中国美女列伝(その28)上官婉児:女帝に仕えた女性宰相

こんばんは。寒くなってきましたね。風邪などひかないようにお互い気をつけましょう。地下鉄に乗るといまだに冷房が入ってたりするから困りものです。

さあ金曜恒例中国美女列伝、28回目の今日は、前回の武則天の側近だった上官婉児です。

上官婉児(664年~710年)は唐代の女官であり、女性詩人であり、そして皇妃でした。別名を上官昭容といいますが、昭容とは皇帝の妻妾の一人で、序列で言うと四夫人(正一品)、九嬪(正二品)、二十七世婦(正三品~正五品)、八十一御妻(正六品~正八品)と続く序列の九嬪に当たります。祖父が高官だったからかも知れませんが、結構高位ですね。

上官婉児が生まれた時、母親の鄭氏は夢に巨人を見たそうです。巨人は彼女に“この子は天下の士となろう”と言ったので、鄭氏はきっと男の子が生まれるのだと思いましたが、実際生まれたのは女の子でした。そのため鄭氏は非常に不満に思ったそうですが、上官婉児はその後、もっぱら内政を司り、朝廷に代わって、天下の詩文を品評したりし、やはり“天下の士”とよばれるようになったのでした。

とはいえ、上官婉児の少女時代はつらく苦しいものでした。彼女の家柄は輝かしいもので、唐の第三代皇帝・高宗の宰相であった上官儀の孫娘でした。664年、上官儀は武則天の廃后を企図する高宗のために武則天を廃する詔書を起草しましたが、これが発覚して先手を打った武則天に殺されてしまいました。

その頃ちょうど生まれたばかりの上官婉児と母親の鄭氏は、共に後宮に送られ下働きをすることになりました。後宮で働いている間、母親からの熱心な教育のお陰で、上官婉児は書物をよく読めるようになり、詩を作り、文章を書けるだけでなく、その上、宮廷のことにも明るく、聡明な娘となりました。

677年、上官婉児は武則天に宮廷に呼ばれ、その場でテーマを出され、作文を命じられました。彼女が一気に書き上げた文章は、流暢にして華麗、 優美でまるで前もって作っていたかのようでした。武則天は大いに喜び、すぐさま下女の身分を免除し、宮中で詔勅の担当をするよう命じました。

ほどなくして上官婉児は、武則天の考えに背き死刑囚となってしまいます。しかし武則天は彼女の文才を惜しみ、顔に入れ墨(記号を刻む)をするだけで赦免しました。罪に問われた理由は、一説には、皇帝になった武則天に対し、揚州司馬の徐敬業が10万の兵を率いて武則天を討とうとした際、駱賓王が徐敬業のために檄文を書いたところ、上官婉児はその檄文手に入れ、名文だったため気に入って手放さず、武則天と話している際にその文才をほめてしまい、武則天の不興を買ったのだということです。

また一説には、武則天とお気に入りの張昌宗兄弟2人が朝食を摂っていたとき、上官婉児もそのそばで食事をしていました。突然、武則天が手を上げ、匕首を上官婉児のおでこ目がけて投げようとしたので、上官婉児は手で顔を覆い、武則天にひざまずいて許しを求めたのだそうです。これは上官婉児が影で張昌宗と逢い引きしていて、彼にそっと目配せしていたのを、武則天が見とがめて、怒って匕首を投げつけようとしたものだそうです。張昌宗は長いこと、武則天の男妾を務めていて、毎日武則天のところに出入りしていたところ、当時アラサーでバリキャリだった上官婉児に気に入られてしまったのだとか。武則天も、それを知って普段は見て見ぬ振りをしていたのだそうですが、面前で上官婉児が、公然と“秋波”を送ったのを見て立腹したのだといいます。

この説では、上官婉児はいつも武則天の詔書を作って命令を下し、女性宰相と呼ばれるほどに有能でした。しかし無罪放免ではむかっ腹を抑えられない。そこで殺す代わりに、二度と脱線しないよう、永遠の教訓とさせるために入れ墨の刑に処すことにしたのだそうです。死刑と入れ墨では天と地ほどの差がある気がしますが、顔ですよ顔。顔は女の命なんていいますし。三原順子だって「顔はヤバいよ、ボディやんなボディ」と言ってましたしね(笑)。

しかしこの刑罰は上官婉児にとってなんらマイナスの 影響を与えませんでした。宦官が彼女に朱色の刺青を入れる時、婉児の額の中央に紅色の梅の花を描いたので、美しい顔の上に梅の花が加わり、一層妖艶さを増し、以前より美しくなってしまったのだそうです。

その後上官婉児は心を入れ替えて武則天に仕えるようになり、武則天の歓心を得、百官からの上奏文の処理担当となり、政務に加わることで、権勢はますます強まりました。上官婉児は政治的には無派閥で、八方美人でした。その政治手腕は、彼女の勢力を強化するのに役立ちましたが、同時に大きな危険を与える諸刃の剣となりました。

上官婉児は武則天の愛娘である太平公主に接触するとともに、中宗の皇后である韋皇后とも通じたのです。これで政権がどちらに転んでも安泰だと思ったのでしょうか。しかし、韋皇后が武則天にならって女帝となろうとしたとき、反対派の李隆基(後の玄宗)が決起し、韋氏討滅に踏み切りました。

上官婉児は韋氏派とみられていましたが、太平公主とも繋がっていたので、その繋がりで今度は李隆基派になろうとしましたが、李隆基は“この女妖怪は不埒な奴だ。宮廷を乱している。どうして軽い処分ですませようか? 今日殺さないと、後悔しても間に合わない”と言い、すぐに上官婉児を殺させたそうです。八方美人が仇になったわけですね。

こうして上官婉児は誅された訳ですが、多くの同情を集め、死んだ翌年には、昭容の身分を回復しました。李隆基も上官婉児を殺したものの、文学への造詣は認め、即位後、その文才を記念し、彼女の作品を集め、文集20巻を編んだそうです。

上官婉児は武則天から中宗復位後まで、皇帝の秘書を少なくとも32年間務めました。これは空前絶後のことでした。上官婉児は栄耀栄華と権力を味わいましたが、それは祖父の敵である女帝におもねり、本心を曲げて迎合してのものでした。その辛さは恐らく彼女自身にしかわからないことでしょう。

また上官婉児は政界のみならず文壇でも大きな地位を占めていて、学士を増設し、風雅の道を実行し、朝廷を代表して天下の詩文を品評したりしたため、一時は詩臣が彼女の下に多く集まりました。《全唐詩》には、彼女の詩が32首収められています。

本年9月9日、上官婉児の墳墓が陝西省咸陽市で発見されたと報じられました。墳墓は破損がひどく、出土品も多くありませんでしたが、墓誌から上官婉児の墳墓であると判断されました。

墓誌は2つの部分に分かれ、一つ目は家系、生涯などで、祖父、父などの一族の情報、出生と埋葬地、死因などが含まれていました。もう一つは、俗に言われる墓誌銘で、主に彼女が官吏としての政治面での能力を書いてあったそうです。

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