はいいですね。秋の行楽日和だというのに智積院は人気がわりと少ないので特に気持ちが良かったです。隣の三十三間堂は、京都に行ったら外せない観光スポットとして有名ですが、ぜひあと一歩足を伸ばして智積院を訪れてみることを推奨します。

5つも寺院を見てすっかりお腹が空いたので、またもや京都駅ビルの拉麺小路へ。白樺山荘の味噌ラーメンは何度でも食べたいのですが、今回はその気持ちをぐっとこらえて坂内食堂へ。

札幌にいると喜多方ラーメンが食べたくなり、筑波嶺にいると札幌味噌ラーメンが食べたくなるという「ないものねだり」状態でしたが、なんと京都に来れば両方食せるという幸せ。ここはラーメン天国か?坂内食堂の、というか喜多方ラーメンはチャーシュー麺でなくてもチャーシューがたくさん入っているのですが、お腹が空きまくっていたのと肉が食べたいので、チャーシューで麵が見えないチャーシュー麺とチャーシュー丼のセットを注文。

胸が焼けるんじゃないかと心配のむきもあるかも知れませんが、ここのチャーシューは大丈夫。口の中で溶けるように柔らかくて実においしいです。そしてスープは白樺山荘の味噌ラーメンとは対照的にさっぱりあっさり。しかし傾向は全く違いますがこれがまた美味しいのです。煮卵はラーメンに投入しましたが、半熟具合が絶妙でこれもおいしゅうございました。

この拉麺小路、他にも各地の名店が入っていてどこも繁盛しているんですが、個人的には白樺山荘と坂内食堂を交互に行けたらもう十分ですね。
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