こんばんは。早くも梅雨入りの気配がありますね。早い梅雨、早い夏はいいとして、それなら秋も早く来て欲しいのですが、最近秋さんは出不精だからなあ…。
さて、本日はお約束通り、新海誠の「小説・秒速5センチメートル」を取り上げたいと思います。新海誠の小説は現時点ではこれだけです。
今さらな気もしますが、初出小説家のプロフィール紹介は一応やっておきましょう。新海誠は1973年2月9日生まれ。長野県出身のアニメーション作家・映画監督です。中央大学文学部国文学専攻を卒業しています。
大学生時代からゲームソフトの開発・販売の日本ファルコムでアルバイトをしており、大学卒業と同時に同社に入社しました。パソコンゲームを手掛ける傍らで自主製作アニメーションを製作し、1998年に「遠い世界」でeAT'98にて特別賞、2000年に「彼女と彼女の猫」でプロジェクトチームDoGA主催第12回CGアニメコンテストでグランプリを獲得しました。この頃、5年ほど勤めた日本ファルコムを退社しフリーランスになっています。
2002年にほぼ一人で作成したフルデジタルアニメーション「ほしのこえ」で多数の受賞を得て一躍注目されるようになり、2004年に初の劇場長編アニメーション「雲のむこう、約束の場所」を、2007年に連続短編アニメーション「秒速5センチメートル」を公開しています。この3作は、いずれも主人公の2人の心の距離と、その近づく・遠ざかる速さをテーマとしたもので、世界観は全く違いますが、三部作と捉えてもいいかと思います。特に「秒速5センチメートル」は三部作の集大成的作品といえ、これまでに多数の人々の胸を引き裂いて「秒速病」患者を生み続けています。
その後は2011年に「星を追う子ども」を公開し、本年は「言の葉の庭」を公開予定です。運が良ければ大成建設のテレビCM「ボスポラス海峡トンネル篇」でも新海アニメを見ることができますね。まだ見たことがないという方はこちらをどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=OKoCl-3E0Vw
「小説・秒速5センチメートル」は映像版の「秒速5センチメートル」が公開された2007年3月から執筆が開始され、雑誌「ダ・ヴィンチ」(メディアファクトリー)に連載されたもので、単行本は2007年11月に出版され、2012年10月にMF文庫から文庫本が出版されています。今回私が購入したのは文庫版です。装丁は単行本と全く変わっていません。
これも今さらですが、文庫版裏表紙の内容紹介です。
「桜の花びらの落ちるスピードだよ。秒速5センチメートル」いつも大切なことを教えてくれた明里、そんな彼女を守ろうとした貴樹。小学校で出会った二人は中学で離ればなれになり、それぞれの恋心と魂は彷徨を続けていく―。映画『秒速5センチメートル』では語られなかった彼らの心象風景を、監督みずからが繊細に小説化。一人の少年を軸に描かれる、三つの連作短編を収録。
第一話「桜花抄」は映像版同様、貴樹の一人称で進められています。映像版に較べると、小学生時代の明里のセリフが少し多かったり(貴樹は「少しは自分で考えなさいよ」なんて明里に言われています)、映像版では中学校に進んでからの貴樹はちゃんと一人でやって行けているように見受けられましたが、実際にはずっと辛さに耐えていたこと、明里からの手紙を貰って彼女の同様の境遇であることを知り、手紙をやりとりすることで理解者がいることを改めて知り、生きることが楽になったことなどが綴られています。
それから大事なのは、例の風に飛ばされた貴樹の手紙ですが、あれは便せん8枚の大作だったらしいです。当ブログ“「秒速5センチメートル」考察(その4):渡せなかった手紙”(2012年6月15日)で明里の渡せなかった手紙と貴樹の風に飛ばされた手紙の全文を掲載しています。その貴樹の手紙は非常に短いのですが、おそらくこれは貴樹が手紙の内容の大半を忘れてしまったからなのでしょう。一方、明里の手紙は大切にしまってあったので全文が判明していたと。
雪の一夜では、頬や首筋にあたる明里の髪の柔らかさや甘い匂いが貴樹を昂ぶらせたようですが、もちろん中学一年生、明里の体温を感じているだけで精一杯だったようです。明里を押し倒したりしていなくておじさん安心したよ。いや、もちろん貴樹を信じてましたけどね(笑)。
第二話「コスモナウト」も映像版同様、花苗の一人称で進みます。ご飯をおいしく食べて風邪一つ引かない非常に健康的な花苗の心情描写が非常に上手いと思います。新たにに判明したことは、
① 貴樹と花苗がよく寄っていたコンビニが九州地方を中心に展開しているアイショップであること
② 花苗と一緒にお弁当を食べている友達の名前(愛称)がユッコとサキちゃんであること
③ 丘の上の貴樹と会話して、進路調査用紙を飛行機にして飛ばした夜、ご飯を3杯食べて「ご飯三杯も食べる女子高生なんか他にいないわよ」とお姉さんにあきれられていること
④ 告白しようとして貴樹の袖を掴んだときの貴樹の表情、瞳、声に「何も言うな」という強い拒絶を感じたこと
などでしょうか。それにしてもお姉さん、いい人だなあ。この人がいるから花苗は絶対大丈夫だと思います。
ロケットの打ち上げを見て、貴樹とずっと一緒にいることが叶わないことを自覚した夜、花苗は布団の中で映像版以上に号泣しますが、それでもやはり貴樹のことがずっと好きな花苗なのでした。「それでも貴樹が好き」、この花苗の気持ちを覚えておいて下さい。
そして問題の第三話「秒速5センチメートル」です。ここでは、高校卒業後の貴樹の足取りが詳細に描かれています。ここでは新たに判明したことは多いです。
① 貴樹の入学した大学は立教大学理学部らしい。池袋駅から徒歩で30分ほどの場所のアパートに住んだということと、「大学を素通りし、池袋駅に向かう途中の小さな公園で本を読んで過ごした」という記述からほぼ間違いないかと。付近だと学習院大学にも理学部があるのですが、こちらだと最寄りの駅は目白なので、立教でほぼ間違いないかと思います。現役で立教とはやるなあ、貴樹。私は現役の時立教の文学部を受験して見事に振られましたよ。一浪後は、立教は柄じゃないと自覚して受けませんでした。貴樹にはわりと似合っているかも知れません。
② 大学時代に2人と交際しています。一年生の秋に同じ大学の女の子と。生協で弁当の売り子をしていた時にペアとなった子で、彼女は横浜の実家から通っていました。初体験も彼女と。彼女もそうかどうかは書かれていませんが。1年半で彼女から別れを切り出されて別れました。「あたしは遠野君のことが今でもすごく好きだけど、遠野君はそれほどあたしのことを好きじゃないんだよ」
③ 2人目は3年生の終わり頃ということで、神楽坂の塾で講師のアシスタントのバイトをしていて知り合った坂口さんという早稲田の女子学生(おお、後輩!)。彼女は驚くほど美しかったそうですが、交際期間はわずか3ヶ月。「お互いにどうすればもっと愛してもらえるのかだけを必死に考える二ヶ月があり、どうすれば相手を決定的に傷つけることができるのかだけを考えた一ヶ月があった」のだそうです。彼女は貴樹と同時に塾の数学講師とも付き合っていたようです。ということでコミック版における元カノの描写は原作準拠ということになりますね。
④ 就活は大学4年の夏から。完全に出遅れているようですが、4年生になる直前に彼女と別れて人前にでる気持ちになるのにそれだけかかったそうです。大失恋だったのね。しかし秋には就職が決まっているあたり、さすが理系というか立教というか貴樹というか。
⑤ 映像版でも描かれている勤務先は三鷹の中堅ソフトウェア開発企業です。新海誠の勤めた日本ファルコムは立川だから、それよりはもっと都心寄りですね。SEという仕事は貴樹にぴったりだったそうで、中野坂上のマンションには寝に帰るだけというような日々を送っても苦にしませんでした。仕事はできて給料は上がり、全然遊ばないのでお金は貯まる一方。
⑥ 水野理紗と出会ったのは日曜日の新宿駅で、理紗から声をかけられました。以前のクライアントの担当者の部下だったので名刺交換をしていましたが、すっかり忘れていました。彼女との会話は心地よく、そこから礼儀正しく関係を深めていきました。上京後の二回の恋愛の失敗は性急さにあったと貴樹は感じており、同じ事を理紗で繰り返したくないと思っていました。思って…いたのに……
⑦ 入社3年目に、映像版で言うところの「敗戦処理」のような仕事の担当になり、チームリーダーと衝突したりしながら不毛な仕事に没入していきます。そうなると理紗と過ごす時間は一層貴重なものになったはずのですが……
⑧ 敗戦処理が終わって会社を辞めた頃、理紗との交際も終焉を迎えました。「決定的な出来事は何もなかった」と貴樹は回顧しています。故にコミック版の描写は漫画の作者の完全オリジナルでしょう。会社を辞めたことと理紗との別れも直接関係はないのだろうと貴樹は感じています。映像版での貴樹のモノローグ
この数年間 とにかく前に進みたくて
届かないものに手を触れたくて
それが具体的に何を指すのかも
ほとんど強迫的とも言えるようなその想いが
どこから湧いてくるのかも分からずに
僕はただ働き続け
気づけば日々弾力を失っていく心がひたすら辛かった
そしてある朝
かつてあれほどまでに真剣で切実だった思いが
綺麗に失われてることに僕は気づき
もう限界だと知ったとき
会社を辞めた
のままに、弾力を失った貴樹の心は、切実な思いを失ってしまったのでしょう。仕事にも、恋にも。
プロジェクトが終了したのはクリスマスイブ。終電で新宿に着き、タクシー乗り場の長蛇の列を見て徒歩で帰ることにした貴樹の携帯を鳴らしたのは理紗でした。映像版のあのシーンで、「貴樹、電話に出ろ!」と誰もが思ったと思うのですが、衰弱しきった貴樹の精神状態ではもはや出ることができなかったのでしょう。その気持ち、ちゃんと説明されるとよく分かります。かつて私にも似た経験があるから。言い訳にならないかも知れないし、今となっては本当に申し訳ないと思いますが、通常ならごく簡単なことが不可能になってしまう精神状態ってあるんですよ。
⑨ 貴樹が言って欲しくて、誰も言ってくれなかった言葉は、「あなたはきっと大丈夫」。貴樹は別れの朝、明里の言ってくれたあの言葉を求め続けていたのです。
⑩ 理紗の別れのメールの全文が判明しました。以下綴ります。
あなたのことは今でも好きです。
これからもずっと好きなままでいると思います。貴樹くんは今でも私にとって優しくて素敵で、すこし遠い憧れの人です。
私は貴樹くんと付きあって、人はなんて簡単に誰かに心を支配されてしまうものなんだろう、ということを初めて知りました。私はこの三年間、毎日まいにち貴樹くんを好きになっていってしまったような気がします。貴樹くんの一言ひとこと、メールの一文いちぶんに喜んだり悲しんだりしていました。つまらないことでずいぶん嫉妬して、貴樹くんをたくさん困らせました。そして、勝手な言い方なのだけれど、そういうことになんだかちょっと疲れてきてしまったような気がするのです。
私はそういうことを半年くらい前から、貴樹くんにいろんな形で伝えようとしてきました。でも、どうしても上手く伝えることができませんでした。
貴樹君もいつも言ってくれているように、あなたはきっと私のことを好きでいてくれているのだろうと思います。でも私たちが人を好きになるやりかたは、お互いにちょっとだけ違うのかも知れません。そのちょっとの違いが、私にはだんだん、すこし、辛いのです。
……意外にも、例の「でも私たちはきっと1000回もメールをやりとりして多分心は1センチくらいしか近づけませんでした」がここにはありませんでした。
⑪ そして、理紗の「少し辛いんです」、元カノ坂口さんの「私たちはもうダメなのかな」、花苗の「優しくしないで」そして「ありがとう」、チームリーダーの「悪かったな」、そして明里の「あなたはきっと大丈夫」の声が、次々と貴樹の心の表層に浮かび上がってきて、貴樹は激しく嗚咽するのでした。明里と別れた岩舟の駅舎以来、15年ぶりの涙。
⑫ そして貴樹は思います。「たったひとりきりでいい、なぜ俺は、誰かをすこしだけでも幸せに近づけることができなかったんだろう」……しかし、本当のところ、貴樹は人を不幸にしてきたのでしょうか?
ここで思い出してください。花苗は号泣しながらも「それでも貴樹くんが好き」と思っていました。これは不幸なのでしょうか?
元カノ一号は「あたしは遠野君のことが今でもすごく好き」だと言っています。二人は別れるけど、彼女は不幸なのでしょうか?
水野理紗も別れる直前まで「あなたのことは今でも好きです」と言っています。
そういう気持ちを持ち続けながらも貴樹と別れていく女性達。しかし、誰かを好きになるという気持ち、それを抱くことは不幸なのでしょうか?
そして明里。今も「貴樹くんが元気でいますように」と祈っている明里は不幸なのでしょうか?貴樹との思い出について、「大切な自分の一部」「切り離すことのできない私の心の一部」だと言い切っている明里は、貴樹によって幸せに近づけなかったなどとは決して思っていません。
⑬ 映像版で明里は、「むかしのもの」と書かれた段ボール箱の中に入っていたクッキーの空き缶の中から、貴樹に渡せなかった手紙を発見します。小説版の明里は、少し読んだだけでまた手紙を丁寧にしまったのでした。「いつかもっと歳をとったら、もう一度読んでみようと思う。まだきっと早い。」と。もうすぐ愛する人と結婚するというその直前においてすら、「貴樹くんがこの先どんなに遠くに行ってしまっても、私はずっと絶対に好きです」という気持ちを思い出すことは、明里にとって危険だと判断したのかも知れません。
大学時代の元カノ達や理紗は、もしかしたら貴樹によって一時的に悲しみや辛さを感じたかも知れません。しつこいようですが、人を好きになるということは果たして不幸なのか……。少なくとも明里と花苗の場合は、貴樹を好きになったことによって不幸になったとは言えません。
早稲田の坂口さん以外は、みんな別れても貴樹のことがずっと好きみたいですし、坂口さんも案外そうなんじゃないかと個人的には思っています。貴樹は「別れても好きな人」……ロス・インディオス&シルヴィアか(古い!)。
ラスト、踏切を渡って振り返る二人の間を疾走する小田急線。しかし、小説は小田急線が通り過ぎた後までを描きません。でも映像版ではわかりにくかった貴樹の前向きの心をきちんと描いています。
この電車が過ぎた後で、と彼は思う。彼女は、そこにいるだろうか?
―どちらでもいい。もし彼女があの人だっとして、それだけでもう十分に奇跡だと、彼は思う。
この電車が通り過ぎたら前に進もうと、彼は心を決めた。