剣の天地:池波正太郎が剣聖上泉伊勢守の半生を描く

昨日は30度越えの真夏日で、本当に10月かと疑いたくなりますね。今日は夜風がわりと涼しくて、ふと秋も近いななんて思ったのですが、それは一ヶ月前位の感想でしょうが。明日も30度になるらしいのですが、そのうち浴衣で初詣とか、季節が雨季と乾季しかなくなったりするのかも知れません。ヤバイヨヤバイヨ。

本日は池波正太郎の「剣の天地」を紹介しましょう。上野国(現群馬県)の小領主として武田・上杉・北条といった大戦国大名の野望に翻弄された末、一介の剣士としての生き方を選択した上泉伊勢守のアラフォーからの人生を描いた作品です。
日本の剣術を辿っていくと、念流、神道流、陰流の3つの流派に行き着くとされ、兵法三大源流といわれます(京都の中条流を含めて兵法四大源流とする場合もあります)。これは誰が言及したのかと言えば、上泉伊勢守で、柳生宗厳(石舟斎)に与えた「影目録」で兵法の歴史に触れた際に登場してくるそうです。上泉伊勢守はこの三大源流を全て学んだとされています。

実は上泉伊勢守には足取りに不明な点も多く、生没年も定かではありません。一応永正5年(1508年)? - 天正5年1月16日(1577年2月3日)?という推定がありますが、没年には天正10年(1582年)説もあります。年代的に信長の覇道は見ていても秀吉の天下統一は見れなかったということに。それでは例によって文庫版裏表紙の内容紹介です。
(上巻)時は戦国――のちに「剣聖」と仰がれる上泉伊勢守は関東制覇の要衝・上州は大胡の城主。上杉謙信・武田信玄・北条氏康の野望に巻き込まれ、戦場から戦場へ体を休める暇もない。その武勇を「上州の一本槍」と天下に轟かせるも、一介の剣士として剣の道に没入できる平穏な日々の訪れを秘かに願う伊勢守だった。折しも国盗り合戦は佳境を迎え、上州の勢力図にも大きな変化が……。

(下巻)押し寄せる武田軍によって上州は陥落寸前。死を覚悟し、最後の出陣に臨んだ上泉伊勢守に「兵法を広めよ」との伝令が……。隠居を決意した伊勢守は、剣の道を極めるため、旅に出る。柳生の里や京都で「心と躰は二にして一」という「活人剣」を標榜し、無益な殺生を拒否した伊勢守が、最後に見せた凄まじくも静かな剣技。「新陰流」の創始者となった戦国武将の勇壮な生涯を描いた長編時代小説。

ということで、上巻では剣の道を究めようとしながらもその一方で戦国武将の一人である上泉伊勢守が、下巻では武田信玄の攻撃により仕えていた長野氏の箕輪城落城後に死を覚悟して出陣したところ、すでに勝負はついたとして武田信玄から戦いを回避されたことで、城や領土を譲って隠居し、一介の剣士として諸国を放浪する様子が描かれています。放浪といっても行く先々で歓待されるので漫遊といった方がいいような気もしますが。

剣聖と称される上泉伊勢守を描くとなれば、剣豪達との果たし合いやら戦場での大活躍が描かれるのではないかと思われますが…。実は戦闘シーンはさほどありません。武将時代は戦場にも出て大活躍するのですが、得物は基本槍で、刀はあまり使いません。野戦で多数を相手にする場合は槍の方が有効なんでしょうかね。現代の武器に例えれば槍は小銃、刀は拳銃といったところか。

そして隠居して剣士として諸国を回るようになると、その剣名は高まるばかりであちこちの大名からお呼びがかかり、わりと気軽に兵法談義をしたり一手指南したりしますが、真剣での立ち会いは一切しません。剣豪将軍と言われる室町幕府第十三代将軍足利義輝とも会見しています。

足利義輝はやはり同時代の剣豪で、剣神ともいわれる塚原卜伝の教えを受けた直弟子で、かなり武術に優れた人物だったのではないかと言われています。最期を迎える永禄の変の際は薙刀を振るって戦い、その後は刀を抜いて戦ったと言われ、江戸時代後期の「日本外史」では「足利家秘蔵の刀を畳に刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦った」という記述があります。ただこれは後世の記述なので信憑性に欠けていると指摘されており、義輝の“剣豪ぶり”は実像からかけ離れているととも言われています。

が、その師である塚原卜伝は、弟子である弟子である加藤信俊の孫による「卜伝遺訓抄」のよれば、「真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず、木刀等の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、切疵、突疵を一ヶ所も被らず。矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具に中(あた)ることなし。凡そ仕合・軍場共に立会ふ所に敵を討つ事、一方の手に掛く弐百十二人と云り」と述べられてほどの活躍ぶりです。なので塚原卜伝を扱った小説はどうしても立ち会い場面が出てこざるを得ません。

本書では上泉伊勢守の剣の師として鹿島の天真正伝香取神道流の松本備前守と陰流創始者の愛州移香斎から学んだとされており、塚原卜伝も松本備前守の高弟にして上泉の兄弟子という立場で登場、若き日の上泉伊勢守にスパルタ特訓を施しています。戦ったらどっちが強かったのか、は男のロマンですが、卜伝は20歳近く年上だったようなので、全盛期(っていつなんでしょう)は重ならないかも知れません。

上泉伊勢守の創始したのが新陰流で、これは柳生石舟斎に継承され、柳生新陰流となります。ただしこれは俗称で、正式な流儀名は「新陰流」のままだそうです。源流の3流派を学んだとされますが、新陰流という名称から、陰流の影響がもっとも強かったのでしょう。上泉伊勢守には他にも弟子がおり、疋田陰流、タイ捨流、神後流、神影流などの分派が生まれていますが、本書では上泉伊勢守自身は柳生石舟斎こそが自分の後継者と定めたことになっています。

新陰流は石舟斎の五男である柳生宗矩が徳川将軍家の剣術指南役となったことで有名となり、また柳生十兵衛、柳生連也斎といった天才剣士を輩出したことで、江戸前期には大いに栄えた印象がありますが、中期以降はあまりぱっとしなくなった印象です。江戸後期になると千葉周作の北辰一刀流とか、斉藤弥九郎の神道無念流といった新剣術が流行し、幕末の著名人達の多くもこれらの道場で剣を学んでいますが、新陰流は全く存在感を失っています。

ひたすら立ち会いを避けた上泉伊勢守ですが、最後の最後に、25年来の宿敵ともいえる十河九郎兵衛の執拗な挑戦を受け、遂には待ち伏せされることで戦わざるを得なくなります。十河九郎兵衛を倒し、その後一門の20数名が殺到する中、手足を斬り飛ばしてことごとく斥ける上泉伊勢守の姿は、「剣客商売」の秋山小兵衛の「二十番切り」を彷彿とさせます。ただ、殺したのは十河九郎兵衛だけで後は死んでいないそうです。さすが活人剣。しかし、手や足を失って生きるのもこの時代はかなりきつそうですが…

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