奈良公園散策記:秋は奈良もいいですね

先週中盤くらいからぐっと秋らしい気温になってきて、長袖は着るは上着は着るはという気候に。夜寝るとき何を掛けようか迷うところですが、ついに掛け布団を投入してしまいました。ちょっと暑いと足を出したりして。

秋と言えば何をするにも最適なシーズンということで様々なものに紐付けされますね。食欲の秋、芸術の秋、読書の秋etc.etc.…しかし、猛暑時代はどこにも行く気になれなかった反動で、ここは行楽の秋と行きたいところ。ということで本日は奈良公園に行ってきました。「京の夢大阪の夢」というカテゴリー名ですが、京都と大阪に限らず近畿の観光地は全てここに入りますのであしからず。

奈良公園は国の名称で、大部分が国有地で奈良県が無償で借用・管理しています。法的には寺社の境内地は面積に含まれないそうですが、一般的には東大寺・興福寺・春日大社の他、若草山・猿沢池なども奈良公園の敷地であると認識されています。その広義の奈良公園の面積は660ヘクタール。塀・柵・門などはなく、入園料も不要という私にとっても実に都合の良い場所です。


まずは中学校の修学旅行以来かも知れない春日大社に向かいます。到着はJR奈良駅。駅が事実上春日大社参道の始点となっており、奈良市の目抜き通りでもある三条通り商店街が趣深く東に延びています。

すると行く手に見えてくるのは猿沢池。興福寺の五重塔も見えて、一気に古都の雰囲気全開となります。周囲360メートルの小さな池ですが、興福寺五重塔が周囲の柳と一緒に水面に映る風景はとても美しく、「猿沢池月」 は南都八景のひとつとなっています。

ここから興福寺の境内に入ってもいいのですが、一之鳥居までは三条通りを進むことにします。鳥居をくぐると突如出現するのが鹿。奈良公園内には約1200頭に上る鹿がいて、国の天然記念物に指定されている野生動物ですが、人の手により角切りや餌付けをされています。あちこちで鹿せんべいが売られ、買った人を見ると周囲を取り囲んだりしています。人から餌を貰うだけでは足りないらしく、近隣の農地を荒らしたりもしているそうなので、なるべく鹿せんべいをあげるのがいいみたいですが、鹿が1日に食べる草は約5キログラムで、栄養価が高いとはいえ1枚3~4グラムのせんべいは何十枚食べても「おやつのようなもの」だとか。


二之鳥居からぐっと神社の境内らしくなります。それにしても石燈籠がたくさんあります。住吉大社にもたくさんありましたが、春日大社は広いだけに数も一層多いようです。しかも苔むして古びた感じが。それもそのはず今年は創建1250年なんだそうです。昔「世界まるごとHOWマッチ」という番組で、司会の大橋巨泉が何かというと「アメリカ人は100年前のものというとありがたがる」といった趣旨の発言をしていましたが、1000年前とかいったら口から泡でも吹くんでしょうかね。


春日大社の社伝では768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命(たけみかづちのみこと)、香取の経津主命(ふつぬしのみこと)と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命(あめのこやね)・比売神(ひめがみ)を併せて四殿の社殿を造営したのが始まりなんだそうですが、近年の境内の発掘調査により、それ以前に祭祀が行われていた可能性も出てきているそうです。大抵は社伝よりは新しいというパターンなんですが、社伝より古いかも知れないなんて凄いですね。武甕槌命と経津主命が藤原氏の守護神で、天児屋根命が藤原氏の祖神になる(比売神はその妻)そうで、藤原氏の隆盛とともに春日大社も隆盛しました。

ちなみに雷神である武甕槌命と刀剣の神である経津主命は、まつろわぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたそうですが、星の神の香香背男だけは服従しなかったそうです。プロレスに例えるならば全盛期のハンセン・ブロディ組のような最強タッグであるこの二人に屈しないとは凄いな香香背男。別名は天津甕星(あまつみかぼし)で、金星の神格化とも言われていますが、まつろわない、金星というとルシファーを連想してしまうのは私だけでしょうか。魔王ルシファーならばなるほどこの二神ともよく戦うことでしょう。

拝殿はなく、一般の参拝者は幣殿の前からの参拝となります。初穂料を納めて特別拝観を申し込んだ場合は本殿前の中門から参拝することができますが、正直ここまで来ないと神社に参拝という感じがしないのではないでしょうか。神社は基本無料で入れるので私は好きなんですが、金を払うのは嫌なので幣殿までしか行けませんでした。

摂社末社も山ほどあるんですが、本殿から若草山に抜けていったので見たのは一言主神社と水谷神社くらい。一言主神社は平安時代初期に興福寺境内に創建したものを明治に入って春日大社の境内に移したそうです。本来は葛城山の神だそうですが、一言の願いであれば何でも聞き届ける神だそうです。個人的には役小角にこき使われていたという印象が。

水谷神社は水谷川に沿って建てられており、江戸時代までは祇園精舎の守護神で医薬の神として尊崇された神仏習合の牛頭天王(ごずてんのう)が祀られていましたが、明治の廃仏毀釈により素盞鳴命(すさのおのみこと)・大巳貴命(おほむなむみのみこと)・奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)が祭神となっています。

そして道を北上していくと右側に見えるのが若草山。毎年1月に行われる山焼きが有名です。なだらかな山腹が芝に覆われていて、奈良を代表する景観の一つです。山頂から見る奈良の夜景は、新日本三大夜景のひとつに認定されているそうですが、入場料を取られるんですよねこの山。なので麓から見るにとどめました。

いよいよ東大寺の境内に入って最初に見えるのは手向山八幡宮。天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請されたものだそうです。その名のとおり手向山の麓にありますが、その手向山は古くから紅葉の名所として知られ、百人一首で菅家(菅原道真)が「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んでいるあの手向山なんだそうです。今では平城山丘陵(ならやまきゅうりょう)と呼ばれています。

続いて三月堂。これは通称で正式には法華堂。東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺(きんしょうじ)の遺構とされています。旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになったことから三月堂と呼ばれるようになりました。内部の拝観は有料なので外見のみ。

そのそばにある四月堂。これも通称で本来の名前は「三昧堂」です。毎年四月に法華三昧会(ほっけさんまいえ)が行われることから「四月堂」と呼ばれるようになりました。平安時代の1021年(治安3年)あるいは1067年(治暦3年)に建立されたと考えられている小さなお堂ですが、これは今の今まで存在に気付いていませんでした。

そしてひときわ大きな二月堂。三月堂、四月堂も二月堂があるからこそ名付けられた通称だろうと思いますが、こちらは本名です。旧暦2月に「お水取り(修二会)」が行われることからこの名が付けられました。奈良時代の創建ですが、火災で全焼したため現存する建物は1669年の再建です。それでも国宝に指定されています。「お水取り」は8世紀から連綿と継続されている宗教行事で、密教や神道の要素や民間習俗を取り入れた、きわめて複雑で謎の多い行事とされています。


大仏殿は何回も入ったし、有料なのでパス。残念だったのは正倉院。中に入れないのは当然として、外観ぐらいはそばで拝みたかったのですが、公開は原則平日のみだそうです。

創建1300年を超える春日大社以上の古刹である興福寺も見ようと思っていたのですが、ここまで歩いてくるといい加減足が草臥れてしまいました。どうせ拝観料取られますしね。ということでJR奈良駅まで戻る気力もなくなったので、もっと近い近鉄奈良駅から大阪に戻りました。行きもこっちを使ったら良かったかなあなんて思いつつ、でもまあいい運動になった秋の一日でした。

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