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高知に行ってきました:特急「南風」に乗りたかったので

猛暑で液状化するネコ

 8月最初の更新です。冷夏という噂もありましたが、梅雨が明けたら昨年並みの猛暑となっていますね。今が一番暑い盛りなのでそれも仕方がないですが、問題はその期間。去年に比べてまだ耐えられてる気がするのは、ユニクロで買ったドライEXの部屋着のおかげもあるんですが、猛暑の期間がまだ2週間くらいだかだと思われます。お盆明けくらいで収まってくれたらとはかない望みを持っているのですが、台風10号が過ぎたら秋の気配が…なんて訳にはいかないでしょうかね。

九州新幹線

 本日は先日行ってきた高知旅行の話などを。夏は旅の季節。行楽には春秋がいいのはよくわかっているのですが、実際問題休暇を取りやすいのは夏休み期間中しかないというのはリーマンの宿命。なのでくそ暑い季節にわざわざ旅に出るはめになるんですね。昨年は鹿児島と石川・和倉温泉に行ってきたのですが、なぜか記事にしていませんでした。今回はネタ不足なので小旅行もしっかり記事にするのでした。

特急サンダーバード

 実はなんちゃって鉄オタの気がある私。一口に鉄オタと言ってもいろんな種類があるのですが、私の場合は「乗り鉄」というやつですね。とりあえず乗ったことのない列車に乗りたいという。でも全線制覇とか全駅下車といったことを目指す気はさらさらなく、乗ったことのない列車に乗って喜ぶ程度です。昨年の場合は鹿児島に行ったのは九州新幹線を終点まで乗りたかったという理由で、和倉温泉に行ったのは特急サンダーバードに乗りたかったからです。なのでせっかく和倉温泉に行ったのに安いビジホに泊まりました(笑)。加賀屋?なにそれ美味しいの?

特急南風

 で、今回の高知旅行もはやり本命は鉄道。新大阪から岡山までは新幹線で、岡山から高知には特急「南風」に乗りました。岡山というところは、山陰とか四国に行くのに重要な駅ですよね。東海道・山陽新幹線は今更語ることもないビジネス専用列車という感じですが、岡山からは島根方面に行く特急「やくも」、鳥取方面に行く特急「スーパーいなば」、愛媛方面に向かう特急「しおかぜ」などが出発しています。そして「南風」も。「やくも」「しおかぜ」には以前乗ったことがあるので、今回は「南風」を選択。「みなみかぜ」ではなく「なんぷう」と読みます。“南国土佐”というイメージからの命名なんでしょうか

アンパンマン列車

 やなせたかしが高知で育ったということで、「南風」にも「アンパンマン列車」があり、行きは運悪く(運良く?)そのアンパンマン列車にぶち当たってしまいました。まあ乗ってしまえば関係ないのですが、岡山駅出発時と高知駅到着時にアンパンマン(CV戸田恵子)の声で車内放送が流れます。どちらかと言えばマチルダ中尉でやってくれた方が嬉しいですが。

大歩危峡

 主に土讃線を走る南風ですが、四国を袈裟切りにするかのように、讃岐山脈および吉野川に沿って四国山地を越えていくということで、山の中をうねうねと走るのでカーブは多い反面、トンネルはさほど多くないので車窓から風景が楽しめます。特に大歩危、小歩危は絶景ポイントで、わざわざアナウンスが流れます。

小歩危峡 

 全国の売れない芸人が行きたくなりそうな地名ですが、「ほき、ほけ」は古語で、渓流に臨んだ断崖を意味し、奇岩や怪石の多い土地を示しているのだそうです。国の天然記念物・名勝に指定されていて、特に小歩危峡の水流は日本一の激流と言われ、夏季には多くのラフティング・カヤック愛好者を集めているとか。確かに車窓からもラフティングをしている様子が見えました。

高知駅

 岡山駅から2時間半強で高知駅着。「南風」乗車が目的ならとっとと上りに乗って帰れよと言われそうですが、そこはなんちゃって乗り鉄なので、初めて来た高知を無視する訳にはいきません。それにここには「日本三大○○」と謳われる名所があるのです。

桂浜
桂浜と龍王宮

 まずは名所として名高い桂浜へ。高知駅からすぐそばという勝手なイメージを持っていましたが、MY遊バスという観光スポットを回る周遊バスを使ったので、1時間近くかかりました。長宗我部氏時代は桂浜付近に浦戸城を築いていましたが、関ヶ原の戦い後に土佐藩主となった山内一豊はこの地は手狭と感じ、高知城を築いて移りました。月見の名所として知られていますが、月が出るまではいられませんでした。

桂浜の坂本龍馬像

 坂本龍馬の銅像が建っていますが、台座がやたら高くて、しかも午後には逆光になるという。砂浜に立っているというイメージを勝手に持っていたのですが、階段を上る高台にありました。

竜王宮

 桂浜は、北東の上竜頭岬と南西の下竜頭岬の間に弓形に砂浜が延びています。下竜頭岬には竜王宮がありました。大した階段ではなかったので上って行ってみましたが、大したところでもありませんでした。桂浜水族館や坂本龍馬記念館もありますが、やはり高知は坂本龍馬を徹底的に推してきますね。教科書から消えたら怒るんでしょうなあ。

はりまや橋

 市内に戻って早速訪れたのが、「日本三大○○」。○○に入るのは「がっかり」。そう、はりまや橋です。三大○○という場合、3つの中で2つは鉄板で残り1つは諸説があるというケースがありますが、がっかり名所もそんな感じで、札幌の時計台、高知のはりまや橋は鉄板であと一つは諸説ありとなっています。長崎のオランダ坂や沖縄の守礼門、京都タワーや名古屋テレビ塔などが候補になっているそうです。はりまや橋は高知市内でももっとも交通量の多い、路面電車のはりまや橋交差点にあります。堀で隔てられていた高知の豪商・播磨屋と櫃屋(ひつや)が、互いの往来の為に架けた私設の橋だったそうで、「よさこい節」では“土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た”と歌われています。

最古の路面電車

 札幌の時計台もそうですが、今時これを見るために訪れるという事はまずないでしょうから、過度の期待を持って来て、実物を見てがっかりするという人もいないと思いますが、なにしろがっかり名所として有名なので、観光客は来た人はやはり写真を撮ったり渡ったりするわけです。路面電車が交差する市内中心部にあるので、普通に観光していると嫌でも目に入るという地の利もあります。

高知のダイヤモンドクロス

 高知の路面電車は、1904(明治37)年開業で、今年で115年という歴史を持っています。現存する路面電車では日本最古だとか。駅と駅の間隔が非常に短く、3~4駅先といっても大した距離じゃなかったりしますが、足弱の人には便利かも知れませんね。鉄道の線路同士が斜めや直角に交わることをダイヤモンドクロス(平面交差)と言いますが、路面電車同士がほぼ直角に交わっているのはここだけだそうです。

ザクラウンパレス新阪急高知

 はりまや橋から3つ先の駅だったのでうっかり乗ったらあっという間に着いた高知城前にあるのが我が宿。ザ クラウンパレス新阪急高知。以前は高知新阪急ホテルという名前だったそうです。一人旅なんでもっと安いビジホがいくらでもあったんですが、うっかりややお高めなこのホテルを予約してしまいました。高知城に近いというところに惹かれちゃったんですよね。

カイジ豪遊セット

 夜に「カイジ豪遊ごっこ」を楽しんだことはさておき、翌日さっそく高知城に行きました。鷹城とも呼ばれ、江戸時代に建造された天守や本丸御殿、追手門等が現存し、城跡は国の史跡に指定されており、日本100名城に選定されています。なお天守と追手門が両方現存している城は全国でも高知城のほか弘前城・丸亀城の3ヶ所だけで、天守と本丸御殿が両方現存しているのは高知城のみだそうです。

高知城天守

 G20サミットの時に、再建された大阪所にエレベーターが云々ということが話題になっていましたが、高知城はガチで江戸時代のままの作りなので天守に上るには階段しかありません。6階建てになりますが、なにしろ階段が急です。ちょっと慌てたら転がり落ちてしまいそう。慎重に上り下りしましたが、この階段のせいで膝を痛めてしまいました。膝に矢を受けてしまってな。

三志士像

 その後旧山内上下屋敷長屋、山内神社、鏡川などを訪れて高知駅前に。駅前広場には土佐三志士の像が建っています。坂本龍馬を中心に向かって左に武市半平太、右に中岡慎太郎。2011年設置ということで新しいものですが、内部が発泡スチロールで表面を強化ウレタンで覆っているという関係で、大型の台風が来ると一時避難することがあるという珍しい像だそうです。高知の人はこの三人を「先生」と呼ぶんですね。

幕末志士社中

 また駅前には「『龍馬伝』幕末志士社中」というパビリオンがあり、NHK大河ドラマ「龍馬伝」で使用された坂本龍馬の生家のセットが再現されています。大河ドラマを見ていた人にとっては「聖地巡礼」の場所となると思われますが…例によって私は見ていませんでした。でもさすがにしっかりと作られていた印象。

特急南風2

 で、帰りはアンパンマン列車ではない「南風」に乗り、岡山で新幹線に乗り換えて大阪に帰った訳でした。鹿児島でも思いましたが地方といっても県庁所在地はなかなかに立派ですよね。それとも薩長土肥といった明治維新の“勝ち組”のせいなんでしょうか?高知は近畿じゃないのに今回の記事を“京の夢大阪の夢”カテに入れてしまいましたが、大阪発ということでどうか一つ(笑)。
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桜之宮公園でお花見を:今年はちゃんと桜を見ました

春のうららの大川

 すっかり陽気がよくなってもはや初夏のような気候に。あんまり急変されると身体がついていけないのですが。暖かくなって花が咲いて日足が伸びてというあたりは結構なんですが、虫めらもコンニチワですね。虫もいないとそれはそれで色々と困るんでしょうが、害虫どもにはマイッチングですね。

薄暮の桜之宮公園 

 本日は大川端に伸びる桜之宮公園に行ってきましたのでそのレポートを。大阪には似つかわしくない綺麗な名前(失礼)なので、ぜひ桜の季節に行ってみたいと思ってました。昨年は異動直後だったのと桜の開花が早かったので逃していたので、今年はぜひにと。

夜桜桜之宮公園 

 淀川の毛馬水門から南に分岐する大川は、かつては淀川本流でしたが、淀川放水路が開削された1907(明治40)年以降は旧川扱いとなっています。大川という名前は中之島までで、そこから下流は安治川と呼ばれています。その大川の両岸に広がるのが桜之宮公園です。大川両岸は江戸時代から桜の名所でしたが、1885(明治18)年の淀川大洪水で東岸の桜が大打撃を受けて以降、西岸の桜、とりわけ造幣局の桜が有名になり、現在でも造幣局の桜の通り抜けは大勢の人で賑わいます。今年は明後日9日からだそうですよ。

櫻宮 

 いかにも雅な名前の由来は、東岸にある櫻宮という神社だそうです。兵火や水難により詳しい創建は不明だそうですが、現在の地に移ったのは江戸時代前期。大阪市都島区の地域名の由来ともなっていますが、JRの駅名は桜ノ宮駅、橋の名前は桜宮橋と表記は結構バラバラです。

泉布観と桜 

 歴史的建造物としては重要文化財に指定されている泉布観があります。1871(明治4)年に建設された、大阪府に現存する最古の洋風建築です。翌年に明治天皇が行幸し、貨幣を意味する「泉布」と館を意味する「観」から泉布観と命名し、皇族や外国の要人も多く訪れたそうです。内装も豪華だそうですが、内部公開は事前申し込み制で年に3日程度と極めてレアです。外観は常時見ることができます。桜で見えにくいですが、わざとです(笑)。

旧桜宮公会堂と桜 

 そのそばには旧桜宮公会堂があります。これは造幣寮(現造幣局)の金銀貨幣鋳造所の正面玄関を移築保存した建築物で、やはり重要文化財に指定されています。泉布観と同時期に建設され、戦後は図書館などとして利用されていました。

桜之宮橋と桜 

 泉布観や旧桜宮公会堂がある場所は「泉布観地区」と呼ばれています。そこから見た桜宮橋です。大川に架かる国道一号線の橋で、通称「銀橋」。今では新桜宮橋も架かっており、6車線もあって歩道も広々としています。

桜之宮橋から見た大川桜 

 その銀橋から見た春のうららの墨田川ならぬ大川。新桜宮橋から上流側を望んでいます。上り下りの船人で賑わっていますね。

下流側 

 こちらは桜宮橋から下流側を望んだものです。右に大きくカーブした大川は、天満橋から中之島に向かって流れていきます。

造幣局と桜 

 こちらが桜の通り抜けで有名な造幣局本局の建物。やはり1871(明治4)年創設で、1964年の東京オリンピックや札幌オリンピック・長野オリンピックの金・銀・銅の各メダル、名古屋城の金鯱なども製作しています。支局はさいたま市大宮区と広島市佐伯区にあります。造幣博物館もあるので一度訪れたいですね。

桜の絨毯 

 橋の上から桜之宮公園を見ると…まるで桜の絨毯みたいです。その下では大阪市民が大宴会を挙行中です。今日は暖かくて花見日和ですが、結構日差しは強いので日焼けしてしまうかも。

花見客で賑わう 

 橋から降りて公園に入りました。公園には泉布観地区以外にもいろいろと由緒あるものがあります。

青湾の碑 

 まずこれ。「青湾」の石碑。この辺りの水が青淡で最も茶の湯に適したので、豊臣秀吉が好んで用いたそうです。青湾の名は、秀吉に仕えた茶人である大江青湾に因むとも、秀吉が明使献上の西湖の水を数壷沈め、移植した西湖の柳の色が湾に青く映ったことに因むとも言われています。石碑自体は江戸後期の文人画家である田能村直入が文久2(1862)年に「青湾の地」を顕彰すして建立したものです。今では川の水をダイレクトに使うなんて考えられませんが、江戸時代までは綺麗だったんですね。

水道発祥の地の石碑 

 続いて「大阪市水道発祥の地」の石碑。1895(明治28)年に深井戸「桜の宮水源地」がつくられた場所で、横浜・函館・長崎に次ぐ全国4番目の近代水道だったそうです。それ以前の大阪市民の飲料水は淀川の水か井戸水に頼っていたそうですが、下水道もない時代は生活排水が海に流され, 満潮時には淀川に逆流していたということで、コレラなどの伝染病が大流行ということもしばしばあったそうです。そばには取水施設の一部であった煉瓦造りのマスが遺構として保存されています。

OAPと桜 

 西岸を見ると近代的なビル群が。これはOAP、大阪アメニティパークです。中央の高層ビルがオフィス・レストラン・商業施設を有するOAPタワー(176メートル)。左が住宅棟であるOAPレジデンスタワー。実は東館と西館の二つがあります。うーん、住んでみたいですが、きっとお高いんでしょう。そして右が帝国ホテル大阪。6月のG20では世界のVIPが宿泊すること間違いなし。 

源八橋 

 こちらは大川に架かる橋で「源八橋」。3年B組源八先生…いやいや。橋が出来る前は渡船「源八渡」があったそうで、それにちなんで名付けられたそうです。昔むかし、源八という名の船頭がいて…と言いたくなりますが、「源八渡」は天満橋筋沿いのかつての町名「源八町」にちなんでいるとか。じゃあその町を作ったのが源八という大商人…とか思いたくなりますが、それ以上の由来はわかりませんでした。

遠くに大阪城天守閣が 

 源八橋あたりから南を見ると大阪城の天守閣が。ということは、今日大阪城の天守閣に登ると桜之宮公園の桜が見えるということでしょうね。昔は周辺で一番高かったであろう天守閣も、今では中型ビル程度の高さになってますが。

東岸から西岸を望む 

 先週は西岸を歩いたので本日は東岸を歩いています。先週は西岸に比べて開花が遅いように思えた東岸ですが、今ではすっかり満開モードに。

桜と高層ビル 

 見上げると桜と高層ビルのコラボレーション。しみじみ見るとやはり桜はいいですね。よくぞ日本の国花にしたものです。

都島橋 

 こちらは都島橋。昔は市電が通っていたそうですが、昭和44(1969)年に廃止されてしまったそうです。阪神高速12号守口線が上を横切っています。

飛翔橋 

 都島橋の北には飛翔橋が。1984(昭和59)年に建設された比較的新しい歩行者専用橋ですが、阪神高速12号守口線の下をくぐる関係でアーチを小さくせざるをを得ず、アダムスキー型円盤のようなシルエットを持つ二重アーチ構造になっています。飛翔橋の名称は「UFOを思わせ、どこかへ飛び立つようなイメージ」から名付けられたそうです。

都島橋から見た桜 

 都島橋から撮った大川西岸の桜です。周囲は高層住宅になっていて、そこから花見ができそうにも見えますが、どうなんでしょうか。飛翔橋の先にも大川は続いており、毛馬水門で淀川と接続していますが、そろそろ疲れたので戻ることにしました。ブルーシートでも敷いて宴会している人達は実に楽しそうですが、公衆トイレは長蛇の列になっていました。そして近くのコンビニやスーパーでは菓子類や酒類が品薄に。露店もたくさん出ているのでそっちで買えばと言いたいですが、結構高いんですよね…
 

京都小旅行(その6):初詣は京都で怨霊くくり

ブイン防衛作戦成功

 「艦隊これくしょん-艦これ-」の今回のイベント「邀撃!ブイン防衛作戦」を無事攻略することができました。年末年始はPCが使えず、スマホでもプレイできるとはいえいろいろと不便なので攻略できるか心配でしたが、前段作戦2海域、後段(拡張)作戦1海域という小規模作戦だったおかげで。とはいえ連合艦隊+航空隊3隊出撃+支援艦隊×2が必要とかなり経済的にはかなり厳しい作戦で、未所持艦娘との邂逅を企図するいわゆる「掘り」は資源の減少が半端ないので断念せざるを得ないかなと。

E1E2は乙で攻略 

 今回はちょっと突っ張って、前段作戦は難易度乙で挑んで成功させました。難易度甲の方がそりゃあ撃破ボーナスが豪華なんですが、まだちょっと自信が。

E3はいつものように丙 

 そして後段作戦は例によって安定の難易度乙。成功が最優先なのでどうしても日和ってしまいます。

峯雲 

 今回の新規艦娘です。まずはE1(ブラケット水道/クラ湾沖)突破報酬で入手できる朝潮型駆逐艦の八番艦峯雲。キュートですが、朝潮型は皆小学生高学年といった感じなところ、この子はちょっと発育が良くて中学生位に見えますね。これで朝潮型駆逐艦は全10隻中9隻が登場し、残す七番艦「夏雲」のみです。峯雲がセリフで「なっちゃん」と呼んでいるのは夏雲のことなのか?

日進 

 続いてE3(中部ソロモン海域ブーゲンビル島沖)突破報酬で入手できる(というかラスボスが改心したらしい)水上機母艦日進。神社の神官みたいな服装ですが、個人的には「うしろの百太郎」のコスプレかと思ってしまいました。広島・呉出身のせいか広島弁。浦風と仲良くなりそうです。

神風 

 そして幸運にもドロップで入手した神風型駆逐艦の一番艦神風。大正時代の建造で駆逐艦娘としては最古の形式。大正時代を意識してか大正ロマン女学生スタイル。一番旧式のせいで駆逐艦としては最弱ですが、本人は「旧型ですって? 馬鹿ね。駆逐艦の実力は、スペックじゃないのよ?」と意気軒昂。神風型は通常では建造もドロップもないのでイベントでゲットするしかありません。戦力としてではなくコレクション的に価値があります。

神威 

 最後にやはりドロップ入手の補給艦神威。速吸以来二隻目の補給艦です。大型艦建造で建造可能ですが、莫大な資源を浪費する恐れがわりに、神風同様戦力的勝ちは高くないのでイベント入手が基本かと。「かむい」と読みたくなりますが、実は「かもい」。北海道は積丹半島にある神威岬が由来ですが、こちらは「かむい」と読む不思議。装甲空母にもなる大型正規空母サラトガを大型艦建造で建造する場合は、神威かアイオワが旗艦である必要があるそうです。幸いサラは入手済みなので「私は一向に構わんッッ」(ドヤ顔)

ジョンストンブラダマンテ 

 ということで今回はたった4隻としょぼい結果ですが、前回の初秋イベントでゲットした艦娘達も十分に育ちきっていないので、育成を優先して資源を温存しつつまた次回のイベントに備えようかと思います。今回のご新規ジョンストンはルックス的にぜひ出会いたかったのですが、7回も十連ガチャを回して全然駄目だったFGOのブラダマンテに何となく似ているので、多分頑張っても出会えまいと(諦観)。

出町柳駅 

 行楽に良い秋もとうに過ぎて冬のまっただ中。おとなしく冬ごもりしているのが無難だと思っていましたが、今日はやけに暖かいのでついふらふらと京都に行ってしまいました。私、奈良派を名乗っていますが別に京都が嫌いという訳ではありません。行けば行ったでやはり京都は京都でいいですね。今回は京阪で終点出町柳まで行きました。

上御霊神社 

 そのまま叡山電車に乗り換えて比叡山というのも十分ありなチョイスなんですが、今回は年始めの初京都ということもあり、コンセプトは「初詣」。ちょっとマニアックな神社をせめてみます。まずは上御霊神社へ。先月秋篠寺に行った時、そばに八所御霊神社があってですね。怨霊として祟り、恐れられた御霊を祀るというコンセプトにちょっと惹かれました。祀っているのは崇道天皇(早良親王。光仁天皇皇子)、井上大皇后(光仁天皇皇后)、他戸親王(光仁天皇皇子)、藤原大夫人(藤原吉子、桓武天皇皇子伊予親王の母)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麿)、火雷神(菅原道真)、吉備聖霊(吉備真備)。前回も突っ込みましたが、吉備真備を除いては祟る理由があるのは理解できるのですが、なぜに祟る要素がなさそうな吉備真備が入っているのか。実は火雷神は上記六柱の荒魂、吉備聖霊は吉備内親王(元明天皇皇女で長屋王妃。長屋王の変で自殺に追い込まれる)という説もあるそうです。

 平安京を造営した桓武天皇の時代に各地で疫病が流行し、これが御霊(怨霊)の祟りであるとして、貞観5(863)年に平安京の神泉苑で御霊会が催されたのが上御霊神社の創祀だそうです。「上」があるなら「下」もあるのか?そうなんです。続きは後ほど。

応仁の乱発祥の地の石碑 

 なお、室町時代の文正2(1467)年1月、失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘がこの神社境内の森で行われ、世に御霊合戦と呼ばれています。この戦いが応仁の乱の契機となったことから、上御霊神社は応仁の乱発祥の地とされ、石碑が建っています。

相国寺法堂 

 神社一辺倒ではいかんかなと勝手に神仏習合して(単に通り道にあったというだけですが)相国寺を訪れます。臨済宗相国寺派大本山の寺で、創立者は足利義満、開山は夢窓疎石です。京都五山では天龍寺に次ぐ第二位で、義満健在の頃は一位になっていました。金閣寺も銀閣寺も相国寺の塔頭(境内の外にあるので山外塔頭)なんですね。

瑞春院 

 かつては義満の「花の御所」に隣接しており、現在は同志社大学に隣接しています。南には京都御所。火災や兵火で伽藍の多くが焼失し、境内も縮小しています。現在も多数の塔頭を抱えていますが、ほぼ非公開。まあ参観料を取られず良かったとも思えますが。豊臣秀頼が再建した法堂(重文)が堂々と建っています。

瑞春院の看板 
雁の寺(映画版) 

 山内塔頭の一つに瑞春院という寺があり、看板に作家水上勉が少年時代に暮らし「雁の寺」のモデルになった旨が記されています。「雁の寺」は直木賞受賞作ですが、堕落した禅寺の様子を描いており、これは瑞春院時代の自身の経験に基づいているそうです。つまり寺にとっては恥なんじゃないかと思われるのですが、堂々と看板に掲げているあたりはむしろ京都の懐の深さというか凄味を感じますね。

白峯神宮 

 続いて白峯神宮へ。保元の乱に破れて讃岐に流された崇徳院はその地で死去しますが、その後天変地異が相次いだことで崇徳院の祟りとされ、葬られた白峯陵の前に御影堂が建立されましたが、幕末の動乱期に孝明天皇は崇徳院の霊を慰めるために京都に移すことを企図。子の明治天皇がその意を継ぎ、現在地に社殿を造営し、慶応4(1868)年、御影堂の神像を移して神体とし白峯宮を創建しました。 1873(明治6)年には、藤原仲麻呂の乱に巻き込まれて淡路に配流されて、その地で死去した淳仁天皇(淡路廃帝)の神霊を淡路から迎えて合祀しています。敷地はごく狭いのですが、後に官幣大社に昇格したことで「神宮」の号を許され白峯神宮となりました。

闇堕ち崇徳院 

 白峯と聞くと思い出すのが上田秋成の「雨月物語」中の一編「白峯」。西行が白峯を訪れて旧主である崇徳院の怨霊に出会う話ですが、作中崇徳院は三百以上の魔物を率いる大魔王になったと称しており、菅原道真、平将門と並んで日本三大怨霊の一角とみなされるようになりました。怨霊の慰めて鎮めることでその強力なパワーを利用しようという御霊信仰、あざといと言えばあざといのですが、賢いといえば賢い。

奉納された球々 
叶う輪 

 しかしこの神宮、境内が蹴鞠の宗家であった公家の飛鳥井家の屋敷跡ということで、現在ではサッカーのほか、球技全般およびスポーツの守護神とされるようになっています。それ崇徳院と全然関係ないやんという突っ込みもむなしく、社殿前にはサッカーやバレーボールの日本代表チームや、Jリーグに所属する選手などから奉納されたボールなどが置かれています。神宮側もスポーツにちなんだお守りが「叶う輪(かなうわ)」を売り出していたりして。

崇徳院歌碑 

 境内には崇徳院の百人一首に選ばれた「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川のわれても末にあはむとぞ思ふ」の歌碑がありました。そういえばこの和歌を題材にした落語「崇徳院」という演目もありましたね。

 平安時代の内裏と京都御所の位置

 そして京都御所のある京都御苑へ。本来の御所と言える平安京遷都当時の内裏はもっと西にあり、現在の京都御所は、里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであった土御門東洞院殿の地に当たります。しかし南北朝時代の14世紀半ばからは内裏として定着しているので、もはやこちらが内裏であった時代の方が長いことになりますね。

京都御所朔平門 

 御所周辺の京都御苑は皇居外苑・東御苑(休園日あり)・北の丸公園同様国民公園となっており、誰でも行くことができます。京都御所の他、京都迎賓館、仙洞御所(上皇・法皇の御所)、京都大宮御所(皇太后の御所)があってこちらは当然ながら通常非公開。せっかく仙洞御所があるのだから、平成天皇が譲位したらこちらに住んだらいいのにとか思ってしまいますが、現在の仙洞御所には庭園以外にろくな建物がないようです。

京都御所建春門

 京都大宮御所は天皇、皇后、皇太子、および皇太子妃の行幸啓の際の宿泊に使用され、かつては京都を訪問する国賓の宿泊施設としても使用されていた実績があるので使えないでもなさそうですが。敷地は実に広いですが、一般人の別荘のように「ちょっと行って何日か滞在してくるわ」と気軽に使える訳でもないので、皇室に生まれるというのも実に窮屈そうですね。

下御霊神社 

 そして京都御苑を縦断して向かうは本日最後の訪問地・下御霊神社。上賀茂神社と下鴨神社があるように、京都では上下がワンセットになっているのでしょうか。東西でセットにすると上手くいかない(東大寺と凋落した西大寺、東寺と消滅した西寺のように)ので南北にしたのか。こちらも「八所御霊」を祀っていますが、崇道天皇、伊予親王(桓武天皇皇子)、藤原大夫人、藤大夫(藤原広嗣)、橘大夫、文大夫、火雷天神、吉備聖霊となっており、上御霊神社と若干メンバーが異なります。伊予親王と藤大夫がインして井上大皇后と他戸親王がアウト。また神社側は火雷天神は菅原道真ではなく六柱の御霊の荒魂、吉備聖霊は吉備真備ではなくやはり六柱の御霊の和魂と解釈しているようです。

下御霊神社本殿 

 荒魂(あらみたま)は神の荒々しい側面、荒ぶる魂で、和魂(にぎみたま)は神の優しく平和的な側面とされ、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れとされ、実際別の神名が与えられたり、別に祀られていたりすることもあります。

メガテンシリーズの四魂 
一霊四魂図 

 和魂はさらに人に幸を与える働きを持つ幸魂(さきみたま)と、知識才略・学問・技術を表す奇魂(くしみたま)に分けられ、神道の一部(本田霊学)では、人の魂は天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と4つの魂(荒魂・和魂・幸魂・奇魂)から成り立つという一霊四魂説が唱えられていますが、明治以降の比較的新しい考え方のようです。そもそも神も人と同じ構造なのかどうか判りませんが、日本では人が死後に神に昇格されるケース(豊国大明神とか東照大権現とか)が結構あるので、人と神(あくまで日本の)で魂の構造はあんまり変わらないという解釈もありなのかも。

神泉苑 

 上御霊神社と同じく平安京の神泉苑で催された御霊会が創祀と伝えられています。昔は上御霊神社の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったそうですが、豊臣秀吉の都市整備などにより現在ではだいぶ引き離れています。でも上下(南北)関係は変わらないし、上賀茂神社と下鴨神社はもっと離れているから特に違和感はないような。むしろ京都御所の南北にあってちょうどいい感じすら。

鴨川の散歩道 

 ということで子供の頃「恐怖新聞」とか「うしろの百太郎」に始まって、心霊的な本・番組が大好きだった事を思いだして新年早々京都の怨霊信仰を訪ねて回ってしまいました。え、今は?ですか。小説・ゲーム・映画などのストーリーとしてはもちろん嫌いではないんですが、子供の頃に心霊に留まらずUFOとかUMAといったオカルト(含陰謀論)にどっぷりと浸かりまくっていたせいか、今ではすっかりスケプティックになってしまいまして…

奈良小旅行(その7):平城京界隈

大川夜景

 小春日和という以上に暖かい平成最後の天皇誕生日でした。祝日なのも今年限りとなるのでしょうか。年末の三連休というのもおつなものですが、誕生日だと月曜とか金曜にずらせないから必ず三連休になるというものでもありませんね。去年は土曜日にあたっていたのでまさしく。そうそう、昨日うっかり冬至かぼちゃを買い忘れてしまいました。代わりになぜか賞味期限切れの関係で割引販売となっていたシュークリームを買ってましたっけ。甘味という意味では当たらずとも遠からずなんですがね…

ドラクエの竜王 

 本日は雨模様と聞いていたのですが、朝になってみれば日が差していたのでやはり奈良に出撃してしまいました。先週の公約(?)どおり大和西大寺パート2です。まずは平城宮跡を横目で見ながら海龍王寺へ。龍王と聞くと世界の半分をやろうとか誘惑してきそうな感じがしますが、仏教においてはあんまり格が高いという感じでもないですよね。メガテンだと普通にフィールドに出てきて戦ったり仲間にしたり。龍神となると一段格上になるんですが。

海龍王寺門 

 海龍王寺は平城京内にあって、かつては藤原不比等の邸宅があったところのようです。伝承では天平3(731)年に光明皇后の発願で建立され、遣唐使に随行した僧・玄昉が初代住持となったとされています。海龍王寺という寺号は、海龍王経という経典にちなむもので、玄昉が唐から日本への帰途、暴風雨に遭った際に海龍王経を唱えて救われたという伝承があります。

玄昉 

 拝観料(500円)を払った際に貰ったパンフによると、藤原不比等は邸宅を建てるにあたって、この辺りを治めていた土師氏から土地を譲り受けたそうですが、邸宅北東隅にあった土師氏所縁の寺院をそのまま残しておいたということで、その寺院が海龍王寺の前身のようです。隅にあったということで、「隅寺」の別名も持っています。

叡尊図 

 先週訪れた西大寺と同じ真言律宗の寺ですが、西大寺中興の祖である叡尊が一時期海龍王寺に住して復興を行ったほか、五名の西大寺長老を輩出しており、かつては真言律宗でも筆頭格の寺院だったようです。明治時代の廃仏毀釈で大打撃を受けて境内が荒廃し、長らく無住の時期が続きましたが、1953(昭和28)年に住職が着任してからは堂宇の修理、境内の整備が行われました。

海龍王寺本堂 

 現在の海龍王寺は、京都の町中によくあるようなこじんまりとした寺院です。本堂はかつてあった中金堂の跡地に建っており、江戸時代の再建。鎌倉時代作の本尊の十一面観音(重文)が祀られています。このご本尊、長らく秘仏となっていたために保存の状態が大変良いことで知られています。

海龍王寺西金堂 

 西金堂(重文)。かつては東金堂、中金堂の三つの金堂がありましたが、今なお残っている唯一の金堂です。奈良時代の建立ですが、鎌倉時代に再建に近い大修理が行われており、主要な部材が鎌倉時代のものに置き換えられています。規模や様式的には変更が無いと考えられており、天平時代の建築様式を現代に伝える貴重な建物とされています。

五重小塔 

 そして西金堂に安置されている五重小塔(国宝)。高さ約4メートルの小塔ですが、工芸品ではなく建造物として国宝に指定されています。8世紀前半頃の作製で、細部様式が薬師寺の三重塔に類似しており、遺例の少ない奈良時代建築の様式を知るうえで重要なものです。当初から屋内に安置されていたようですが、敷地が狭くて大きな五重塔が作れなかったことから作られたのではないかとの説があります。海龍王寺が荒廃していた間は、奈良国立博物館に置かれていました。

海龍王寺経蔵 

 経蔵(重文)。鎌倉時代に叡尊が造立したと伝えられています。叡尊の年譜(『興正菩薩行実年譜』)に、正応元(1288)年、海龍王寺の堂宇を修造し、経蔵を新築したことが記されており、経蔵がこれにあたるものと推定されています。

法華寺門 

 続いてすぐそばにある法華寺に。日本史で聖武天皇が天平時代に日本各国で国分寺と国分尼寺を建立するよう命じたと習いましたね。東大寺は全国の総国分寺ですが、法華寺は全国の総国分尼寺です。海龍王寺同様、藤原不比等の邸宅跡にあり、不比等の没後、娘の光明子(光明皇后)がこれを相続して皇后宮としました。天平17(745)年に皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりとなります。

萌絵風光明皇后 

 奈良時代は今よりも広大な境内を有し、光明皇后ゆかりの門跡尼寺として繁栄しましたが、平安京遷都以後は次第に衰微し、平安時代末期にはかなり荒廃していたようです。鎌倉時代に、東大寺大仏の再興を果たした僧・重源や西大寺や海龍王寺を復興させた叡尊が復興しましたが、戦国時代に二度の兵火に遭った上に大地震まであって、ほぼ全ての伽藍を失ってしまいました。現在の伽藍は慶長6(1601)年頃、豊臣秀頼と母の淀殿が片桐且元を奉行として復興したものです。叡尊以後、西大寺や海龍王寺とともに真言律宗寺院となっていましたが、1999(平成11)年に創建当時のように独立した寺に戻ることとなり、光明皇后にちなんで「光明宗」と名づけ離脱・独立しています。

法華寺本堂 

 本堂(重文)。慶長6(1601)年に豊臣秀頼と淀殿の寄進で再建されたものですが、地震で倒壊した鎌倉時代の金堂、室町時代の講堂の建材が再利用されています。本尊は十一面観音(国宝)で、天竺(インド)の仏師・問答師が光明皇后の姿を模してつくった」という伝承があります。他に木造維摩居士坐像(国宝)、胎内に納入品がぎっしり詰まっていることが判明した文殊菩薩像などが祀られています。

法華寺カラブロ 

 重要有形民俗文化財に指定されているカラブロ。光明皇后が病人等千人の人に沐浴の功徳を積み困窮者を救ったといわれる浴室です。蒸気導入方式の蒸風呂で、現在の建物は明和3(1766)年の再建です。近年まで使われていたそうですが、現在は外観のみの公開となっています。隣には清水が尽きないとされる井戸があります。

光月亭 

 奈良県文化財指定の光月亭。どう見ても茅葺きの民家なんですが、それもそのはず、月ヶ瀬村にあった18世紀建築の「東谷家住宅」を昭和期に移築して来たものだそうです。東谷家は庄屋の家柄だそうで、現在は法華寺の客間のような形で行事を行う際に活用されたりしています。

法華寺庭園 

 国指定の名勝となっている法華寺庭園は残念ながら非公開で、代わりに華楽園という庭園が公開されています。冬なので淋しいですが、名残の紅葉の他、椿が咲いていました。本堂だけだと拝観料400円ですが、700円払うと全部見ることが出来ます。

平城京と平城宮 

 法華寺のそばにあり平城宮跡。古都平城京の大内裏で、1998(平成10)年に「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産に登録されています。考古遺跡の世界遺産登録は日本初です。平安京遷都以後は放置され、水田化していきました。江戸末期や明治期に平城京の跡地が研究されて平城宮跡の保存運動が起こり、1921(大正10)年に平城宮跡の中心部分が民間の寄金によって買い取られ、国に寄付され、1922(大正11)年に国の史跡(後に特別史跡)に指定されました。

冬枯れの平城宮 

 ぱっと見は広大な緑地公園ですが、ほぼ本来の平城宮跡地が指定され保存されており、発掘調査が続けられています。平城宮は平城京の中でも政治・儀式の場である大極殿・朝堂院、天皇のすまいである内裏、役所の日常的業務を行う官衙や宴会を行う庭園など、都を治める官公庁が集まった部分ですが、平城京のごく一部に過ぎません。それでもこの広さ。東西・南北ともに1 kmの東側に、東西250m,南北750mの張り出し部を持っています。大半が農地だったとは言え、良く全域確保できたと思います。散歩とかランニングにもいいみたいですね。平城京全域となると現在の奈良市街と被りまくるのでどだい無理というもの。

東院庭園その2 

 一部遺跡は復元が行われており、平城宮東院庭園その一つ。国の特別名勝に指定されています。宴会や儀式が行われていたようで、今日の日本庭園の原型とされています。

大極殿 

 こちらは国家的儀礼が行われた大極殿。恭仁京遷都までのもので、第一次大極殿とも。奈良に都が戻ってからの大極殿は第二次大極殿と呼ばれ、場所も別の所に建造されました。奈良建都1300年に当たる2010年に合わせて、実物大で復元されました。

朱雀門 

 平城宮の正門とも言うべき南門「朱雀門」。疲れたので行きませんでしたが、「朱雀大路」と「二条大路」の復原整備により、平城宮いざない館や観光交流施設が整備され、往時の景観を彷彿とさせるにぎわいの拠点となっています。

佐紀盾列古墳群 

 大体これで大和西大寺界隈は見たかなと思いましたが、平城宮跡の北側には佐紀盾列古墳群というたくさんの古墳があったりします。こちらもいずれは見て回りたいところですが、早くても年明け以降になることでしょう。そもそも行って楽しいのかな?

奈良小旅行(その6):秋篠寺と西大寺

黄金のクリスマスツリー

 今日は雨模様という予報だったので、小旅行もお休みかと思っていたのですが、ふたを開けてみればいい天気。どうやら雨は夕方からという気配なので、近場を攻めてきました。

大和西大寺駅 

 近鉄の大和西大寺駅は近鉄奈良駅の手前で、大阪中心部から一時間もかからずに行けますが、かつては平城京の内側ということで古寺名刹や史跡の宝庫です。鉄道好きにはまた別の面から人気だったりします。

大和西大寺の平面交差 

 近鉄奈良線と近鉄京都線・橿原線が平面交差する形で乗り入れており、近鉄天理線から直通する急行・普通列車も当駅まで乗り入れているのです。カオス認定される過密ダイヤで、線路は山のような切り替えポイントでややこしく接続されています。駅を広げようにも、平城宮跡地の中であるため、掘り返せば地下から遺跡が出てくることは確実なため、工事もままならないようです。私は乗り鉄なのでこういうのにはあまり興味はないのですが、好きな人はわざわざ作られた展望デッキから思う存分見てください。

称徳天皇陵  

 まずは秋篠寺に向かいます。駅からの道のりはほぼ住宅地となっていて、最近はまっていた奈良盆地南部とは違って京都の寺社を訪ねるような雰囲気ですが、ちょっと遠くを見ればまるで里山のように古墳が見えたりして、さすが奈良だなと思ってしまいます。

秋篠寺東門 

 先日秋篠宮が宮内庁をお叱りということが話題になっていましたが、秋篠寺は直接「秋篠宮」の宮号とは関係ないようです。しかしご結婚直後、紀子妃殿下の横顔がこの寺の伎芸天(ぎげいてん)像に似ているという評判が起こり、多くの人が伎芸天を拝観すべく秋篠寺に観光バスなどで訪れたとか。今はすっかり静寂な境内ですが。

秋篠寺本堂 

 秋篠寺は寺伝によると宝亀7(776)年、光仁天皇の勅願により法相宗の僧・善珠が創建したとされます。保延元(1135)年に火災により講堂以外の主要伽藍を焼失しており、現存する本堂(国宝)は旧講堂の位置にありますが、鎌倉時代の再建です。が、様式的には奈良時代建築の伝統が生かされているそうです。堂内には本尊薬師三尊像(重文)を中心に、十二神将像、地蔵菩薩立像(重文)、帝釈天立像(重文)、伎芸天立像(重文)などが安置されています。

伎芸天像 

 本堂内は写真撮影禁止(たいていの寺ではそうですが)なので借り物の画像ですが、これが伎芸天像です。頭部が奈良時代のもので、体部は鎌倉時代のものですが、違和感なく調和しています。伎芸天は護法善神とされますが、他の○○天と違って、ヒンドゥー教などで相当する神を特定することができないそうです。現存する古像はこれのみとか。そもそも身体は鎌倉時代制なので、造立当時の姿がどのようなものだったのかもよくわかりません。

秋篠寺大元堂 

 こちらは大元堂(大元明王院)。秘仏とされる大元帥明王像が祀られています。「帥」の字は発音せず「たいげんみょうおう」と読むようです。古代インド神話に登場する鬼神アータヴァカに由来し、 毘沙門天の眷属である八大夜叉大将の一尊に数えられていますが、密教では明王の最高尊である不動明王に匹敵する霊験を有するとされており、一説には「全ての明王の総帥であることから大元帥の名を冠する」と言われているとか。四天王配下から大出世ですね。 

大元帥明王立像 

 こちらがご尊顔。秘仏なのでやはり借り物画像ですが、恐ろしげですね。軍組織における「大元帥」とか「元帥」の呼称は、この大元帥明王からきているという説もあるそうです。え!そっちが先だったの!?大元帥明王は絵巻や掛軸等が多く、仏像としてはあまり多くないようです。伎芸天といいマイナーなものが多いですね、秋篠寺は。

秋篠寺開山堂 

 開山堂。小さなお堂です。開祖である善珠僧正の図像が祀られているそうです。

秋篠寺東塔礎石 

 かつては大伽藍を有していたそうですが、大半が失われ、今ではひっそりした佇まいです。遺跡のようなものを発見しましたが、これはどうやら東塔の礎石のようです。

秋篠寺の苔庭その1 
秋篠寺の苔庭その2 

 苔庭。金堂跡、西塔跡があるようですが、入れません。しかし苔庭というだけでもなかなかの見物です。

八所御霊神社 

 秋篠寺の南門を出るとすぐそばにある八所御霊神社。秋篠寺の鎮守社で、宝亀11(780)年に創建されたと伝えられています。非業・不慮の死を遂げたことで「怨霊」が恐れられた崇道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原夫人(伊予親王の母)・橘逸勢・文屋宮田麻呂・藤原広嗣・吉備大臣(吉備真備)、火雷神(菅原道真であるとも)を祀っています。典型的な御霊信仰に基づく神社ですね。京都には上御霊神社、下御霊神社があります。このうち吉備真備は地方豪族出身なのに右大臣にまで出世しており、特に怨霊になる理由がないような気がしますが、陰陽道の祖であるとか、九尾の狐を連れて唐から帰ってきたとかいう説もあり、特殊な力を持つ人物として扱われたのかもしれませんね。

歴史の道 

 秋篠寺と西大寺は「歴史の道」という小道でつながっていて、わりと迷うことなく行くことができます。この道、ぐるっと奈良市内を取り巻いており、秋篠寺-西大寺間は北西部のほんのちょっとだけです。奈良公園とか唐招提寺、薬師寺は行ったことがあるのでまあいいとして、秋篠寺から東にある古墳群が気になりますね。行く機会があるのでしょうか。

 西大寺看板

 はい、そして西大寺。東に東大寺あれば西に西大寺あり。でも北大寺とか南大寺はない不思議。京都では羅生門をはさんで東寺(教王護国寺)と西寺が存在しましたが、東寺は現存するものの、西寺は廃寺になって跡だけになってしまっています。一方奈良では現存しているものの、世界級にメジャーとなった東大寺の知名度とは比べるべくもありません。しかし「大和西大寺駅」とか「西大寺町」といった地名にはしっかり刻まれています。

西大寺境内図

 西大寺は奈良時代に孝謙上皇(重祚して称徳天皇)が恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱平定を祈願して金銅四天王像の造立を発願したことを経緯に僧・常騰を開山(初代住職)として建立されました。南都七大寺の1つとしてかつれは壮大な伽藍を誇りました。南都七大寺は平城京及びその周辺に存在して朝廷の保護を受けた七つの大寺を指しますが、なんか南斗六聖拳みたいで格好いいですね。ちなみに東大寺、西大寺の他、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、法隆寺(或いは唐招提寺)だそうです。

南斗六聖拳像 

 いや、南都六宗の方が六聖拳に近いかな。

現在の地図と重ねた平城京 

 「西大寺」の寺名は言うまでもなく、大仏で有名な「東大寺」に対するもので、平城京の外にあった東大寺に対して西大寺は平城京内にあり、かつては薬師金堂、弥勒金堂、四王堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持った大寺院でした。しかし寺は平安時代に入って衰退し、火災や台風で多くの堂塔が失われていき、興福寺の支配下に入っていたそうです。そもそも平安京遷都の主要な理由は仏教界の政治介入を排除するためとされており、旧都に残されて国家の庇護がなくなれば弱体化は必至かも知れませんね。興福寺は藤原氏の氏寺だったので平安時代も引き続き隆盛したと。

道鏡のイメージ 

 じゃあ東大寺とかだって駄目だろうという気がしますが、西大寺の場合、おそらく称徳天皇の発願というのが良くないのではないかと。だって称徳天皇といえば道鏡でしょ?西大寺建立に当たっては道鏡の思想的影響が大きかったと思われますが、その道鏡の失脚後は藤原氏からの風当たりが一段と強かったのでは。

叡尊像 

 しかし鎌倉時代に叡尊という人が出現し、荒廃していた西大寺の復興に尽くしたそうです。叡尊は、当時の日本仏教の腐敗・堕落した状況を憂いて戒律の復興に努め、その一方で貧者、病者などの救済に奔走した偉い坊さんだったそうで、鎌倉幕府、公家、皇族に至るまで貴賤を問わず帰依を受け、死語には興正菩薩の尊号が贈られています。

西大寺の文殊菩薩 

 西大寺に現存する仏像、工芸品などは叡尊の時代に制作されたものが多く、まさに中興の祖な訳ですが、戦国時代になると兵火に遭って大被害を受け、現存する伽藍は全て江戸時代以降の再建となっています。現在の境内には本堂、愛染堂、四王堂、聚宝館(宝物館)などが建っているほか、本堂前には東塔跡の礎石が残っています。なぜに塔は再建しなかったし。

西大寺四王堂 

 東門から入るとまず現れる四王堂(重文)。孝謙上皇発願の四天王像を祀っていますが、現在は足下の邪鬼のみ奈良時代のもので、四天王像本体は鎌倉・室町時代の作と推定されています。それから四王堂という名前なのに平安後期作とされる十一面観音立像が本尊として据えられています。

西大寺本堂 

 本堂(重文)。江戸後期と比較的新しい造営ですが、この時代の大規模仏堂建築の代表作として重文に指定されています。鎌倉時代に作られた本尊の釈迦如来立像も重文。やはり鎌倉時代作の文殊菩薩及び脇侍像5体も重文となっています。

西大寺愛染堂 

 愛染堂。京都御所の近衛公政所御殿を宝暦12(1762)年に移築したもので、元々寺院ではないせいか、人に配慮した明るさや居住性があります。本尊は愛染明王座像(重文)ですが、秘仏なので通常はレプリカが置かれています。それと叡尊の座像があり、こちらは国宝。叡尊80歳の時の肖像で、長い眉毛、団子鼻の風貌は像主の面影を伝えていると思われます。ちなみに叡尊は90歳まで生きたそうで、この時代の人としては極めて長寿でした。

西大寺の東塔跡 

 東塔跡(後ろは本堂)。五重塔でしたが、戦国時代に焼失し、その後は再建されないまま塔跡のみが残っています。

謎の平和観音 

 平和観音像。西塔跡近くの野外に立っています。緑色で最近の作のようですが、由来など一切不明なんですが、なぜにこんな目立つ仏像を建てながら寺側は何の説明もしないのか謎ですな。

秋篠寺の紅葉 

 紅葉はほぼ終わってしまいましたが、我が旅心はなお消えず。大和西大寺周辺には他にもいろいろな寺社仏閣や史跡があり、まだまだ見所が一杯。可能であれば来週も訪れたいと思います。特に強そうな名前の海龍王寺と平城宮跡はぜひ行きたいです。

奈良小旅行(その5):女人高野 室生寺

初寒波襲来です

 今日は寒かったですね。大阪でも最高気温が一桁でした。真冬の寒さだというのに、性懲りもなく秋の流れで古寺名刹探方を続けてしまいました。そろそろ終わりにした方がいいのかも知れませんねと言いつつ、今回は「女人高野」の別名を持つ室生寺です。個人的には「階段地獄」の異名を進呈したいですが。

室生口大野駅 

 鶴橋から近鉄特急と急行を乗り継いでやって来たのは室生口大野駅。それにしても淋しいところです。無人駅化は仕方ないとして、駅前の寂れ具合たるや。

室生寺行きのバス 

 室生寺行きのバスが停まっている他は、客待ちのタクシーが一台いるっきり。秋の観光シーズンは過ぎたとはいえ、
五木寛之が「古寺巡礼」第一巻の冒頭で取り上げた名刹を擁するというのに何という静けさ。だがそれがいい。外人どころか日本人観光客すら少ないという状況が孤独な旅人(私のことです)の旅情と哀愁をひときわ刺激します。……ま、日帰りなんですけどね。

室生寺入り口 

 バスで15分ほどで室生寺に到着。最近は田舎のバスも電子マネー対応になっていることが多く、乗り降りに手間取らなくて便利ですね。バス停から2~300メートル歩くと室生川に朱塗りの太鼓橋が掛かっていてここが入り口です。拝観料は600円。醍醐寺とか當麻寺に比べるとお安くなっています。

室生寺境内図 

 室生寺は室生山の山麓から中腹にかけてが境内になっていて、典型的な山岳寺院とされています。とにかく階段が多い。奥の院までで700段あるとか。寺が出来る前から、この辺りは奇岩や洞穴が多く、霊地とされていたようです。いわゆるパワースポットというやつでしょうか。社寺があるからパワースポットなのか、パワースポットだから社寺が建てられるのかは、卵が先か鶏が先かといった感じでよくわかりませんが、少なくとも室生寺はパワースポットだったのが先だった模様です。

桓武天皇 

 奈良時代末期の宝亀年間(770-781年)、時の皇太子山部親王(後の桓武天皇)が病を得た際、5名の名僧が室生山に派遣されて修法を行ったところ効験があったということで、その後興福寺の僧・賢璟(けんきょう/けんけい)が、山部親王の命で室生山に寺を建立したということです。おそらく賢璟も5名の名僧の中に含まれていたのでしょう。

 修円僧都の廟

 賢璟は当時すでにかなりの高齢だったとされ、在世中にどこまで寺が整えられたか不明で、実質的な創建者は次代の興福寺別当・修円であろうと言われています。二代に渡って興福寺の僧が関わったことで、室生寺は中世を通じて興福寺の末寺でしたが、江戸時代前期に真言宗豊山派(総本山は長谷寺)の本山となり、さらに戦後、独立して真言宗室生寺派の大本山となっています。

室生寺本堂と五重塔 

 先ほど書いたとおり、室生寺の別名は女人高野です。今では真言宗も多数の分派にわかれていますが、二大拠点といえば弘法大師空海自らが創建した東寺(教王護国寺)と高野山金剛峯寺となろうかと思います。このうち高野山がかつては女人禁制でしたが、室生寺は女人の参詣が許されていたことから付いた別名とされますが、そもそも室生寺が真言宗に加わったのは江戸時代なので、「女人高野」と言われ始めたのもの江戸時代以降ということになります。ということは、結構最近のことなんですね。

女人高野という歌も 

 それにしても女性も参詣するんだから楽だろうと考えたら大間違いで、全山山の中にあるのでとにかく階段だらけです。一番高い奥の院に行くには400段の階段を登らなければなりませんが、そこに至るまでに300段位は登っているという。しかも階段が高さや形が一定化されていない石段なもので、これは健脚でないとかなりキツいです。私もどうしようかと思いましたが、これでも談山と御破裂山を踏破した男、ここは一発根性見せねばとトライしました。

室生寺仁王門 

 ま、それはおいおい書くとして、まずは仁王門を通って、鎧坂という急な石段を登ります。石段の両脇には石楠花や木々の枝が迫っているので、あんまり端を通ると枝が頭にぶつかります。

室生寺金堂 

 石段を登り切ると平安時代前期の建立で国宝の金堂。建物前面が斜面に張り出して懸造りとなっていますが、ごく控えめです。中は撮影禁止ですが、向かって左から十一面観音立像(国宝)、文殊菩薩立像(重文)、本尊釈迦如来立像(国宝)、薬師如来立像(重文)、地蔵菩薩立像(重文)の5体が横一列に並んでいて、その手前には十二神将立像(重文)が立っています。

室生寺本堂 

 金堂の左手には重文の弥勒堂がありますが、残念ながら現在は修理中。なので石段を登って先に進みます。今度はやはり国宝の本堂が現れます。別名灌頂堂で鎌倉時代後期の建立。灌頂という密教儀式を行うための堂で、如意輪観音坐像(重文)を安置しています。日本三如意輪の一つと称されているそうですが、しかし好きですね日本(世界)三大○○というやつが。

室生寺五重塔 

 さらに石段を登ると平安時代初期の800年頃建立の五重塔があります。屋外にある木造五重塔としては、法隆寺塔に次ぎわが国で2番目に古いそうで、もちろん国宝。高さは16メートル強ということで、国宝・重要文化財指定の木造五重塔で屋外にあるものとしては日本最小だそうです。談山神社の十三重塔よりも小さいですね。

階段から見た五重塔 

 1200年以上前の建築物にしてはやけに新しく見えますが、1998年に台風7号によってそばの杉の大木が倒れて塔の屋根に直撃するという大被害を受け、1999年から2000年にかけ復旧工事を行ったからのようです。「女人高野」という名前のせいか、なんとはなしに女性的な優美な塔のように思えます。

奥の院に向かう階段その1 

 さあ、五重塔の脇から400段の石段が奥の院まで伸びています。こちらも段差や石の形状がまちまちで、かなり登り辛いです。もう上を見ずにひたすら目前の石段に集中して登っていきます。

奥の院に向かう階段その2 

 周囲は完全に山中の雰囲気。室生山の山中には違いないから当然といえば当然なんですが、奥山の雰囲気があります。途中天然記念物の暖地性シダ群落があります。イヨクジャク、イワヤシダ、ハカタシダ、オオバハチジョウシダなど、四国や九州以南の暖地に生育する種類のシダのなんだそうです。

 常燈堂の懸造り

 へとへとになりながらふと見上げると金堂よりずっと豪快な懸造りの建物が。これが常燈堂。国宝とか重文とかに指定されているのかと思えばなにもなし。それもそのはず、建立は昭和10年なんだそうで。ほぼ現代の建築やんけ。

奥の院から下界を見る 

 でもぐるっと周囲を回ることができ、山の下を見ることも出来ました。結構な高さに思えますね。この石段を朝夕上り下りしたら、運動部の学生なんかはいいトレーニングになりそうですが…

奥の院御影堂 

 大きさは常燈堂よりずっと小さいですが、こちらが奥の院のメインである重文の御影堂。弘法大師を祀っていて、板葺き二段屋根の宝形造りで、建立は室町時代前期。日本各地にある大師堂の中でも最古級の堂だとされています。正直、これを見るためだとすると400段の石段はちょっとハード過ぎる気もしますが、まあ踏破すること意義があると考えましょう。山岳寺院どんと来い! 

弘法大師の歌 

 御影堂のそばにあったご詠歌。?なんとなく東寺にあるご詠歌「身は高野(たかの)、心は東寺に納めおく、大師の誓いあらたなりけり」に似ているような。まあ弘法大師謹製でないことは確かでしょう。

杉の大木の中のお堂 

 降りは汗はかきませんが、膝にはむしろ登りより負担が。でも気持ちに余裕が出てくるのでいろいろ道草する気になってきます。杉の大木の中に小さなお堂が。何の説明もないので正体不明です。賽銭箱はありましたが、説明がないと入れにくいのでは。

伝北畠親房の墓 

 「神皇正統記」を著したことで有名な北畠親房のものと伝えられる墓。親房は南朝方の総司令官として南朝方の勢力拡大を図って奮闘しましたが、その死後は南朝に指導的人物がいなくなり、衰退への道をたどっていくことになります。南朝の行宮があった奈良県五條市賀名生が終焉の地で墓もあるのですが、分骨でもしたんでしょうか。

室生寺弁天堂 

 どんどん石段を降っていって弁財天社。弁天様といえば水の神様ですが、そばに変わった形の池があるせいでしょうか。梵字の「バン」の形をしているというこで「バン字池」と言います。

室生寺護摩堂 

 さらに入り口近くに戻って護摩堂。ひっそりと目立たないお堂ですが、桜の季節は背後と正面の桜がそれは美しいそうです。

室生寺本坊 

 本坊。坊さん達が居住したり食事をする庫裏といった感じです。

室生寺慶雲殿 

 そして慶雲殿。時期によっては特別秘宝展とかを開催するようです。

紅葉も終わり 

 室生寺紅葉コレクションをやりたいんですが、既に紅葉の盛りは過ぎてしまったようで、冬の気配が濃厚となっていました。

 冬の気配の室生寺

 一番秋っぽいのとしてこれはどうでしょうか。散り敷き紅葉の色がちょっと褪せてしまっているのが惜しいですが。

名残の紅葉

 奈良というと奈良市とかせいぜい奈良盆地というイメージが強いですが、「京に田舎あり」のことわざがあるように、奈良も奈良盆地以南はほぼ大山岳地帯です。「奈良に秘境あり」ということわざを作りたいぐらいのものですが、室生寺周辺だったかなり秘境っぽい感じがあります。「山と渓谷」って感じがしませんか?

室生寺周辺の山
室生寺周辺の渓谷
 
 まだまだ京都奈良の古刹は山ほどあるんでしょうが、行ってみたいなと思っていたところは大体訪れたような気がします。もう寒いからこの辺りで打ち止めにしようか、いやいや週末あたりからまた暖かくなるという予報もあるしと、ちょっと思い悩んでいます。とりあえず雨が降ったらやめときましょう。

奈良小旅行(その4):中将姫伝説の古刹・當麻寺

12月の長谷寺

 12月というのも暖かいですね。月が変わって秋から冬になったとはいえ、そうあっさりと気候までは変わらず、紅葉もまだまだ見頃の場所がたくさんあります。

奥院から見た伽藍 

 先週に引き続き奈良小旅行です。なんか最近は京都より奈良の方がお気に入りになってきました。奈良も東大寺や奈良公園のある奈良市はともかく、南部(奈良県の、ではなく奈良盆地の)は外人が少ないし、そもそも観光客の数が段違いに少なくて、静かに観覧できるんですよ。いや、インバウンドやら多くの観光客が名所名跡を潤してくれ、ひいては日本の経済に必要だということは判るんですが、個人的にはやはり周囲に人が多くて騒がしいのは苦手です。

わたしは奈良派 

 あと、千年の都・京都の偉大さと素晴らしさは世界的に有名なんですが、奈良にはそれより更に古い寺社がごろごろしているという。まあ平城京はもとより、それ以前の飛鳥時代とかは奈良盆地に都がありましたから当然なんですが、近鉄の宣伝文句じゃありませんが、私も奈良派になりそうです。

二上山 

 ということで、本日は近鉄も乗って當麻寺に行ってきました。「當麻」は「たいま」と読みます。沖縄在住の元女優がピクッと反応しそうな名前ですが、マリファナとは関係ないようです。大阪平野と奈良盆地は生駒山地と金剛山地が隔てているわけですが、金剛山地北部の二上山の麓、奈良盆地の西南端にあって、古代においては交通・軍事上の要衝だったようです。

當麻寺境内略図  

 當麻寺創建の伝承によると、別の地に聖徳太子の異母弟である麻呂子王(当麻皇子)が天武天皇14(685)年に弥勒仏を本尊として草創した禅林寺が、天武天皇9(680)年にこの地に移されたものだとされています。寺に残る仏像、梵鐘等の文化財や、出土品などの様式年代は7世紀末までは遡れるので、當麻寺は壬申の乱に功績のあった当麻国見(葛城氏の一族で麻呂子王の孫)によって、7世紀末頃に当麻氏の氏寺として建立された氏寺であるとみられています。創建の正確な時期や事情については正史に記録がなく、奈良時代から平安時代にかけての寺史も史料が乏しいため、詳しいことがわからないようです。

近鉄当麻寺駅 

 宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となっています。平安初期、弘法大師・空海が當麻寺を訪れて曼荼羅を拝し、それ以降、當麻寺は真言宗寺院となったという伝承があり、また平安末期に末法思想が広まった際、當麻寺には阿弥陀如来の浄土を描いた「当麻曼荼羅」があったために信仰を集めるようになったということで、浄土宗の塔頭も多く擁しています。

當麻寺参道
當麻寺仁王門 

 近鉄南大阪線当麻駅(駅名は「當麻」ではなく「当麻」)を降りて一本道の参道をまっすぐ西に向かうと見えてくるのが仁王門。この参道、両側に並ぶ家並みとかもなかなか雰囲気があって良いのですが、車両の交通がかなり激しいのが玉に瑕。車両が行き交うには幅員が狭いので、歩行者専用だと最高なんですが。

日本最古の梵鐘 

 仁王門をくぐるとあるのが鐘楼の梵鐘。日本最古の梵鐘と言われ、當麻寺創建当時の遺物と推定されています。無銘ですが国宝に指定されています。

當麻寺本堂 

 さらに進んでいくとぶつかるのが国宝の曼荼羅堂(本堂)。平安時代末期の建築ですが、一部には奈良時代の建物の部材が転用されています。ここで拝観料500円を払うと、本堂の他に講堂と金堂に入れます。本堂の本尊は仏像ではなく、縦横4メートルはある巨大な当麻曼荼羅(国宝)。中将姫と呼ばれる尼僧が蓮の糸を用い、一夜で織り上げたという伝説があります。

中将姫像 

 ということで中将姫に触れなければならない訳ですが、先週訪ねた談山神社に祀られている藤原の鎌足の曾孫である右大臣藤原豊成の娘ということになっています。夫婦の間に長い間子供が出来ず、桜井の長谷寺(ここも訪ねました)の観音に祈願したところ、授かったのが中将姫でした。しかしママンは中将姫が5歳の時に亡くなり、その後豊成は後妻を迎えることになります。

絵本の中将姫 

 中将姫は幼少から美貌と才能に恵まれますが、継母に憎まれてしまいます。継母は様々ないじめを行った挙げ句、夫の不在時に家臣に殺害を命じますが、命乞いをせずに極楽浄土へ召されることをのみを祈って読経を続ける中将姫を家臣は殺める事が出来ませんでした。13歳で三位中将の位を持つ内侍となり、16歳の頃、天皇に後宮入りを望まれますが、これを断って当麻寺へ入り、尼となりました。

歌川国芳による中将姫 

 26歳で長谷観音のお告げにより、「当麻曼荼羅」を織り上げますが、仏行に励んだ徳によって仏の助力を得て、一夜で蓮糸でを織ったとされています。宝亀6(775)年春、29歳で入滅しますが、その際には阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎し、生きたまま西方極楽浄土へ向かったとされます。

中将餅 
中将湯 
 付近では当麻に昔らか伝わるという餡をつけたよもぎ餅を中将姫にちなんで「中将餅」として販売しています。また婦人病の家庭薬として知られる中将湯も、中将姫が伝えたものだとされています。

当麻曼荼羅 

 実際の当麻曼荼羅は調査の結果、錦の綴織りであることが判明しており、高度な技術を要するので中国製なのではないかと推定されていますが、ま、それはそれ。学術的調査自体は重要ですが、伝説にツッコむのは野暮というものでしょう。

當麻寺金堂 

 重要文化財の金堂は平重衡の南都焼き討ちの際に焼失してしまい、鎌倉時代の再建です。中には本来の本尊である弥勒仏坐像や四天王立像などが安置されています。

當麻寺講堂 

 同じく重文の講堂。こちらも鎌倉時代の再建で、本尊の阿弥陀如来坐像、もう1体の阿弥陀如来坐像(小さい)、妙幢菩薩立像、地蔵菩薩立像(以上重文)のほか、多くの仏像を安置しています。

當麻寺中之坊 

 そして子院の中之坊。参観料500円。真言宗で、中将姫剃髪の地と伝承されています。中将姫の仏法の師である実雅の開基とされています。

中将姫剃髪堂 

 中将姫が剃髪したという剃髪堂には中将姫の守り本尊の「導き観音」が祀られています。

中之坊庭園から三重塔を望む 
庭園「香藕園」の紅葉 

 庭園は「香藕園」という名で、史跡・名勝です。大和三庭園のひとつに数えられています。東塔を借景とし、心字池を中心とした桃山期の名庭で、江戸時代初期に、4代将軍家綱の茶道指南役であった片桐石州(石見守貞昌)が現在の姿に改修しました。

丸窓席 

 庭園に臨む茶室「丸窓席」。江戸時代初期建立の書院(重文)にあります。円窓の直径は1.8メートルもあるそうです。

千仏院の庭園の門 
千仏院庭園 

 庭園は中之坊向かいの千仏院にもありました。こちらは人がおらず、100円を賽銭箱に入れるシステムでした。誰もいませんでしたが、当然真っ正直に100円を入れました。「香藕園」に比べるとかなり小さいですが、心字の池を中心に、回遊式の庭園となっていました。

當麻寺東塔 

 こんなものかなと帰ろうとしたのですが、「そういえば庭園から見えた塔も當麻寺のものだろう」と思い返して見に行きました。東塔です。西塔は修理中で見えませんでした。国宝の三重塔で、奈良時代末期の建築と推定されています。高さは24.4メートル。そりゃあ法隆寺の五重塔とか、奈良にはもっと古い伽藍もありますが、奈良時代の建築が残っているというのは改めて驚きますね。

西南院庭園案内図 

 思い返したついでに訪れた西南院。當麻寺の裏鬼門を守る寺院として創建されたそうです。拝観料は300円。庭園は江戸初期に造られ、中期頃に池泉廻遊式庭園に改修されました。借景として西塔(国宝)を組み入れていますが、現在修理中のため残園ながら、その優姿を見ることは出来ませんでした。

 西南院庭園の紅葉その3西南院庭園の紅葉その4西南院庭園の紅葉その1

 しかし紅葉はなお残っていましたので、西南院紅葉コレクション。

奥院境内図 

 さらに奥院。入山料500円。こちらは浄土宗の子院で、室町時代の応安3(1370)年、知恩院12世の誓阿普観が創建したもので、当初は往生院と称しました。知恩院の奥の院とされ、近世以降は「当麻奥院」と呼ばれています。

奥院楼門 

 重文の奥院鐘楼門。正保4(1647)年の建立。

奥院本堂 

 右はやはり重文の奥院本堂。慶長9(1604)年建立。左は阿弥陀堂。

浄土庭園の紅葉その1 

 なんと言っても浄土庭園が広いです。阿弥陀仏の姿を写す極楽の池「宝池」の回りを巡る池泉回遊式庭園で、二上山を背景にしています。

浄土庭園ロックガーデン 

 阿弥陀如来像を中心に数多くの仏をあらわした石が並んでいます。ロックガーデンですね。納骨も受け付けているそうで、浄土庭園の阿弥陀仏石像の地下に納められ、毎年回向を受けられるとか。興味のある方はどうぞ。

浄土庭園の十三重石塔 

 石造りの十三重塔もありました。石造りだと結構あるんですが、木製であれだけ巨大なものというと、やはり談山神社の十三重塔は珍しいし貴重ですね。

浄土庭園の紅葉その2 
浄土庭園の紅葉その3 
浄土庭園の紅葉その4 

 奥院は独自の霊宝館を持っており(中之坊にもありました)、二十五菩薩来迎像なんかが展示されていました。そしてここでも紅葉が。奥院コレクションです。

弘法大師堂 

 最後に大師堂。江戸時代創建の弘法大師を祀っており、高野山から移された等身大の弘法大師像を本尊としています。周囲には歴代當麻寺別当、中之坊法印、西南院住職などの供養塔があります。

日本最古の石灯籠 

 このほか、入ろうと思ったけどなぜかやめた護念院、宗胤院などもあります。そうそう、日本最古と記された石灯籠もありましたっけ。

散り敷き紅葉 

 見所満載ですが、全部入ろうとするとそれなりに拝観料などがかかってしまう當麻寺。醍醐寺のように一括払いにするか當麻寺のように分割払いにするか。見たいところだけ見られるという意味では分割払いの方がいいような気もしますが、ちまちま払うのが面倒だという人もいるでしょう。私のように一期一会だ、二度と来られるかどうかはわからんという場合、高く感じても一括払いの方が楽なような気もします。

大和七宝八福めぐりの御朱印帳 

 当麻寺も大和七福八宝めぐりの一つに数えられており、中之坊に布袋像が祀られているそうですが、全然気付きませんでした。やはり目がリハクだから(笑)。

奈良小旅行(その3):談山神社となんちゃって「ヤマノススメ」

談山神社へ行く道の紅葉

 久々の三連休いかがお過ごしでしょうか。秋は三連休が結構あるのがうれしいのですが、以前は5月のGW明けから休日が延々ありませんでしたね。6~8月はゼロでした。まあ夏休み期間になると学生はロンバケだし、リーマンもそこまで長くはないけどそこそこ有給休暇を取るのですが。海の日だ山の日だといつのまにか休日が増えて、今では休日がないのは6月のみ。いっそ6月にも何か休日を作ってはどうですかね。

談山神社遠景@ 

 秋の日曜日の恒例となった小さな旅ですが、この秋は日曜日の天気が良くて大変助かります。今日は奈良県桜井市の談山神社に行ってきました。前に長谷寺を訪れたとき、勢いで談山神社も攻めようかと思ったのですが、駅からバスで20分くらいと結構遠いのでやめて正解でした。そのバスも通常は一時間に一本くらいしかないのですが、秋の紅葉シーズンは臨時便が増えていて便利になっていました。でも今日でおしまいみたいです。

談山神社の入り口 

 談山(たんざん)神社は十三重という過ぎたるは及ばざるが如しというか、やりゃあいいってもんじゃねーよと言いたくなる塔で有名なんですが、なぜに神社に塔が?他の神社ではなかなかお目にかからないZE!と思ったら、昔は多武峯妙楽寺(とうのみね みょうらくじ)と言う寺院だったそうです。明治の廃仏毀釈の際に寺を廃して神社のみになったそうですが、十三重塔をはじめ建物は寺院建築をそのまま使用していて、神仏習合の雰囲気を残しています。

大木と紅葉 

 祭神は談山大明神、談山権現と呼ばれる藤原氏の祖である中臣(藤原)鎌足。遣唐使に随行して唐に渡っていた鎌足の長男で僧の定恵が、天武天皇7(678)年に鎌足の墓をこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥だそうです。「談山」の名の由来は、中臣鎌足と中大兄皇子が、大化元(645)年の5月に「大化の改新」の談合をこの地で行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。その談山、神社の裏手にあります。

談山神社境内図 

 藤原氏の繁栄と共に発展しましたが、同じく藤原氏の氏寺である興福寺とは宗派が異なることから争いが絶えず、焼き討ちをされたりしています。また南北朝の騒乱の際にも南朝側の拠点とされて幕府軍に攻められたり、戦国時代にも戦乱は絶えることがありませんでした。今となってはこんな静かな場所がねえと思いますが。徳川家康により復興され、江戸幕府には3,000石余の朱印領を認められて安定しましたが、明治になって神仏分離令と廃仏毀釈により神社のみとなりました。

十三重塔その1 

 談山神社といえばなにはともあれ十三重塔。飛鳥時代の678年に建立されましたが、戦乱などで焼失したため、現存の塔は、享禄5 (1532)年の再建です。木造十三重塔としては世界唯一のもので、唐の清涼山宝池院の塔を模して建てられたと伝えられています。 高さは約17メートルで思ったよりも小さいのですが、なにしろ屋根が十三あるので実際よりも大きく見えますね。

十三重塔その2 

 塔ですが仏舎利が祀られておらず、代わりに鎌足の遺骸を埋葬した墓上に建てられているそうです。なお鎌足が神格化されて祭神となっていますが、日本の歴史上、実在の人物を神格化する例は多数ありますが、その嚆矢は鎌足だとされているそうです。

談山神社本殿 

 鎌足を祀る本殿は大宝元(701)年創建で、もとは聖霊院、大織冠社、多武峰社などと称されました。現在の建物は嘉永3(1850)年のものです。社殿全体が極彩色模様や花鳥などの彫刻によって装飾されており、日光東照宮造営の際の手本となったそうです。

懸造りの拝殿 

 その本殿に臨む拝殿は談山神社最大の建物です。崖に面しているので、清水寺などに比べるとずっとこじんまりとはしていますが懸造りとなっています。朱を基調とした木造の建物に檜皮葺きの屋根が深い味わいを添えています。中には神社所蔵の刀剣類が陳列されています。ここからの紅葉がまた素晴らしかったです。

 釣り灯籠と紅葉

 廻縁に沿ったて吊灯篭が、紅葉とマッチしていますね。

東殿 

 摂社の東殿。別名恋神社。古くから男女の縁だけで無く様々な縁結びの社として崇敬されているそうです。祀られているのは、鎌足の長男で創健者の定恵、次男の不比等、そして鏡女王(かがみのおおきみ)ですが、鏡女王とは誰ぞやといえば、鎌足の正妻なのです。歌人として有名な額田王の姉という説もあるそうですが、確証はありません。はじめ天智天皇の妃だったのが、後に藤原鎌足の妻になったということで、こ、これは拝領妻!?そのため、不比等は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説があります。兄の定恵とは母が違うようですが、そもそも中臣氏は神祇に関わる氏族で、仏教伝来に際しては強硬な反対者を出しているのに、長男が僧になるとは。

観音堂 

 なお、その先にある建物は縁切りに効験があるようなことをが書かれていましたが、これは観音堂では?観音様が縁切りとはこれいかに。

三天稲荷神社 

 さらに先の山道を250メートル(公称。実際には300~400メートルはあった気がします)行くと三天稲荷神社が。昔は十三重塔の背後にあったそうですが、なぜか遙か彼方に追いやられています。祭神の中に菅原道真がいるのですが、道真といえば藤原氏に祟った怨霊なので、廃仏毀釈のどさくさにまぎれて遠ざけたのか。しかし、ちゃんと祀った方が穏便に済みそうな気がしますけどね…

比叡神社 

 末社の一つ比叡神社。比叡と書いて「ひえ」と読みます。もとは飛鳥の大原にあった大原宮で、ここに移築し明治維新までは山王宮と呼ばれたそうですが、とすると日枝神社・日吉神社と同じく山王信仰ということでしょうか。

閼伽井屋と紅葉 

 閼伽井屋と紅葉。閼伽井とは仏前などに供養する水を汲んだ井戸ですが、この井戸は「摩尼法井(まにほうい)」と呼ばれ、創健者の定恵が法華経を講じたときに、龍王の出現があったと伝えられている井戸です。龍王は属性がカオス・ニュートラルだったっけかと思ってしまう私はメガテンのやり過ぎ。龍族は基本カオスなんですよね。

遠くから見た御破裂山 

 末社は他にもあるんですが、きりがないので藤原行成のグランパである摂政・太政大臣藤原伊尹が建立したという権殿の脇から延びる登山道を登って、いよいよなんちゃってヤマノススメです。目指すは談山(かたらいやま)と御破裂山(ごはれつさん)。

談山神社付近の航空写真 

 一帯の山は多武峰(とうのみね)と呼ばれていて、その山頂が御破裂山。山腹にあるのが談山神社という形です。低山ですし険しいわけでもないのですが、整備された木製の階段が所々朽ちてなくなっていて、階段を固定していた鉄筋だけが残っているのはちょっと危ない感じでした。登っていくと立て札があって、右談山、左御破裂山と表示されています。

二つの山の分かれ道 

 まずは談山へ。海抜566メートルで、談山神社本殿の裏山という感じです。これは確かに談山の下だから談山神社と言いたくなりますね。でもなぜに訓読みと音読みに分かれたのか。

談山の能書き 

 先に述べましたが談山は鎌足と中大兄皇子が大化の改新の相談をした場所だそうで、山頂には「御相談所」と刻まれた石碑があります。よくもまあこんなとこまで来たなと思いますが、そりゃあここで相談してたらばれないだろうとも思います。日産の取締役達もここでゴーン会長告発に向けての相談をしたとかしないとか(してません)。

談山の山頂 

 談山の坂道が案外に急で、膝が痛みました。これで止めようかなとも思ったのですが、先の立て札の所までくるとムラムラと登山欲が沸いてきました。「ヤマノススメ」を見たせいなんでしょうか。なので心の赴くままに御破裂山に登ります。

 御破裂山の山道

 これが山道。紅葉なんか全然なくてまさに杉の樹林が続きます。「寂しさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ」は寂蓮法師の歌だったでしょうか。もしや“まき立つ山”とは御破裂山のことではなかったか。ここなら夕暮れまでいても麓に帰れそうだし。

御破裂山能書き 

 道のりは談山よりも長いですが、険しさはなかった御破裂山。海抜607メートルで多武峰の最高峰。なんか物騒な名前ですが、「天下に事変あれば事前にこれを察知し鳴動する」と伝えられるそうです。私が登った時は鳴動していませんでしたが、明日も平和とうことでOKでしょうか。頂上付近に鳥居があってこれが鎌足の墓所のようです。

御破裂山の山頂 

 しかーし、左に回り込むと新しめの墓が。藤原家とか刻まれていますが、え?これが鎌足の墓なの?マジですか?

 藤原鎌足の墓?

 山を二つも制覇したなんて言うと縦走か?登山家か?と突っ込まれそうですが、膝さえちゃんと動けば特に装備類は必要なく、散歩気分で登ることが可能です。600メートルでも0メートルから登れば結構な登山ですが、談山神社が既に山の中腹なので、登ってもせいぜい2~300メートルといったところでしょう。「ヤマノススメ」的には天覧山みたいなものでしょうか。御破裂山からは大和三山とか飛鳥地方が見渡せるはずなんですが、木が茂りまくっていて眺望は良くなかったです。大阪万博にかこつけて展望台の設置を求めたいです。

談山神社の福禄寿 

 なお「大和七福八宝めぐり」の中では長谷寺に続いての訪問となりました。長谷寺には大黒堂、談山神社は総社拝殿で福禄寿を祀っているそうです。には前にも書きましたが全部行く気はないのですが、當麻寺中之坊は行ってみようかと思っています。12月になっちゃいますけど。

談山神社の灯籠 

京都小旅行(その5):醍醐寺

晩秋のカラスウリ

 昼間はともかく、朝夕はめっきり冷え込んできましたね。冬もすぐそこということで、ニトリで買った冬用の敷パッドを装着しました。Nウォームモイストという、暖かいだけでなく吸湿もするので乾燥と静電気を防ぐんだそうです。

Nウォーム敷パッド 

 ピローパッドはNウォームスーパー。蓄熱・保温力が高くて一番暖かいそうです。敷パッドとピローパッドは種類も色も合わせたかったのですが、店に同じのがなくてちぐはぐになってしまいました。グレーのNウォームモイストで統一したかったのですが。夏用のNクールシリーズは、それだけで涼しいというほどではなく、ないよりはまし程度でしたが、Nウォームシリーズはかなり暖かいようです。ま、真価が問われるのは真冬になってからなんですが。

グレーのピローパッド 

 本日は醍醐寺に行ってきました。京都市内の寺院ではあるのですが、伏見区と中心部からかなり離れています。伏見区といえばGWに伏見稲荷と東福寺に行きましたが、醍醐寺はさらに市街から遠いところにありました。平安時代初期の創建で、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が貞観16(874)年に笠取山頂上に開山し、笠取山は醍醐山に改名されました。ちなみ「醍醐」とは、牛乳を加工した、濃厚な味わいとほのかな甘味を持った液汁のことだそうで、バター説、チーズ説、カルピスないし飲むヨーグルトのようなもの説など諸説あってはっきりしませんが、最もおいしい味の代名詞だそうです。

醍醐寺入口 

 その後醍醐天皇が醍醐寺を勅願寺としてに手厚い庇護を与えたことで、醍醐山麓の広大な平地に大伽藍が発展しました。これにより醍醐山山頂が上醍醐、山麓が下醍醐と呼ばれています。応仁の乱などで下醍醐は荒廃しましたが、豊臣秀吉が「醍醐の花見」を行ったことにより寺院建築が移築され、今日の姿になりました。山の上の上醍醐までは、険しい山道で1時間はかかるということで、「ヤマノススメ」を見た後とはいえとても行く気になれませんでしたので、下醍醐だけを見てきました。

醍醐寺鳥瞰図 

 下醍醐だけでも拝観料は2000円かかりました。高!三宝院、霊宝館、伽藍を見られる拝観券が1500円で、これは春秋以外は800円らしいんですが…も、もしや足下を見てる? これに三宝院の奥宸殿などの特別拝観券が500円。これはケチってもいいんですが、せっかくきたので行けるとこまで行こうと思ったので奮発しました。

三宝院の紅葉 

 最初に見たのが三宝院。醍醐寺の塔頭なんですが、真言宗系の修験道当山派を統括する本山でもありました。先週行った金峯山寺と関わりが深い訳ですが、何も考えずに言ってみたらこういうことになるとは、なにやら因縁を感じますね。創建は永久3(1115)年ということで、下醍醐でも新参な訳ですが、鎌倉・室町幕府の庇護を受け、応仁の乱によって焼失したことで廃寺同然となりましたが、豊臣秀吉が三宝院を中心に「醍醐の花見」を開催したことで庭園が整備されました。

三宝院唐門 

 国宝は表書院と唐門。表書院は「醍醐の花見」の際に奈良から移された能の楽屋を再移転し、中門を付加するなどして書院造風に整えたものです。唐門は正面扉に金箔の桐紋、その脇に菊紋を張り付けるという、いかにも桃山期らしい豪壮な門です。2011年に修理されてため、作ったばかりのように真新しくなっています。

三宝院の庭園 

 庭園は慶長3(1598)年の「醍醐の花見」に際して、豊臣秀吉が自らが基本設計を行ったもので、秀吉死去後の元和10(1624)年まで作庭が続けられました。

藤戸石 

 正面に据えられた冷蔵庫のようにも見える「藤戸石」は、秀吉が聚楽第から運ばせたものですが、元は岡山県倉敷市藤戸町にあったもので、それを足利義満が鹿苑寺金閣へ取り寄せ、その後細川管領家、二条城、聚楽第、醍醐寺三宝院へと移され、その歴史的経緯から、「天下人が所有する石」とも呼ばれています。

三宝院の庭園その2 

 三宝院庭園は、安土桃山時代の華やかな雰囲気を今日に伝える日本庭園として貴重なもので、1952(昭和27)年に国の特別史跡および特別名勝に指定されています。 

奥宸殿 純浄観
本堂

 特別拝観料500円を出した成果としては、通常非公開の奥宸殿、純浄観、本堂の三つの重要文化財へ立ち入りすることができます。

霊宝館 

 続いて霊宝館へ。寺宝の保存と公開を兼ねた施設として作られ、上醍醐薬師堂の本尊である薬師三尊像(国宝)、上醍醐五大堂の木造五大明王像(重要文化財)など、伽藍諸堂に祀られている諸尊以外のほとんどの寺宝が安置されています。

水晶宝竈入り木造阿弥陀如来像 
醍醐寺の薬師三尊像 

 水晶宝龕入り木造阿弥陀如来像が初公開されていました。これは蓮華のつぼみの形をした透明な水品のなかに金箔を押した木造の阿弥陀如来小像が納められたもので、日本の仏像の歴史上でも他に例のない珍品だそうです。鎌倉初期の名仏師・快慶作という説もあるとか。

醍醐寺三門 

 そして伽藍へ。西大門(仁王門)は、豊臣秀頼が慶長10(1605)年に再建したものです。

醍醐寺五重塔 

 五重塔。伽藍は応仁の乱でほぼ全焼し、その後も焼失・再建を繰り返していますが、五重塔は創建当時のまま現在に残っている、京都でも数少ない平安時代建築です。当然国宝。五重塔内部の壁画も別途国宝に指定されています。

醍醐寺金堂 

 本尊薬師如来を安置する金堂も国宝。豊臣秀吉が紀州の満願寺本堂を移築したものだそうです。江戸時代になって京都に再興された智積院もそうですが、秀吉が紀州征伐を行った影響はあちこちに出てきますね。

 醍醐寺観音堂

 観音堂は、本尊は丈六の阿弥陀如来坐像なんですが、2008年に落雷により焼失した上醍醐の准胝堂の西国札所が仮に移されているので「観音堂」と改称されています。

醍醐寺不動堂
醍醐寺境内の紅葉その4

 その他不動堂、真如三昧耶堂、弁天堂などが紅葉の間にあります。

醍醐寺境内の紅葉 醍醐寺境内の紅葉その2

 紅葉の時期の京都というと、嵐山をはじめ混みまくっているという印象があって二の足を踏んだのですが、醍醐寺は市街地から離れているせいか、それほど混んではいませんでした。とはいえ外人はたくさんいて、京都の面目躍如ではあったのですが。吉野など奈良の僻地(失礼)だと外人の数もだいぶ減る印象なのですが、人気そのものが少なかったりして。

醍醐寺境内の紅葉その3 

 醍醐寺近辺は静かな住宅地という印象で、この辺りに住むのもいいなあと思いましたが、醍醐寺自体は有料だから近くに住んだからといってそうそう入るわけにはいかないことでしょう。寺社とかけて故郷と解く。その心は、遠きにありて思うもの。なーんちゃって。

 醍醐寺境内の紅葉その5

奈良小旅行(その2):吉野山・金峯山寺

吉野の晩秋

 晴天の晩秋の一日、いかがお過ごしでしょうか。インドア派の私ですが、こうまで条件が揃うと出かけずにはいられません。というか、出かけないと非常に損した気分になってしまいます。明日は月曜な訳ですが、外出しているひとときはそれを忘れられるような。そして帰宅して夕暮れからどよ~んと(笑)。まあ毎週の定例行事ですな。

吉野の山々 

 ということで、本日は奈良へ。談山神社も考えたのですが、思い切って吉野まで足を伸ばしてきました。吉野は大和国(奈良県)南部一帯を指す地名で、狩りに適した良い野という意味だそうです。口吉野と奥吉野に分かれていて、奥吉野は熊野にまで連なる山岳地帯になります。もちろんそこまで行くと小旅行では済まないので、口吉野の吉野山のみです。

金峯山寺入口 

 吉野山は南北約8キロメートルに及ぶ尾根続きの山稜の総称です。古くから桜の名所として知られ、1924(大正13)年には国の名勝・史跡に、1936(昭和11)年 に吉野熊野国立公園に指定されました。また2004(平成16)年には吉野山・高野山から熊野にかけての霊場と参詣道が「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されています。

青の交響曲 

 大阪阿倍野駅から近鉄に乗って吉野駅へ。近鉄が「上質な大人旅」をコンセプトに2016年から運行している観光特急列車「青の交響曲(シンフォニー)」に乗りたかったのですが、金曜日に調べたら既に満席だったので涙をのんで諦めて、ロングシートの急行でゆるゆると向かいました。

吉野駅 

 吉野駅からは、通常はすぐそばにある吉野山ロープウェイに乗って吉野山に登っていくところなんですが、昨年4月に事故を起こして運休して以来、無期限で運休状態でした。1年半も経ってなお運行再開できていなかったとは。修理費の資金調達が難航しているんだそうです。代わりに臨時バスが出ていますが、情緒に欠けますね。

吉野ロープウェイ 

 臨時バスに乗って着いたのは中千本公園。吉野山では特に桜が多く集まる場所を「一目千本」と呼んでいて、山下から下千本・中千本・上千本・奥千本と呼んでいます。ロープウェイだと金峯山寺の黒門までなんで、だいぶ奥まで入ってしまいました。吉野山には寺社がたくさんあるんですが、今回は小旅行なので吉野山でまず筆頭に挙げられる金峯山寺(きんぷせんじ)を目指します。

中千本公園 

 歩く道すがら、向かいの尾根を見ると寺の姿が。どうやらこれは如意輪寺の伽藍のようです。直線距離はたいしたことなさそうなんですが、なにしろ谷を挟んでいるので歩いて行くにはちょっと遠いような。

如意輪寺 

 通常金峯山寺に行くには、山の麓から登って黒門、銅(かね)の鳥居を通って三門をくぐっていくのですが、今回はバスで違うからぐるっと回り込んでしまっているので全部見ることなく金峯山寺に。途中東南院というところから山伏の集団が出てきて、並んで金峯山寺に向かう形に。

東南院 

 霊地霊山では、中心になる伽藍を建て、そこから東南の方角に当たる場所に寺を建てて、一山の安泰と興隆を祈願する習わしがあったそうで、吉野山では中心となる金峯山寺の東南に位置するのが東南院です。

金峯山寺蔵王堂 

 一行と共に到着したの金峯山寺は、修験道金峰山修験本宗の本山で、本尊は蔵王権現。開基(創立者)は役小角と伝えられています。古代から山岳信仰の聖地で、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきました。日本では古くから山を聖なる場所とする山岳信仰があり、それがが神道、仏教、道教などと習合し、日本独自の宗教として発達をとげたのが修験道で、その開祖とされているのが役小角です。実在の人物だったことは確かなようですが、その超人的活躍ぶりは伝説の域です。

法螺貝を吹く山伏 

 金峯山寺は役行者が創立した修験道の根本寺院とされていますが、役小角自体が半ば伝説化されているため、創建の正確な事情、時期などはよくわかりません。本尊の蔵王権現は、長谷寺の記事でも触れましたがインドに起源を持たない日本独自の仏で、修験道の本尊でもあります。

蔵王堂と山伏 

 金峯山寺の本尊は3体の蔵王権現で、修験道の伝承では役小角が金峯山での修行の際に感得した(祈りによって出現させた)ものとされています。蔵王権現が安置されているのが本堂である蔵王堂。幾度も焼失と再建を繰り返し、現在の蔵王堂は豊臣家の寄進で再興されたもので、天正19(1592)年の建立です。堂々の国宝。高さ34メートル、奥行、幅ともに36メートルで、木造の古建築としては東大寺大仏殿に次ぐ規模をもつといわれます。

蔵王堂の本尊
 
 本尊の3体の蔵王権現立像は秘仏ですが、春と秋に特別開帳が行われ、今秋は11月3日~30日。ということで、狙っていた訳ではないのですが何かのご縁でご開帳に遭遇したので、これは一目見なければと。拝観料1000円はちょっと高いなと思いましたが、家内安全諸願成就の御札と、靴を入れるためのエコバックが付いてきます。

ご開帳記念の御札 

 蔵王権現は釈迦如来(過去世)、千手観音(現在世)、弥勒菩薩(未来世)が合体した、Fateシリーズで言うところのハイサーヴァントのような仏ですが、蔵王堂の本尊は3体あって、左から弥勒菩薩、釈迦如来、千手観音菩薩の権化とされています。激しい忿怒相で、怒髪天を衝き、右手と右脚を高く上げ、左手は腰に当てるその姿は、菩薩や如来よりは明王に似ています。

神変大菩薩 

 蔵王堂には役小角の像もあります。1799(寛政11)年に神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号が贈られました。伝説によれば前鬼と後鬼を従え、鬼や神を使役するほどの法力を持っていたそうです。一言主の働きが悪いと折檻したことで恨みを買って、一言主が天皇に役小角が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者伊豆大島へと流刑になったとか。流刑先の伊豆大島からは、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われており、また日本から中国へ留学した道昭(三蔵法師・玄奘に師事)が、新羅の山中で五百の虎を相手に法華経の講義を行っていると、聴衆の中に役行者がいて、道昭に質問したとも言われています。

役小角奈 
不動明王と役小角 

 役小角奈という萌えキャラが作られていますが、これは奈良県町興し応援ガールズ「NARA Owners Association Ark(N.O.A.A.)」の一員で、役小角の誕生寺とされる吉祥草寺が公認しているそうです。昨年正式に入魂の儀が行われ、信仰対象として祀られることになりました。信仰対象を萌えキャラ化したり、萌えキャラ用の小規模な神社を作ったりする例はあったものの、萌えキャラという出自から本格的な信仰対象となるのは世界初の試みとされています。  

威徳天満宮 

 境内には威徳天満宮がありました。天満宮といえば菅原道真を祀った神社ですが、なぜに吉野山にあるのかというと、如意輪寺の開基である日蔵が急に仮死した際に、冥土をさまよっている醍醐天皇に逢い、菅原道真を太宰府へ流刑した罪によって死後の苦しみに遭っているので、道真の霊を祀って欲しいと頼まれて息を吹き返したのだそうです。それで日蔵が威徳天満宮として祀ったのだとか。豊臣秀頼の改修によるものとされ、桃山時代の様式をよく伝えている社殿です。

南朝妙法殿 

 こちらは南朝妙放殿。八角形の三重塔ですね。昭和の建築なのですが、均整のとれた美しさと周囲の風景に溶け込んで醸し出す雰囲気が目を引きます。この地は南北朝時代に南朝の後醍醐天皇の行宮となっていた実城寺があった場所なのだそうです。いわゆる「吉野行宮」ですね。場所柄吉野は南朝と縁が深いようです。吉野に行宮が置かれたのは20年弱程度だったそうですが。

脳天大神 

 南朝妙法殿から遙かに階段を下った先には“首から上の守り神”だという脳天大神龍王院があるのですが、上り下りを考えると気が遠くなりそうだったので訪問はパスしました。脳溢血とか脳梗塞防止にはいかにも御利益がありそうでしたが…

修理中の仁王門 

 本来入り口ですが、出口になってしまった仁王門。国宝ですが現在修復中。一応門をくぐることは可能で仁王を見ることもできます。修復費用の喜捨を絶賛受付中だそうです。

銅鳥居 

 吉野駅への帰路に訪れた「銅(かね)の鳥居」。その名のとおり銅製です。創立年代は不詳であるが、奈良の大仏を鋳造した際に余った銅を使って建立されたという言い伝えがあるそうです。14世紀中頃の南北朝騒乱の際に兵火で焼け落ち、15世紀中頃に復興したものと考えられています。

金峯山寺黒門 

 ロープウェイの吉野山駅近くにある黒門。金峯山寺の総門ですが現存する門は1985年の再興です。昔は公家大名といえどもここで槍を伏せ、馬をおりて歩いたといわれています。

一目千本桜 

 春は桜なら秋は紅葉ということで、桜の名所ならさぞや紅葉も…と思ったのですが、別にそういうことはなかったぜ!花札には桜に赤短冊に「みよしの」の札がありますが、これは吉野の美称だそうで、漢字にすると「美吉野」になるんでしょうか。

カレーと餃子のみよしの 

 吉野の桜が美しいことは花札認定なんですね。個人的には「みよしの」というと北海道のカレーと餃子のB級グルメの店を思い出すんですが。一応多少は紅葉があったので載せておきます。

金峯山寺の紅葉 金峯山寺の紅葉その2
  
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