丸亀城:日本一高い石垣を持つ現存十二天守の一

本日から3回目の緊急事態宣言。一回目は全日本的に発令されましたが、この冬の二回目と今回は地域が限定されており、私の住む香川は発令地域外なのですが、3月まで東京で働いていた身としてはとても他人事ではありません。首都圏や近畿圏に比べて圧倒的に発症者の少ない四国で発症するというみっともない真似だけはできないので、警戒感は以前とあまり変わりませんね。

とはいえ、県内の移動は特に制限もされていないので、「どっきん四国」は続けていこうと思います。ということで、今回は丸亀城を紹介しましょう。日本城郭協会が選定した「日本100名城」の一つにして、江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている「現存十二天守」の一つでもあります。

香川県の前身である讃岐国には、高松藩と丸亀藩が置かれていたので、江戸幕府の一国一城令により高松城と丸亀城が存在していました。これだけ聞くとごく自然ですが、実は江戸時代初期までは生駒氏が讃岐一国を支配していました。生駒氏は高松城を本城とし、亀山城を支城としていました。江戸幕府が一国一城令を出したため、本来高松城以外は破却しなければならず、実際生駒氏は高松城以外は破却したと報告していたのですが、生駒氏がお家騒動により改易となった際、実は丸亀城を破却していなかったことが明らかになりました。樹木で覆い隠し立ち入りを厳しく制限して秘密にしていたとか。

その後讃岐の東側に松平頼重(徳川光圀の同母兄)が、西側に山崎家治が入封し、高松藩と丸亀藩が並立することになりました。こうなってみると、亀山城の健在は幕府の法令違反だったものの、山崎家からすると、改修は当然しなければならないものの、ゼロから城を築くよりはよっぽど楽だったろうと思います。

山崎家は年足らずの治世で断絶してしまい、その後は京極家が明治まで丸亀城を居城としました。改修は京極家も引き続き行って完成させましたが、標高60メートルの亀山を利用した平山城で、石垣は山麓から山頂まで4重に重ねられ、合わせると60メートルになり、総高としては日本一高くなっています。

丸亀までは予讃線で向かいます。JR四国は高松-松山よりも、高松-岡山や松山-岡山など、本州との連絡を最重視しているようで、岡山行きのマリンライナーで坂出まで行って乗り換えるということもしばしばなのですが、ちょうど快速サンポート南風リレー号という直通便に乗れました。これは岡山-高知を結ぶ特急南風(なんぷう)と接続するための列車ですが、香川県西部の観音寺まで直通してくれます。

サンポートってなんじゃいと思われるでしょうが、これは高松駅や高松港のある高松市の再開発されたウォーターフロント地区の名称です(サンポート高松)。高松シンボルタワー、JRホテルクレメント高松、高松サンポート合同庁舎、高松港旅客ターミナルビルなどの大規模施設が立地します。

降りる駅は当然丸亀駅なんですが、うっかりスマホを見ていたら乗り過ごしてしまい、隣の閑散とした讃岐塩屋駅まで行ってしまいました。快速だと一駅といってもかなりの距離になりそうですが、坂出駅から西は各駅停車になっているので事なきを得ました。


丸亀といえば讃岐うどんと並ぶ香川名物・骨付鳥の創始である「一鶴」の本店があります。丸亀市ではご当地グルメとして骨付鳥を全国に広める活動を行っており、公式ガイドブック「骨付鳥大百科」を作成したり、骨付鳥をキャラクター化したゆるキャラ「とり奉行 骨付じゅうじゅう」が丸亀市の公式観光キャラクターとして活動していたりします。

丸亀と言えば丸亀製麺もあるだろう?いやいや、あれは丸亀市発祥ではなく、もともとは兵庫県の企業なんですね。というか、丸亀製麺は高松には店舗がありますが、丸亀市には店舗が存在しません。だからあれは讃岐うどんの店ではないと、讃岐うどんファンからは冷ややかに見られているということですが、ここではこれ以上触れません。ググればこの件についてのサイトやYouTube動画が見つかると思いますので、興味がある人はどうぞ。

香川県で100名城になっているのは高松城と丸亀城の二つ。藩が二つだったので当然といえば当然ですが、高松城の方は天守は破却されており、なんとか北の丸の月見櫓と渡櫓、東の丸の艮櫓が城らしさを残しています。だいたい各地の城跡は城址公園として市民の憩いの場となっている例が多いのですが、高松城址は市立玉藻公園となっているものの、有料なので観光客は来ますが、イマイチ市民の憩いの場とはなっていないような。

丸亀城の方は、天守以外は亀山公園として無料で入れるので、間違いなく市民の憩いの場です。なにしろ山の上に天守があるので、向かうには坂を登らなければなりません。「見返りの坂」と呼ばれていますが、傾斜が急で、時々立ち止まって振り返りたくなることから、いつしかそう呼ばれるようになったとか。たかが高さ60メートル程度、金刀比羅宮の1368段を踏破した身には赤子の手を捻るようなものよなんて舐めていたら痛い目に遭います(実感)。

一度折れた、天守に向かう坂は一層急で、登るのはともかく、降りはかなり膝にきます。雨の日なんかは滑って危なそう。

二の丸には井戸があります。二の丸で相当な高さなのですが、日本一深い井戸と言われているそうです。絵図には深さ36間(約65メートル)と。やはり籠城となると水は不可欠ですからね。

4重の石垣は日本一の高さですが、名人と謳われた羽坂重三郎によるものだそうです。城主が「この石垣を登れるものはあるまい」と言ったところ、重三郎は短い鉄の棒を使って登ってしまったそうで、これを見た城主は敵に通じるのを怖れ、重三郎を井戸に埋め殺してしまったという伝説がありますが、その井戸かここだとか。以来夜な夜な重三郎の幽霊が…という話は伝わっていません。というか井戸で埋め殺したら井戸が使えないじゃん。

天守は江戸時代に建てられた御三階櫓で、唐破風や千鳥破風を施して漆喰が塗られています。高さはガンダムより小さい15メートルほどしかなく、現存天守の中では最も小規模です。高松城は櫓しか残っていませんが、大きさではその櫓にも負けそう。

高知城もそうですが、現存天守はやたら階段が急で、階段というよりほぼはしご状態で、膝に爆弾を抱える身としては非常に危険なんですが、三階建てなのが幸いしてなんとか大丈夫でした。というか高松に来てから腰も膝も良い感じなんですよね。特に膝が元気なのはありがたいです。この調子を維持できれば…

本丸から見る瀬戸大橋。ちょっと曇っていて残念ですが、きっと江戸時代の本丸から美しい瀬戸内海や城下町が楽しめたことでしょう。

金刀比羅宮からも遠く見えた讃岐富士(飯野山)が近くから見られます。なお讃岐には○○富士が七つもあって、「讃岐七富士」と呼ばれています。「○○富士がやられたようだな」「フフフ…奴は讃岐七富士の中でも最弱…」みたいなことになってそう。他の七富士は「三木富士」「御厨富士」などと呼ばれており、単独で讃岐富士と呼ばれるのは飯野山だけなので、飯野山が讃岐七富士の中でも最強なんじゃないかと思います。


脆い花崗岩が崩れ、硬い安山岩に覆われた部分だけが小高い丘として残り、その後河川の堆積作用によってできた沖積平野が讃岐平野です。硬い安山岩により浸食が遅れ、テーブル状の台地(メサ)となったのが屋島で、さらに浸食が進んで孤立丘(ビュート)となったのが讃岐富士ではないかと。讃岐平野には孤立丘と思われる小山がたくさん見られるので、地学が好きな人には興味深い土地ではないかと思います。

大手一の門は大手の正門らしい威厳と風格を備えた櫓門です。太鼓を打って刻を知らせていたことから”太鼓門”とも呼ばれています。二階の櫓部分には無料で入ることができます。

春の日曜日の丸亀城、いつもならさぞや人出がと思いますが、コロナ禍のせいで金刀比羅宮以上にガラガラでした。丸亀市の市街地も歩いている人は本当に少なくて。しかし車は結構な量が走っているので、人がいないのではなく、徒歩の人が少ないだけなのかも。都会より地方の方が車社会だという話は聞いていましたが、まさに四国は車社会なのか。
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