ホテル・アイリス:破滅的恋愛を描く「私の奴隷のなりなさい」の対極的SM小説

いやはや暑いですね。暑さは来週も続くと言うことですが、暑さ寒さも彼岸までといいます。きっともうすぐ皆が大好きな秋が来ます。それまで耐えましょう。冬の訪れはゆっくりでいいので、秋に長くいて欲しいですね。……なんかそんな歌があったような気がします。
さて、本日も本の紹介を。読書の秋か?それとも薄い本のせいか?多分両方です。
ご紹介するのは、今日読み終わったばかりの小川洋子の「ホテル・アイリス」です。

小川洋子は1962年生まれの50歳。1988年に作家としてデビューし、1991年に妊娠した姉に対する妹の静かな悪意を描いた「妊娠カレンダー」で芥川賞を受賞しています。以後も無垢と残酷、生と死、慈しまれるものの消滅といったテーマを繊細な筆致で描いており、その他の代表作には読売文学賞と本屋大賞を受賞した「博士の愛した数式」(2003年)、フランスで映画化された「薬指の標本」(2005年)。泉鏡花賞を受賞した「ブラフマンの埋葬」、谷崎潤一郎賞を受賞した「ミーナの行進」(2006年)などがあります。
という訳で、錚々たる売れっ子作家なわけですが、私が今までに読んだことがあるのは「博士が愛した数式」だけです。

「博士の愛した数式」は、交通事故による脳の損傷で記憶が80分しか持続しなくなってしまった元数学者の「博士」と博士の家政婦である「私」、そしてその息子の「ルート」の心のふれあいを、美しい数式と共に描いた作品で、万人向けのハートフルな物語です。2006年には映画化されています。
私が今回図書館で「ホテル・アイリス」を手に取ったのも、「あ、『博士の愛した数式』の人の本だ」と思ったからなのです。しかし、裏表紙のあらすじを見たら「ええ!?」と思いました。そこには……
染みだらけの彼の背中を、私はなめる。腹の皺の間に、汗で湿った脇に、足の裏に、舌を這わせる。私の仕える肉体は醜ければ醜いほどいい。乱暴に操られるただの肉の塊となった時、ようやくその奥から純粋な快感がしみ出してくる…。少女と老人が共有したのは滑稽で淫靡な暗闇の密室そのものだった―芥川賞作家が描く究極のエロティシズム!
なんて書いてあったのです。 オイオイ、ハートフルどころか、ハートフルボッコな作品じゃないかとツッコみを入れてはみたものの、やっぱり借りてしまったのは、既にご紹介したサタミシュウの「私の奴隷になりなさい」と比較してみたかったからです。
で、内容ですが、日本とも外国とも知れない(雰囲気的には異国風なのですが、主人公の少女の名前はマリで、英語やロシア語が「外国語」とされているところは日本的でもあります。私の勝手な妄想の中ではクロアチアのドゥヴロブニクあたりがいいなと思うのですが、作中「イタリアに留学に行くのでしばらく来れない」といった会話があって、クロアチアとイタリアは隣国ですぐそばなので無理があるような気がします。じゃギリシャのエーゲ海沿岸あたりということで手を打ちますか)マリンリゾートにある「ホテル・アイリス」の少女が主人公です。花の17歳ですが、母娘2人だけの家族になってしまったので高校を半年で辞めさせられて、以後はずっとフロントで働いています。
母は他人にはマリの容姿の美しさを自慢している反面、ホテルの業務でこき使っており、毎日マリの髪を梳って、美しいシニョンを作ることを日課としています。これは愛情というよりは、マリをホテルや自分に縛り付けておこうとする呪縛の行為のようにも見えます。
ある日マリは老翻訳家と出逢い、買い物に出た街中でも偶然出会ったことで知り合いになります。母の目を盗んでデートする二人ですが、老翻訳家の家に招かれた時、凄まじいSM調教の限りを尽くされることとなっていくのです。
このロシア語を翻訳することで生計を立てている老人(といっても70歳前らしい)は、普段は穏やかで不器用で愛すべき老人風にも見えるのですが、一旦激昂すると凄まじい激情を見せるというエキセントリックな面を持っています。そしてそれはSMの時に顕著となるのです。
こう書くと、スケベ爺の餌食になった哀れな娘という図式に見えますが、実際は違います。処女(のはず)のマリは内心嬉々として老翻訳家の調教を受け、彼と逢う時を待ちわびているのです。この辺が「私の奴隷になりなさい」と共通しているところでしょうか。マリは香奈で、老翻訳家はご主人様です。
ただし、官能小説的色彩の強い「私の奴隷になりなさい」に対し、流石は芥川賞作家、「ホテル・アイリス」は非常に流麗なタッチで描写しているので、読んでいて興奮するようなことなありません。ただ、よくよく読むとそのSM調教のすさまじさは「私の奴隷になりなさい」を凌駕しているかも知れません。「ご主人様」は、香奈との関係が外部に発覚しないように留意していますし、不倫によって香奈が一段といい女になるように仕向けていると主張していますが、老翻訳家にそんな配慮は全くありません。家に帰るマリがどんな言い訳を考えればいいのかと思い悩むことに対しても完全にほったらかしです。「ご主人様」になる資格はないのかも知れませんね。
そんな中、マリはマリで、老翻訳家を訪ねてきた甥(舌がないので言葉が話せず、メモの付いたペンダントを使って筆談します)を、自ら誘って関係を持ち、しかもその際の会話のメモをポケットに入れたままにして老翻訳家に見つけられたりしています。
結局、これにより激昂した老翻訳家は、マリの髪を切り刻み、全身を縛って吊して写真を撮るという暴挙に出ます。折しもやってきた嵐のせいもあって、まる一日ホテルに帰れなくなったマリは、翌朝老翻訳家と一緒にホテルに帰りますが、その時は既にマリは男に誘拐されたとして警察沙汰になっており、逮捕されそうになった老翻訳家は海に飛び込んで死んでしまいます。
マリは「結局甥は姿を見せなかった」なんて締めくくって、まるで甥の薄情さをなじるかのように結んでいますが、マリ自身も自ら進んで関係を持っていたにもかかわらず、死人に口なしをいいことに、被害者ぶることで事件を決着させようとしています。
なぜこの本のタイトルが「ホテル・アイリス」なのか。老翻訳家とマリの「情事」は遊覧船で行く先の島にある老翻訳家の家で行われており、ホテルが舞台になることはありません。ホテルはマリを縛り付けるもの、マリの所属するものの象徴なのかも知れません。そこから逃れようとして、一時の逃避は可能としたものの、自らそれを破壊して再び戻ってしまうそんなマリが縛り付けられている場所が「ホテル・アイリス」なのでしょう。
マリは老翻訳家を本気で愛していたようですが、その関係が一時的なものに過ぎないであろうことは早くから察知していたようで、一夏だけのものだと自覚していたようです。そして、夏の終わりに際して、故意に老翻訳家の甥と関係し、しかもそれを老翻訳家に発覚するように仕向けるなど、自ら破局点を構築しています。この後マリはどうなるんだろう、どういう人生を辿るのだろうかということに思いを馳せると、「私の奴隷になりなさい」のようなソフトランディングは全く見えてきません。

しかし、私は思います。こういう破滅的な恋愛、今という瞬間だけしか念頭になく、明日など見ない恋愛の方が、はるかに純愛ではないかと。「私の奴隷になりなさい」は、恋愛というよりはむしろ遊戯のようで、最初から綺麗に別れることを念頭に入れているあたり、安全ではあっても純粋さに欠けているなあと思います。
滅びの愛を堪能しましょうよ。その方がきっと燃え上がる一瞬の炎が美しいですよ。などとリア充を唆して、あいつらが絶滅すればこっちにもチャンスが回ってくるぜとか妄想していたりして。あ、だから女の子は破滅させちゃだめだよ、自分だけ滅ん下さいね(笑)。
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