まとい大名:粋といなせの深川は「カードキャプターさくら」的世界?

しばらくでした。本来金曜日に更新しようよ思っていましたが体調不良により本日まで伸びてしまいました。あくまで自分の内面の問題ですが、頻度低下宣言をしていて良かった良かった。そんなことよりお盆ですね。盆と正月は休むというのが古来からの日本のしきたりみたいなものですが、皆さんも休みましたか?往復共に混雑の中だとむしろ疲れちゃうかも知れませんが。

本日は山本一力の「まとい大名」を紹介しましょう。「火事と喧嘩は江戸の花」なんて言葉がありますが、現代では「火災都市」と呼ばれるほどに、江戸では火事が頻発しました。江戸ほど大火が多数発生し、広大な市街地が繰り返し焼き払われた史実は、世界でも類例がないとされます。
「関ヶ原の戦い」翌年の慶長6(1601)年から、大政奉還の行なわれた慶応3(1867)年に至る267年間に、江戸では49回もの大火が発生しました。江戸以外の大都市での大火は、同じ267年間で京都が9回、大阪が6回、金沢が3回などで、江戸の大火の多さは突出しています。大火以外の火事も含めれば、267年間で1798回を数え、人口の増加による江戸の繁栄に比例して、火事の回数も増加していきました。

「振袖火事」の異名をとる「明暦の大火」(1657年)は江戸時代最大の被害を出した大火ですが、江戸の大半が被災し江戸城天守も焼失し、10万人以上が死亡したと推計されています。

江戸の大火が他の大都市に比べて多かった理由としては、膨大な人口が居住することによる建物の密集や困窮した下層民の存在、江戸の独特な気象条件(冬期の乾燥と空っ風)などがあげられますが、失火のほかに放火も多くあった模様です。火事のどさくさに紛れて盗みを働く火事場泥棒や、奉公人の主人に対する不満や報復・男女関係による怨恨や脅迫など、人間関係に起因する放火も多く、放火の動機は現代と同様様々であったようです。

池波正太郎の「鬼平犯科帳」で知られる長谷川平蔵は、重罪である火付け(放火)、盗賊(押し込み強盗団)、賭博を取り締まる火付盗賊改方の長官ですが、幕府常備軍である御先手組が兼任していました。町奉行所が文官であるのに対し、武官であるため取り締まりは苛烈で、誤認逮捕等の冤罪も多かったことから、「大岡越前」などの町奉行所を主役にした時代劇では悪役として扱われたりします。しかし、町奉行所とは別にそういう組織が必要だと認識されたんでしょうね。

で、江戸で火事が多いということは当然幕府も問題視しており、火消し制度が整えられていきます。初期は武家地で火事の場合は付近の大名・旗本が、長屋・商家などの町人地での火事は町人自身が消火を行なうという状態で、組織的な消防制度は存在しませんでした。
以後徐々に整備されてった火消し制度ですが、抜本的な見直しが行われたのは「暴れん坊将軍」八代吉宗の享保の改革の際です。南町奉行大岡越前守忠相が主導し、町人の消防組織である町火消の制度化が作られました。隅田川から西を担当するいろは組47組と、東の本所・深川を担当する16組の町火消が設けられ、同時に各組の目印としてそれぞれ纏(まとい)と幟(のぼり)が作られました。その町火消が本書のテーマです。

「まとい大名」は、単行本は2006年12月に毎日新聞社から刊行され、文庫版は2010年1月に文春文庫から刊行されました。それでは例によって文庫版裏表紙の内容紹介です。
おとっつあんは、みんなのために命を懸けて火事を退治しに行くんだ――。おのれの命とひきかえに町を守った深川・南組三之組の火消し頭徳太郎。幼いときからその背中を見て育った息子の銑太郎は、やがて一人前の火消しへと成長していく。炎の恐怖と闘い、火消しに体を張る男たちの誇り高い姿を描いた、山本一力の真骨頂。

主人公銑太郎のパパンの徳太郎は、火消の頭として人望を集める人でしたが、ある火事の際、食用油の樽が大量に貯蔵された納屋に火が入って大火事になりそうになった時、自ら水を被って炎に包まれる納屋に入っていき、人柱になるのと引き替えに鎮火させるというドラマチックというよりはオカルトチックな最期を遂げます。
それが深川一帯では大評判となり、父のようになることを期待され、また自分自身もそうあらんとする銑太郎の幼少期から成人していっぱしの頭となるまでの物語です。何しろ火事場に真っ先に駆けつけ、命を賭けて火事に立ち向かうのが火消なので、市民からは尊敬され、憧れの職業でもありましたが、当時の消火は事実上破壊消火一辺倒です。

破壊消火というのは、建物や構造物などを破壊して延焼を防ぎ、消火する方法で、可燃性の建物や構造物を破壊して燃える物をなくすことで延焼を防ぎ最終的に消火するのですが、要するにまだ燃えていない家屋などを破壊してしまう訳で、当事者の住民からは激しく恨まれ、また破壊を指揮した火消の頭自身も、あの建物は毀さなくても良かったかもなんて後悔の念を抱いてしまったりします。

感謝される反面恨みも買い、毎回出動の度に命は知れないという格好いいけど儚い火消稼業。そんな銑太郎が父を越える声望を得る日がやってきます。江戸城二の丸で火災発生。城内なので町火消は入っていけず、大名火消が消火を担当しますが、経験の差は歴然で大名火消の手におえなくなった時、遂に町火消に動員がかかります。そこで見せた銑太郎の手腕が、「まとい大名」というかけ声を生み出すことになります。

登場人物はほぼ江戸っ子。気っ風が良くて礼節があってさばけててと、いわゆる江戸っ子の特徴である「いきでいなせ」な人々ばかりが登場します。悪役かなと思われる人物もいないではないのですが、結局は実があって本当はそれほど悪い人ではなかったということになるあたり、まるで「カードキャプターさくら」の世界のようです。あの世界も悪人は一人もいませんでした。
そうは言っても当然いいことばかりあるわけではなく、銑太郎の場合は幼少期にパパンが死に、成人して結婚後はママンが渡し船の転覆により不慮の死を遂げます。しかしその際に同時に発生した火事の鎮火に優先して向かったことで、銑太郎の評判は一層大きくなのですが、船の転覆による犠牲者がママンであることを知らなかったせいもあるので、最初から知っていたとしたらあえて火事場に行けたかどうか…。それでも火事に向かったとしてら「偉い!!」と言うしかありませんけど。

本書に登場する火消達は、「いい男」(ただし「ウホッ」系ではない)揃いですが、実際には火消人足の中にも、消火活動を衆目に見せるためなどの理由で、火事を拡大させるような不埒や輩もいたようです。それが発覚した場合、幕府は死罪にしたようですが、いますよね、現実はそういうバカ。だから銑太郎みたいな人も、世の人々は偉い偉いと褒めそやすでしょうが、その一方で「あいつばっかり」とダークな感情を持つ人々もいておかしくないと思います。
前に百田尚樹の「影法師」を読んだ際、主人公がやってはいけないこと(殺人)まで踏み込んで、しかも反省も後悔もないことに驚きましたが、一方で山本一力作品はそれを読んだ後ではやや綺麗すぎるような気もしてしまいます。綺麗で見栄えはするけど非現実的というか。読書で気分をすっとさせたい場合はその方がいいんですけどね。
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