天神橋筋商店街と大阪天満宮:日本一長い商店街

今日も比較的快適な気候でした。5月はこうでなくては。また今週後半からは気温が高めになっていきそうですが、先週みたいな大雨も困ります。これくらいの日に出歩かないと。

ということで、本日は天神橋筋商店街を一気に通ってきました。天神橋一丁目から天神橋六丁目まで南北2.6km、600の店舗が軒を連ねる日本一長いアーケード商店街なのです。行くまでは札幌の狸小路商店街の兄貴分程度にしか考えていませんでした。狸小路商店街も西一丁目~西七丁目まであるので、丁目の数的には互角なんですが、狸小路商店街は総延長約900メートルということで、天神橋筋商店街はおよそ3倍の長さです。シャア専用商店街…

天神橋筋商店街は南から一丁目二丁目と並んでいて、一番北が六丁目。狸小路商店街は東西なのでそこからして違うのですが、長すぎるせいか全体の連合組合はないようです。商店街のおこりは、江戸時代初期の1653年(承応2年)頃に青物市が立ったことに始まり、その後大阪天満宮の表参道として繁栄することになりました。

大阪天満宮の門前町として発展するとともに、かつては大阪三大市場のひとつである天満青物市場が近くにあったことから、庶民の盛り場として大阪きっての賑わいを見せていましたが、1931年(昭和6年)に市場機能が大阪市中央卸売市場に集約されてしまい、大型店の出店攻勢や地下鉄と阪急電鉄の相互乗り入れによりターミナル性を失うなどして苦境に立たされるようになりました。

各商店会では魅力ある商店街を目指して巻き返しを図っており、例えば商店街の両端の店舗にスタンプがあり、両側の店舗でスタンプを押すことにより、日本一長い商店街を端から端まですべて歩き切ったたことを証明する「満歩状」を発行しています。年間約2500人に満歩状が渡されているそうです。しかしこれは気がつかなかった(笑)。

大阪で驚くことは、自転車がやたら多くて歩道をビュンビュンと突っ走っていることです。特にチャイルドシートを搭載した自転車に乗った大阪のおばはん(失礼)達がパワフルです。危ないなあといつも思うのですが、天神橋筋商店街でも、自転車と歩行者との接触事故が多発しているとか。そりゃああれだけ人通りの多いところで自転車に乗ってはいかん。商店街側の要請により、2014年1月31日以降に天満駅南側(天満橋筋四丁目以南)において、時間帯を区切っての自転車の通行規制を実施しています。

歩いてみた感想ですが…日曜日のせいかとにかく人多い(笑)。例によって中国人を中心とする外国人もたくさんいます。ありとあらゆるお店があるので、お金さえあれば天神橋筋商店街一歩も出ずに暮らすこともできそうです。2.6kmもあれば端から端まで往復するだけで運動になりますし。あ、病院はないかも。歯医者は見たような気がしますが。

東西に走る車道で寸断されていることもあり、のんびり歩いているとわりとあっさり踏破できました。店を覗いて回ればもっと時間はかかるでしょうが。二丁目と三丁目の間には曾根崎通りが通っていて大きく分断されています。曾根崎通り…ああ、君たちリリンは国道一号線と呼んでいるね(なぜかカヲル君)。

で、天神橋筋商店街を踏破(というほどではありませんが)したからには、その発達の要因である大阪天満宮にも行かなければなりません。大阪市民からは「天満(てんま)の天神さん」と呼ばれ親しまれています。

あれだけの長大な門前町を有しているのでさぞや大きい神社かと思いきや…こじんまり!天満宮なので当然天神様こと菅原道真の神社ですが、901年に菅原道真が、藤原時平により九州大宰府へ左遷させられた際、この地にあった大将軍社に参詣したのだそうです。903年に菅原道真が没した後、天神信仰が始まり、949年に大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わったことで、当時の村上天皇の勅命によって天満宮を建立させたのが始まりなんだそうです。

そのため、本殿では当然菅原道真を祀っていますが、境内には大将軍社が外社としてあります。ちなみに大将軍とは、陰陽道において方位の吉凶を司る八将神(はっしょうじん)の一つで、魔王天王とも呼ばれる大鬼神です。仏教での本地は他化自在天ということで、そーれーはー第六天魔王波旬じゃないですが。織田信長が自称したりしてました。

ちなみに八将軍は全て星神で、大将軍は金星の神格です。八将軍…なんというか中二病心を刺激するワードですね。そういえば車田正美の懐かしの学ラン忍者バトル漫画「風魔の小次郎」に「夜叉八将軍」という敵が出てきてました。


ちょうど人形祭というのを開催していまして、供養するらしい人形がずらりと。これはやはりお焚き上げということになるんでしょうね。人の形をしたものはやはりただ捨てるのは忍びない気持ちになりますか。

ちなみに本殿は大塩平八郎の乱の際に焼けてしまったのだとか。歴史の教科書でしか見たことがなかった事件ですが、この乱の際の火災で、天満を中心とした大坂市中の5分の1が焼失し、当時の大坂の人口約36万人の5分の1に当たる7万人程度が焼け出されたそうなので、大阪ではもの凄い大事件だったんですね。

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