佐賀のがばいばあちゃん:明るくて逞しい、これが日本版「貧困の文化」?

今日は先週の寒さはどこにいったんだというくらいの暖かさでした。明日からはまたちょっと朝夕冷え込むみたいですが、日中と寒暖の差が大きいと体調を崩しがちなので気をつけて下さい。もっともずっと暑い真夏とかずっと寒い真冬よりずっと過ごしやすいのですが。

本日は島田陽七の「佐賀のがばいばあちゃん」を紹介しましょう。島田洋七といえば、80年の漫才ブームで一世を風靡した漫才コンビ「B&B」が真っ先に思い浮かびますが、作家でもあるんですね。島田洋七の本は初めて読みました。

島田洋七は1950年2月10日生まれで広島市出身。80年代の漫才ブームのトップランナーとして君臨するも、その後は全くテレビに出演することもなく泣かず飛ばずとなり、しかし2000年代に「佐賀のがばいばあちゃん」でベストセラー作家になるという、激しい浮き沈みを経験している人です。

その「沈んでいた時代」に関しては、今年7月18日の「しくじり先生 俺みたいになるな!! 3時間スペシャル」で本人が詳しく語っていましたが、要するに「人の話を聞かずに思いつきで行動して何度も同じ失敗を繰り返し」ていたそうです。また、漫才ブームの最中、ビートたけしや島田紳助は「漫才ブームが終わった後どうするか」ということを考えていたのに、ブームに浮かれて売れっ子生活を享受するばかりだったそうです。

しかし、それも仕方ないかなという売れ具合ではありました。漫才ブームでは老舗の「やすし・きよし」をはじめ、「ツービート」「紳助・竜助」「ザ・ぼんち」「のりお・よしお」など、多数の漫才師がスターダムに登りましたが、おそらく一番人気があったのが島田洋七の「B&B」でした。

80年から82年にかけて放映された「笑ってる場合ですよ!」では総合司会を務め、当時人気のあった漫才・コントタレントが続々と登場し、フジテレビの看板ランチタイム番組になりました。番組自身は2年間と比較的短命でしたが、その番組スタイルは後番組にして長寿番組だったの「森田一義アワー 笑っていいとも!」に継承されていきました。ていうか「笑っていいとも!」があんなに長く続くとは、開始当時は誰も思っていませんでした(恐らくタモリ本人も)。

「B&B」の漫才スタイルは、島田洋七のマシンガンのような言葉の連射攻撃で、島田紳助はTVで洋七を見て衝撃を受け「島田洋七を倒す事に俺の青春を賭けよう」と考え、ラサール石井は「何より凄かったのは洋七さんのテンポ、速射砲のような喋りとパワーあふれるツッコミ」「しかも画期的なことは、出番でない他の芸人達がB&Bが出ると楽屋から出てきて客席の後ろの方で大笑いしていた」と言っています。

“毒ガス”と呼ばれたブラックギャグが持ち味だったビートたけしも、洋七の“言葉の連射攻撃”“客を完全に飲み込んで唖然とさせる漫才”を見て衝撃を受けたことで、スピードを早めてたけし一人が喋りまくるスタイルへ変更したそうです。

絶頂期には月100本以上の番組に出演していたB&Bですが、忙しくなるとネタを作る余裕がなくなり、同じネタを繰り返し使うようになって、いわゆる「芸が荒れる」状態となって、徐々に観衆から飽きられるようになっていきます。ビートたけしは「B&Bとかザ・ぼんちとかは、漫才ブームの中のトップを目指したから潰れてしまったわけね。オレは漫才ブームのときには、自分で1位になってやろうなんて思ってなかったから。そのときから違うことやろうと思ってたからね。その後の勝負だとおもっていた」と言っていますが、そういう先見の明が今の「世界の北野 足立区のたけし」を形作っているのですね。

そのビートたけしと島田洋七は親友同士で、低迷期の洋七は「たけし軍団」のコック長みたいなことを7年間くらいも続けたそうです。選挙に出たり事業をやったり欽ちゃんファミリーに入ったりいろいろやってましたが、どれもこれも上手くいきませんでした。芸人引退も決意したそうですが、たけしに相談すると、「芸人をやめるなら友達づきあいをやめるぞ!」と一喝され、思いとどまったそうです。

「佐賀のがばいばあちゃん」も、執筆動機は、佐賀の祖母を中心に、子供の頃の思い出をビートたけしに語って聞かせたところ、面白いので本にすることを強く勧められたことにあります。島田洋七はビートたけしを恩人とも思っており、二人の関係に関して「俺の彼」という本も執筆しています。

「佐賀のがばいばあちゃん」は1987年に「振り向けば哀しくもなく」という題名で太田出版から自費出版で3000部を発行しました。2001年に加筆・修正のうえ「佐賀のがばいばあちゃん」に改題し、愛育社から2度目の自費出版を行いました。2003年夏に「徹子の部屋」に出演した際に紹介されたことで話題となり、2004年に徳間書店で文庫版で再出版され、一気にベストセラーとなりました。「がばい」シリーズは多数出版されており、売り上げ冊数は総計400万部を超えています。例によって文庫版裏表紙の内容紹介です。

昭和三十三年、広島から佐賀の田舎に預けられた八歳の昭広。そこでは厳しい戦後を七人の子供を抱えて生き抜いたがばい(すごい)祖母との貧乏生活が待っていた。しかし家にはいつも笑いが溢れ…。黒柳徹子、ビートたけしも感動した超話題作。

父親は原爆投下後の広島で家族を探して爆心地を歩き回ったことで被爆し、洋七が2歳の時に原爆症でなくなりました。母と兄と3人で貧乏生活を続けていましたが、母を恋しがって、まだ幼い洋七(本名は昭広)が物騒な夜の盛り場にやってくるため、佐賀の祖母(この人ががばいばあちゃん)に預けられ、中学校を卒業するまでの8年間を佐賀で暮らすことになります。

この預けられるシーンからして爆笑ものです。佐賀から広島に来ていた叔母さんを見送りに行くと言われて駅のホームにいたら、発車ベルと同時に母に列車に向かって突き飛ばされ、あれよあれよという間に佐賀に連れて行かれたという。

そして都会の広島と違って何にもない佐賀(洋七談)に来て、あの家だけは嫌だと思ったあばら家がまさしくがばいばあちゃんの家なのでした。代々の貧乏の家系ということで、戦争中に夫が死んで5人の子供を女手一つで育て上げたがばいばあちゃんは、超のつく貧乏で苦労人ですが、とても明るく逞しい人で、むしろ貧乏を楽しんでいるかのようにも見えます。

家のすぐそばの川の水面すれすれに棒を伸ばして、ひっかかった漂流物を食料や焚き付けにして、「わざわざ配達してくれる」「トマトなんか冷えながら流れてくる」「勘定もせんでいい」と川をスーパーマーケット呼ばわりしてたり、ヒモの先に磁石を付けて引き摺って歩き、くっついてきた釘や鉄くずを集めて売ったりと、非常に明るく逞しい生活力を見せてくれます。

貧乏をこじらせると、夕方には洋七に寝ろといい、夜中に腹が減ったと言っても「気のせい」「夢だ」と無茶苦茶な屁理屈で押し切ってしまいます。剣道や柔道がやりたいと言うと、金が掛かるからひたすら走っておけといい、それも靴がすり切れるから裸足で走れと強弁するという。

そんながばいばあちゃんも運動会の日くらいは卵焼きでも付けてやりたいと、飼っている鶏に「産め!産め!」と叫びますが、鶏は「ケッコウ!ケッコウ!」と鳴くばかり。「産め!産め!」という声に、合いの手のように「はい!はい!」という声がするので何かと思えば隣の家のウメばあちゃんの声だったという。こんなんビートたけしじゃなくても笑うわ。

「はなわ」が♪SAGA佐賀~♫と佐賀には何もないなどと自虐ギャグをやっていましたが、昭和30年代の佐賀には人情がありました。腹を壊したといってお弁当を取り替えてくれる先生や、わざわざ豆腐を崩して安く売ってくれる豆腐屋さんとか。水道料金の集金も「ここ2、3か月水を飲んでない」で苦笑して去って行くという。

小学生から野球にはまった洋七少年は、中学校では1年生から堂々レギュラーとなり、その後キャプテンにもなります。女の子からキャーキャー言われてちょっとしたヒーローだったそうですが、吉永小百合似の女子校生との淡いロマンスもあったりするものの基本的には野球漬けの日々で、勉強のほうはからっきしでしたが、がばいばあちゃんは成績には一切頓着せず、英語が出来ないと言えば「『私は日本人です』って書いとけ」、歴史が嫌いと言えば「『過去には、こだわりません』って書いとけ」という。成績表がさんざんで、「1と2ばかりでごめんね」と言えば「大丈夫、大丈夫。足したら5になる」「人生は総合力」と笑うという。いいなあ、こういう人。

そんな成績でも、野球では有名人となった洋七は、広島の名門広陵高校から特待生として入学が許され、8年間一緒に暮らしたがばいばあちゃんの元を去ることになります。この時のばあちゃんの行って欲しくないけど行くなとは言えないというジレンマが涙を誘います。

2006年に映画化され、吉行和子ががばいばあちゃんを演じました。興行収入6億円のヒット作となり、2007年11月23日に日本テレビ系の金曜ロードショーで地上波初放送した際には17.2%の高視聴率をマークしました。第4回ベルリン・アジア太平洋映画祭グランプリを受賞し、ついでに文部科学省推奨まで貰ったりして。

2009年には島田洋七自身が監督となって「島田洋七の佐賀のがばいばあちゃん」を製作しましhた。こちらのがばいばあちゃんは香山美子。ついでに言えばお母さんは高島礼子。…ちょっと綺麗過ぎないかい?

テレビドラマはフジテレビ系で2007年に第一弾が、2010年に第二弾が製作されました。がばいばあちゃんは泉ピン子。一気に気品が消え去った反面、バイタリティは急上昇。お母さんは石田ゆり子でこれはどう見ても綺麗過ぎるんじゃないかい。泉ピン子の娘が石田ゆり子はいくらなんでもなあ…と思ったら、そこは女優。画面上はあまり違和感ありませんね。でもやっぱり石田ゆり子はいい!

さらに舞台化、コミック化、ゲーム化までされているという人気ぶり。ちなみに「がばい」とは「非常に」の意味なので、「がばいばあちゃん」を直訳すれば「非常にばあちゃん」となってしまい、ニュアンスである「非常にすごいばあちゃん」を正しく表すなら「がばいすごかばあちゃん」となるのですが、洋七自身も本来の使い方ではないとしています。なお、佐賀にはこの本がベストセラーになるまで「がばい」の意味を知らない老人が多数いたとのことで、「がばい」は若い世代を中心に広まった比較的新しい佐賀弁のようです。

ただ…島田洋七は、話す内容のほとんどがまことしやかな作り話だと言われており、矛盾がどんどん生じていくのですが、騙し通す事が目的ではないのでまったくお構いなしに作り話を重ねていくそうです。なので、自伝的小説である「佐賀のがばいばあちゃん」も真実性は疑わしいとか。まあフィクションだと割り切れば別にいいのですが、泣いちゃった人は「涙を返せ!」なんてことになったりして。

スポンサーサイト