こんばんは。雷雨が降ってきたり寒くなったり天気が忙しい日でした。現在引っ越しに向けて絶賛準備中なのですが、NTTから悲報が。

なんと札幌でのインターネット&光電話の設置工事は5月1日になると。あんまりにも遅いのでびっくりですが、如何ともし難いです。こんなことならさっさとNTTに連絡すれば良かったのですが、新居がなかなか決まらなかったもので。マンションタイプだと料金が安くなるのが救いですが。来週は引っ越しのほか、何かと忙しいので、6日が事実上筑波嶺での最後の更新になるかと思います。可能なら8日にも更新しますが、9日にはPCを引っ越し業者に引き渡します。

そういえば引っ越し先を行っていませんでしたが、北の大地・北海道は札幌市です。遊びでは何度か訪れていますが、仕事をするのは初めてです。知り合いの道産子達は住みやすいと言うのですが、どんなものでしょうか。

さて一週間空いてしまいましたが中国美女列伝行ってみましょう。本日が40回目にして最終回になります。中国の美女もまだまだ沢山いるのですが、私の能力で紹介できるのはこのあたりまでということで。最後の美女は潘金蓮です。

潘金蓮は中国四大奇書である「水滸伝」と「金瓶梅」に登場する架空の女性です。それなら「水滸伝」シリーズをやっていた頃に紹介しろと思うでしょう?私もそうしようと思ったのですが、画像検索したらまあ生身のエロい女性ばかりがやたらヒットして、なかなか美人画が出てこなかったので保留していたのです。今回ようやく少しは画像を入手しましたが、それでも「リアル潘金蓮」が沢山入ってきてしまいました。なるべくエロいのは排除しましたのでご了承下さい。

ちなみに四大奇書には他に「三国志演義」と「西遊記」があります。中国で元代から明代にかけ、俗語体で書かれた長編小説で、「奇書」とは「世に稀なほど卓越した書物」という意味です。もっとも本場中国では清代になってから「金瓶梅」の代わりに「紅楼夢」を加えたものを「四大名著」と呼ぶようになっており、「四大奇書」よりこちらの方が一般的なんだとか。

「金蓮」とは、当時の美人の基準の一つであった纏足を形容する語です。日本はかつて先進文明国である中国から様々な文化制度を導入しましたが、宦官と纏足は導入しませんでした。宦官については、異民族との幅の広い接触、征服という事実がなく、地形的な理由により騎兵というものもあまり発達せず、馬に去勢を行うという習慣も明治時代までなかったことからもわかるとおり、奴隷や異民族を去勢して使うという発想がそもそもなかったと思われます。

中国での宦官の存在理由の一つに、「後宮の純潔を守るため」「内廷の運用のため」「刑罰として宮刑があったため」などが挙げられますが、日本に於いては中国とは後宮の概念が異なり、男子禁制ではなく、「貞淑」という概念が希薄でした(「源氏物語」を見よ)。また内廷の運営も規模が違うせいか、女官による運営で足りており、わざわざ宦官を使う必要がありませんでした(江戸時代の将軍の大奥もしかりですね)。また、刑罰としての宮刑は隋の時代に廃止されているので、唐の刑罰制度を輸入しても宮刑=宦官は導入されませんでした。

纏足については、起源が五代十国時代の南唐期だとの説が有力で、宋代普及したとされますが、すでにその頃には遣唐使も廃止されており、以後の交流は貿易が主体だったため、纏足という習慣が伝われなかったものと思われます。もっとも存在を知っていても導入されたかといえば首をかしげてしまうところですが。

話がそれましたが、潘金連は「水滸伝」において、蒸し饅頭売りの武大の妻として登場します。武大は後に梁山泊で序列14位となる天傷星の行者・武松の兄にあたります。絶世の美女でありながら、性欲・物欲・向上心が強く、夫の武大を殺して情夫との淫蕩にふける典型的な悪女・淫婦として描かれました。

「水滸伝」では、武松が主人公を務める第23回から32回までを通称「武十回」と呼びますが、「金瓶梅」はこの間をさらに詳しく描いたスピンアウト作品ということになります。「金瓶梅」での潘金蓮は副主人公として描かれ、彼女の名の頭文字が作品の題名の一文字目として使われています。なお「金瓶梅」のタイトルは、潘金蓮の「金」、李瓶児の「瓶」の、龐春梅の「梅」を組み合わせたもので、それぞれ、「金」「酒」「色事」を指すのだとか。

「水滸伝」においては、元々は商家の女中で、美形だったので商家の主人が手を出そうとしたのをはねつけ、夫人に告げ口しました。そのため主人の恨みを買い、最も醜男であると評判の武大に無理矢理嫁がされました。

そこへ虎退治で名を上げた、武大の弟の武松が現れ、居候となります。武大とは大違いの筋骨隆々たる美男である武松に惚れた潘金蓮は様々に色目を使いますが、兄思いで身持ちの堅い武松からは相手にされませんでした。

そんな時、薬屋で大金持ちの色男・西門慶が家の前を通りかかり、金蓮と互いに一目惚れとなります。二人は逢瀬を重ねますが、遂には夫の武大にも気づかれてしまいます。武大は浮気の現場に踏み込みましたが、武松と違って腕力のほうはからきしだったので、西門慶の逆襲で大怪我をしてしまいます。武大が邪魔になった二人は、武松が公務で留守なのを良いことに、治療薬と称して毒薬を飲ませて武大を殺害してしまいます。こうして障害の消えた二人は、誰憚ることなく不倫を重ねていきます。

そこへ帰ってきた武松は、兄の死に大いに驚きますが、葬儀役人から、毒殺の疑いある武大の遺骨を渡され、金蓮と西門慶の二人が兄を殺したと確信します。武松は金蓮と西門慶を殺し、兄の仇を討ちます。

「金瓶梅」では、武大の殺害に至るまでの流れは同じですが、西門慶の第五夫人として嫁ぐことになります。やがて武松が帰ってきますが、「水滸伝」とは異なり金蓮と西門慶は殺されず、武松はおたずね者となってしまいます。

金蓮は侍女の龐春梅と共に西門慶の邸内でトラブルメーカーとなり、他の夫人といがみ合いますが、やがて金蓮と同様、人妻であった李瓶児が西門慶と不倫関係に陥り、夫を死に至らしめたことを知ると、彼女と擬似的協力関係となります。

その後も様々な紛争を邸内で起こす金蓮ですが、協力関係にあった李瓶児が西門慶の子を生むと、嫉妬に駆られた金蓮は瓶児・官哥母子をいびり倒し、共に死に至らしめてしまいます。さらに西門慶に媚薬を過剰摂取させたことで、結局彼をも死に至らせてしまいます。

西門慶の死後は、春梅と共に以前から不倫関係にあった西門慶の娘婿の陳経済と乱行にふける金蓮ですが、乱行が正夫人の呉月娘の知るところととなり、激怒した呉月娘から追放され、売りにだされてしまいます。やがて買い手として登場するのが武松です。「やはり武松と結ばれる運命にあった」と喜んで嫁ごうとする金蓮であったが、もちろん武松は復讐するために接近したのであり、婚礼の日に殺害されることになります。

ちなみに侍女の龐春梅にも西門慶のお手がついていますが、金蓮とともに追放された後、名家に嫁いで一度は他の女たちを見返します。しかし西門慶の娘婿の陳経済との再会で、転落が始まります。陳経済が殺された後、夫も戦死し、春梅の生活は次第に自堕落なものになっていき、最後には使用人と関係している最中に急死してしまうのでした。

なお架空の人物のはずの潘金蓮には古くから実在説があるそうです。

① 宋の西門慶の妾の一人である。「水滸伝」に描かれている悪業は嘘で、西門慶の正室・呉氏の一族が潘金蓮の子孫をあてこするために作ったものであるという説。

② 潘金蓮は元末明初に実在した人物であり、清河県の長官武大の妻であった。「水滸伝」での悪業とは反対に、善人であったが、明末の群雄張士誠の部下に潘なにがしという武将が2人おり、潘が寝返ったために張士誠は朱元璋に敗れた。張士誠の参謀だった施耐庵(「水滸伝」の作者)が、それを恨んで同姓の潘金蓮を悪者に仕立て上げたのであるという説。

いずれも伝説の域を出ませんが、どちらの説でも潘金蓮は本当は悪人ではなかったというのが面白いですね。

「金瓶梅」の潘金蓮は毒婦としてのキャラクターが一層ふくらませられており、色欲をほしいままにする天性の悪女として描かれています。「金瓶梅」では、先行する「水滸伝」の世界で省かれていた女性、愛欲、金銭、仔細な日常描写といった要素が全面的に展開されています。

その描写は非常に詳しく、食べ物、飲み物について具体的に列挙されていたり、人物の容姿、着ているものやアクセサリー、その柄やデザイン、色の合わせ方、化粧の様子なども詳細に描写されていたり、会話や金銭の受け渡しなど人々の振る舞いが活写されていますが、あまりに詳しく書いてあるので、読んでいてうっとうしく思われるほどだそうです。

「金瓶梅」は当初は禁書とされましたが、赤裸々な性描写や痛烈な社会批判の内容ゆえに広く読まれました。「金瓶梅」は、中国文学史上、それまでの「水滸伝」や「三国志演義」などの波乱万丈のストーリーを特徴とする小説からの転換点にあたるものであり、その後の「儒林外史」や「紅楼夢」などの小説に大きな影響を与えました。

現在では、作品に貫徹する批判精神に富んだリアリズムを以って「中国近代文学のさきがけ」と高く評価されています。また、当時の口語資料・社会資料としても興味深いものとなっています。すなわち、潘金蓮という稀代の淫婦によって、中国文学における小説の世界は、全く新しい時代に入ったといえます。

ということで、中国美女列伝はひとまずお終いです。長らくお付き合いいただきましてありがとうございました。全く伸びない「海外」カテゴリーを何とかしようという不純な動機から始めたものでしたが、ご愛顧いただけたことは幸いでした。中国絵師には今後も頑張って貰いたいものです。
春分の日にこんにちは。祝日なので本日は早い更新。この後旧友達が送別会をやってくれるので。

金曜恒例中国美女列伝ですが、いよいよラス前。39回目の今日は前回の恐怖の皇后・呂雉によって「人豚」にされたという可哀想な戚(せき)夫人を取り上げます。

戚夫人(? - 紀元前194年?)は、秦末から前漢初期の女性です。漢の高祖・劉邦の側室で、劉邦の第3子・劉如意の生母です。一説によると名は懿だそうで、これが正しいとすると本名は戚懿ということになります。

戚夫人は袖が大変長く軽い素材でできた華美な衣裳を身に纏い、上体を後ろに大きく反らす楚舞を得意としたそうで、中華版イナバウアーとでも言いたいところですが。イナバウアーといえば荒川静香というほど彼女の得意技ですが、本来は足を前後に開き、つま先を180度開いて真横に滑る技のことであって、上体を大きく反らしながら滑る技を指すわけではありません。

余談ですがあれはイナバウアーのバリエーションでレイバック・イナバウアーとでも言うべき技でしょう。あれ自体はフィギュアスケートで要求される技術要素ではないので得点は稼げないそうですが、見栄えはしましたよね。

戚夫人は紀元前208年頃に劉邦に見初められたようです。劉邦がまだ沛公時代に項梁に従軍して定陶で戚夫人と出会い、自分の側室にしたといいます。戚夫人は農民の出で身分は低かったそうですが、劉邦の寵愛を一身に受けることとなり、またその子の如意は庶子ながら劉邦に似て活発な性格の少年であったそうです。

戚夫人は、劉邦が親征を行うたびにこれに従い、陣中で彼と碁を打っていたとも言われます。また如意を皇太子に立てるようにたびたび劉邦に懇望したとか。

そのため如意は有力な皇太子候補となり、呂雉の子であり異母兄の劉盈(後の恵帝)とその地位を争うこととなります。寵愛する戚夫人の懇望に加えて、皇太子に立てていた劉盈に対しては、父である劉邦自身がその資質をかねてから疑問視していたこともあって、劉邦も徐々に盈を廃嫡して如意を立てることを考え始めます。毎晩のように閨で現役時代の野村克也もかくやという「ささやき攻撃」を受けていたら、劉邦ならずともそうもなることでしょう。

そこで劉邦、皇太子の交代を重臣たちに諮りますが、重臣たちはこぞって反対しました。さらに呂雉が手を回し、劉邦の信任が厚い張良の助言を受けた盈が、かつて高祖が招聘に失敗した有名な学者たちを自らの元に招いたことが決定打となり、劉邦は盈を皇太子に留めることを決断します。そこで如意は趙王のままとされました。

このとき、自分の意思が通らないことに無念を感じた劉邦が作り、我身の切なさに悲哀を感じた戚夫人が歌ったとされるのが「鴻鵠歌」です。
鴻鵠高飛 一舉千里
羽翮已就 横絶四海
横絶四海 當可奈何
雖有矰繳 尚安所施
おおとりが飛んだ 千里も翔んだ
翼をはやし 四海を渡る
四海を渡る もう止められない
ここに矰(短弓)があるけれど 安全なところにいてもう届くこともない

このことにより、戚夫人母子は盈の生母である呂雉に激しく憎まれることとなりました。呂雉からすれば自分は正夫人であり、息子の盈は長子であり皇太子は「鉄板」だと思っていたのに、危機一髪のところまで追い込まれたのですからその憎しみたるやいかばかりか。それに劉邦の寵愛を奪われたというNTR的感情もあったことでしょうし。

紀元前195年に劉邦が死去して盈(恵帝)が即位すると、皇太后となった呂雉による恐ろしい報復劇が開始されます。もはや彼我の戦力差は歴然。まさに「ずっと俺のターン!!」状態です。

呂雉はまず、戚夫人を捕らえて永巷(えいこう:罪を犯した女官を入れる牢獄)に監禁し、一日中豆を搗かせる刑罰を与えました。戚夫人が自らの境遇を嘆き悲しみ、詠んだ歌が「永巷歌」として「漢書」に収められています。
子為王 母為虏
终日舂薄暮 常与死為伍
相离三千里 当使谁告汝
子は王となったのに その母は虜となる
終日薄暗い場所で臼を搗き 常に死と隣り合わせとなっている
王である子と離ること遙か三千里 誰にこの窮状を伝えさせることができようか

これを聞いた呂雉は怒り、趙王の如意を長安に呼び戻すことを命じ、暗殺を企みました。しかし劉邦は自分の死後に如意が暗殺されることを予期していて、趙の宰相に有能な人物を付けていたこともあり、企みは阻まれ続けました。最後には遂に如意を長安に呼ぶことに成功したのですが、兄である盈(恵帝)が食事や就寝などを常に一緒に行動したりしたことで暗殺は食い止められていました。このことからも恵帝は優しい人物だったことがわかります。一体誰に似たんでしょうか。本当に呂雉の子?

しかーし、恵帝が狩りに出かけて目を離した一瞬の隙を衝き、ついに如意は毒殺されてしまうのでした。呂雉の執念たるや恐るべし。後でそれを知った恵帝は嗚咽してひどく悲しんだそうです。

さらに、如意が死亡した事を知らされた戚夫人は呂雉によって茶色で輝かしい眼を刀でえぐり取られ、鼓膜を焼き潰され、毒を飲まされ唖にされます。更に細くしなやかだった両手足を切断され、すぐには死なないように傷口を縛られたといいます。

その後、当時豚を飼育していた厠に投げこまれ、糞尿に塗れることがわかるよう鼻だけは削がれることなく放置されました。呂雉は恵帝を厠へ案内し、変わり果てた戚夫人を見せ「あれは人豚というものです」と言って哄笑したそうです。戚夫人はその三日後に死亡したとか。そして恵帝はショックで酒に溺れて早世したということになっています。

しかし実際、麻酔もない時代に両手両足を切断したらそれだけでショック死は確実でしょう。呂雉が残忍さを秘めていたことはまず間違いありませんが、一時的に栄華を誇った呂氏一族は最終的には政争の敗者になっているので、彼らを粛清し、歴史を記す側になった勝者方が、ことさら呂雉の「蛮行」を強調したという可能性が高いのではないでしょうか。

ですがこの逸話は巷間に広く流布し、中国版「トイレの神様」である道教の厠神は戚夫人とされています。伝説が本当だとしたら、戚夫人はトイレで非業の死を遂げたわけですから、怨霊になるならともかく、とても神様にはならない気がしますが……もしや中国版「トイレの花子さん」?


こんばんは。今日はもう雨は降らないという予報だったのに朝小雨が降っていたので仕方なく傘を持って出かけたら、帰りは大雨でした。助かったけど、天気予報的には完全はずれだったような。今日はホワイトデーですが、「非リア充は、誰も愛を見ない」ので完全スルーで行くとしましょう。


リアル明里パパから最新のリアル明里ちゃん画像が届いたのでご紹介します。冒頭は笑顔でハイハイしてくる明里ちゃん。元気そうでなによりです。二枚目はリアル明里パパのPCを覗き込むリアル明里ちゃん。パパは横顔だったのですが、念のためマミっておきました。愛娘の教育のため、18禁ゲームは止めましょう。

先週は都合によりお休みしましたが、中国美女列伝のお時間がやって参りました。前回漢の高祖・劉邦の側室で文帝の母である薄姫と、文帝の皇后である竇皇后を取り上げましたが、本日は劉邦の正妻である呂雉を紹介しましょう。最近賢夫人を取り上げていたのでその落差にマイッチングですが。

中国三大悪女は、呂雉のほか、武則天、西太后、妲己の4人のうち3人を指すことが多いようです。妲己はあまりにも過去の人なので、褒姒や妹喜などと並べるのが相応しい気がするので、ここでは呂雉と武則天と西太后で中国三大悪女としておきましょう。毛沢東夫人の江青を加えると中国四大悪女だとか。

ちなみにスクウェア三大悪女といえばヨヨ(バハムート・ラグーン)、アリシア(ライブ・ア・ライブ)、ミレイユ(魔界塔士Sa・Ga)ないしリノア(FF8)で、ガンダム三大悪女といえばカテジナ・ルース(機動戦士Vガンダム)、ニナ・パープルトン(機動戦士ガンダム0083)、クェス・パラヤ(逆襲のシャア)だそうです。ただしヨヨとカテジナ以外ば別の候補が入ることもあるとか。

まあ「サラマンダーより、ずっとはやい!!」の台詞でおなじみのヨヨは、世の少年達にNTRの恐怖を教えてくれた女性ですし、「カテジナさん、おかしいよ!おかしいですよ!」の台詞そのままに本当におかしくなられていた“狂姫”カテジナの狂いっぷりは、冬が来ると訳も無く悲しくなるほどですよ。リアル明里ちゃんはこうなってはいけないよ。

閑話休題、呂雉(前241-前180年)は劉邦の皇后にして二代皇帝恵帝の母です。劉邦の死後、皇太后・太皇太后となり、呂后、呂太后、呂妃とも呼ばれました。単父(現山東省単県)の有力者・呂公の娘として生まれ、当時沛県の亭長(宿場役人)だった劉邦のはったりに呂公が感心し、妻の反対を押し切って呂雉を嫁がせました。

二人の間には一男一女(恵帝と魯元公主)が生まれました。結婚当初は婚家の農業を助け、懸命に子供たちを育てていたようです。人相を見る老人が呂雉に対し「天下を取られる貴婦人の相がある」と言ったとか、秦の始皇帝が「東南のほうに天子の気がある」と言って巡幸してきた際に、劉邦は身の危険を感じで山奥へ逃げるも、呂雉はすぐに居場所を探し当て「あなたのいる所には雲気が立ちこめているので分かるのです」と言ったという伝説がありますいう。こうした話が噂となって、劉邦に仕える者が多かったというので、故意に作り上げた話なのかも知れませんね。

秦末動乱期及び楚漢戦争勃発直後は、沛県で舅の劉太公や子供達とともに夫の留守を守っていたようですが、楚漢戦争が激化し、彭城の戦いで劉邦が項羽に敗れると、呂雉は舅・太公とともに楚陣営の人質になってしまいます。子供達(恵帝と魯元公主)は劉邦と合流して関中に逃れることに成功しますが、その際に劉邦は荷を軽くしようとして馬車から我が子を何度も投げ捨てたと言われています。その度に御者の夏侯嬰が拾い上げたとか。

その後、韓信等による楚陣営の切り崩しが成功し、形勢逆転により窮地に陥った項羽は劉邦と講和し、呂雉は太公と共に劉邦の元に帰ることを許されました。

劉邦が項羽を滅ぼして皇帝となると、呂雉は皇后に立てられました。しかし政情は劉邦自ら反乱の討伐に出向かねばならぬほど不安定であり、また宮中では劉邦の後継者を巡り暗闘が始まっていました。こうした状況下で、呂雉は皇后として夫の留守を預かり、実家の呂氏一族や張良ら重臣の助けを借りて、皇太子となった恵帝の地位安定に尽力しました。

劉邦の死後、恵帝が即位すると、呂后は皇太后となって後見にあたるようになりました。呂雉の地位は不動のものとなりましたが、劉邦の後継者を巡る争いによって生まれた恨みは根深く、恵帝即位後間もなく呂后は、恵帝のライバルだった趙王とその生母で両方の愛妾だった戚夫人を殺害します。

この時、呂雉は戚夫人をまず奴隷とし、趙王殺害後は、戚夫人の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、その後便所に置いて人彘(人豚)と呼ばせた、と史書には記載されています。古代中国の便所は、広く穴を掘った上に張り出して作り、穴の中では豚を飼育し、上から落ちてくる糞尿の始末をさせていたそうで、ある意味高度循環型社会となっていました。このエピソードの真偽はともかく、呂雉の残忍さ示すにはかっこうの話ではあります。

しかも呂雉、人豚とした戚夫人をわざわざ息子の恵帝に見せたのだそうです。キュゥべえじゃないけどわけがわからないよ。これに強いショックを受けた恵帝は政務を放棄し、酒に溺れて間もなく死去してしまいます。憎いライバルを抹殺するのはまあ判るとして、自分の息子の寿命まで縮めてどないすんねん!

その後呂雉は恵帝の遺児・少帝恭を立て、呂氏一族や陳平、周勃ら建国の元勲たちの協力を得て、政治の安定を図りますが、その一方でこの頃から、各地に諸侯王として封じられていた劉邦の皇子達を次々と暗殺し、その後釜に自分の甥など呂氏一族を配して外戚政治をあからさまに行うようになっていきます。薄姫と文帝母子はこの粛清の嵐の中を「目立たぬように はしゃがぬように」と河島英五の「時代おくれ」のように生き延びたわけです。

さらに呂雉、実の孫だというのに自分に反抗的だということで少帝恭を殺害し、もう一人の孫である少帝弘を立てます。さすがにこれは劉邦恩顧の元勲達から反発を買ってしまいます。しかし元老達も次は自分が暗殺されるのではと怖れたため、サボタージュして政治を見ないという消極的は反抗を行います。

呂雉もこの状況には気が付いていたようで、死の間際には甥の呂産らに元勲たちの動向に気をつけるよう言い聞かせ、更に呂氏一族を中央の兵権を握る重職などに就け、万全を期した後に死去しました。しかし呂雉のことは非常に怖れた元勲達ですが、呂氏一族は能なし揃いだったらしく、呂雉の死後間もなく、陳平や周勃らの元勲はクーデターを起こし、呂氏一族を皆殺しにした上で、文帝を皇帝に擁立します。

呂雉の時代は、皇族や元勲が相次いで殺害されるなど、血腥い事件の続いた時代であり、栄華を誇った呂氏一族も呂雉の死後は誅殺されることになります。呂雉の治世に関して司馬遷は「天下は安定していて、刑罰を用いる事は稀で罪人も少なく、民は農事に励み、衣食は豊かになった」と一定の評価をしています。ただしこれは性格が穏和だった恵帝への評価も含まれているようです。

また、呂雉の関心が宮中内部に留まっており、対外遠征や大規模な土木工事などには興味がなく、民衆に重税を課したり、過酷な労働を強制することがなかったということでもあろうかと思われます。宮中では血なまぐさい権力闘争の嵐が吹き荒れていた反面、それ故に天下は平穏で穏やかであったと。

一方司馬遷は呂雉自身については「性格は残忍で猜疑心が強く、息子が亡くなっても悲しまず、天下を私し、功臣や王族を陰謀で陥れて残酷に族滅し、無能卑賤な呂氏を要職に就けた。その悪逆は世に隠れも無い」と厳しく非難しています。また司馬遷は史記の中で、時の支配者として始皇帝・項羽・劉邦らと同じく呂雉についても「呂太后本紀」を立てています。司馬遷認定の支配者だったということでしょう。次回は呂雉に「人豚」にされたという可哀想な戚夫人を取り上げたいと思いますが、最後にリアル呂雉をどうぞ。




こんばんは。二月もいよいよ終わりですね。明日から3月、ついに春到来となります。今日はびっくりするほど暖かかったのですが、明日は一転して真冬の寒さとか。カレンダーと気候がなかなか一致しませんが、風邪などひかないようお互いに気をつけましょう。

今日は朝から電線に止まったムクドリに糞を落とされて参りました。うんがつくと喜ぶべきか、うんの尽きと嘆くべきか、とりあえず夜まで保留しましたが、お金を拾うでもなく財布を落とすでもなく、特に何事もありませんでした。ムクドリめ……殺すほどではないけど、地上で見かけたら追いかけるくらいには怒っているぞ。

本日の中国美女列伝は、名無しさんからコメントでいただきました薄姫と竇皇后を取り上げたいと思います。本来なら一人ずつ取り上げたいのですが、二人を同時に紹介するのは、画像がなかなか見つからなかったせいです。

まず薄姫(?- 紀元前155年)は漢の初代皇帝である劉邦(高祖)の側室です。薄は姓で、古代中国ではよくあることですが名前は伝わっておらず、薄氏とか薄太后と呼ばれます。漢の5代皇帝である文帝の母です。

なぜ劉邦の子が5代皇帝かというと、劉邦の皇后であった呂后が大暴れしたためですが、それについてはまた後日詳しく語ることにしましょう。ということで呂后(呂雉)やそのライバルだった戚夫人についても取り上げるということでさらに回数を稼ぐのでした(笑)。

薄姫の母・魏氏は、戦国七雄の一つである魏の王族の出身でしたが、魏の滅亡後に薄氏と関係を持ち、薄姫を生んだようです。薄姫は成人後、魏豹の側室となります。魏豹はやはり魏王室の一族で、魏は秦に滅ぼされましたが陳勝・呉広の乱に乗じて挙兵し、項羽が秦を滅ぼすと西魏王となりました。側室となった際、薄姫の人相を占った許負は彼女を見て「貴方様は天子様をお生みなさるでしょう。」と言ったと伝えられています。

項羽と劉邦による楚漢戦争の中、魏豹は項羽方に寝返りましたが劉邦に敗れて捕らえられました。その際に薄姫も劉邦の後宮に側室として迎えられることとなりました。薄姫は同僚となった側室の女官達に「誰が寵愛を受ける事になってもお互いを忘れずにいましょう」と言い合っていたそうですが、薄姫自身が劉邦から寵愛されることはなく、専ら機織などの雑用に従事し周囲の笑い者となっていました。

それを知った劉邦は不憫に思い、ある日彼女を自身の寝所に召し入れました。この時に薄姫は妊娠し、紀元前202年に四男となる劉恒(のちの文帝)を産みました。その後も薄姫が劉邦の寵愛を得ることは少なかったようで劉邦の妃嬪としては姓のとおり影が薄い存在でした。劉恒が幼くして代王に封じられると、自身も代王太后として、弟の薄昭、代の宰相として高祖から附けられた傅寛らとともに任国に赴きました。代国は漢の北部の長城付近にあって、辺境の国でした。そのため、劉邦の没後に実権を握った呂后による、劉邦の側室や皇子たちへの迫害にも巻き込れずに済みました。薄姫が劉邦から寵愛されることが少なく、呂后の嫉妬の対象にならなかったということも理由の一つと思われます。

また劉恒自身も慎重な性格で、呂后は粛清した皇子の後釜として、劉恒の移封を検討したことがありますが、代が匈奴に近いため匈奴侵攻の防衛の重要性を理由に挙げ、移封を辞退しました。これ幸いと呂后は甥を後釜にしましたが、そういった謙虚な姿勢を示したことも薄姫と劉恒が生きながらえた大きな理由でしょう。

紀元前180年、呂后の死後に呂氏一族は周勃や陳平といった元老達の手で粛清され、代王劉恒は皇帝に迎えられ、文帝となりました。これに伴い、薄姫も皇太后として長安に迎えられることになります。他にも劉邦の子孫はいましたが、なにしろ呂氏という外戚の専横に人々は皆こりごりだったため、生母である薄姫が没落貴族の末裔で、権力欲が少なく人格者との評判の高い劉恒が擁立されることになりました。また、劉恒は生存する劉邦の遺児の最年長者であったということも即位に説得力を与えたようです。

紀元前176年、周勃に謀反の兆しがあるとの報を受けた文帝は周勃を牢に入れましたが、それを聞いた薄姫は文帝を呼びつけ、頭巾を投げつけて「周勃は呂氏を打倒する際に軍を統率していながら反乱を起こさなかったのに、どうして今になって謀反を起こそうか?」と叱りつけたそうです。また紀元前167年、文帝が匈奴親征を言いだし、群臣が諫めても聞き入れなかった際にも、薄姫が諫めると撤回しています。マザコンか文帝(笑)。文帝は自ら薄太后の毒味役を務めたとも伝えられ、類を見ない親孝行の皇帝であったとされます。

皇太后となって以後も薄姫は、呂后のように権力をみだりに振るうことなく、周囲の尊敬を一身に集めました。弟の薄昭が勅使を殺害した責任を問われて自殺させられたことや、文帝に先立たれたことを除けば平穏無事に過ごしたといえるでしょう。

後漢が成立した後、光武帝は呂后から皇后の位と高皇后の諡号を剥奪し、薄姫に高皇后の諡号を追贈しています。

次に竇(とう)皇后(紀元前205?-紀元前135年)ですが、彼女は、文帝の皇后です。名前は猗房(きぼう)と伝えられています。この人については宮城谷昌光の「花の歳月」に描かれているので、それになぞってご紹介しましょう。

竇家は夏王朝から続く千八百年の歴史のある名家でしたが、当時は零落して貧しい暮らしをしていました。時に呂后が支配する漢の皇室では、全国から名家の子女を宮中に集めて呂后に仕えさせるということにしていました。猗房の住む地方でも宮中に差し出す娘を捜していたところ、まだ幼い弟の世話を見ていた猗房が選ばれることになりました。宮中に入り「竇姫」と呼ばれることになりますが、あるとき呂后は、若い宮女を五人ずつ皇族の王たちに賜ることにしました。

猗房も名簿の中に含まれており、猗房は残してきた幼い弟の広国のことが心配でもあり、故郷に近い趙国に行きたいと思って担当の宦官に「どうか必ず、わたくしを趙国へ行く名簿に入れてください」と頼みました。しかし一宮女の言うことなど、いちいち覚えているはずもなく、宦官は間違えて代国に送る名簿に猗房を入れてしまいましたが、奏上された名簿は呂后の裁可を受けてしまいます。出発の段になって、行き先が間違っていることを知った猗房は、行きたくないと泣き叫びましたが、今さら遅く、泣く泣く代国に赴くことになりました。

猗房は代国で14歳の代王・劉恒と出会います。代王の生母である薄姫は、猗房と同時に宮中に入った娘達となぞなぞ遊びをしますが、そこで猗房が答えた内容は薄姫の期待に添うものでした。そのため劉恒は五人の宮女のうち、竇猗房だけを寵愛します。やはりマザコン…

猗房は女子一人、男子二人を生みます。代王には正妻である王妃がおり、四人の男子を産んでいましたが、代王が皇帝になる前に死去してしまい、その四人の子も、代王が皇帝となったときに、次々と死んでしまいます。このあたり、ちょっと都合が良すぎるなあと思う人は思うところですね。

代王が皇帝となって数か月たつと、大臣たちは皇太子をたてるよう奏上します。そのとき、竇猗房が産んだ男児劉啓がもっとも年長だったので、皇太子となります。後の6代皇帝景帝です。

こうして皇后として女性最高の地位に上り詰めた竇猗房ですが、実家は不幸に襲われていました。猗房に可愛がられていた弟の広国は、猗房は都に発った日に人さらいに掠われていたのでした。しかもその後12年間に12回も転売されていたのでした。広国は他の少年奴隷達と山で炭焼きをしていましたが、寒いので皆で崖下の穴で寝ていたところ、崖が崩れて広国以外は全員死亡してしまいます。その後主人の家族に従って長安に赴くと、竇皇后の噂を聞き、広国はもしや宮中に上った姉の猗房ではないかと考えます。

広国は生まれた県の名と姓を覚えていたので、かつて猗房と一緒に桑の実を採ろうとして樹から落ちた思い出なども書き記して竇皇后に上書しました。竇皇后は文帝の許しを得ると、広国を宮中に召して様々に尋ねると、広国の述べた内容は、みな本当のことでした。竇皇后が「ほかになにか覚えているかえ?」と尋ねると、広国は「姉さんが宮中に召される日に、姉さんは湯浴みの道具を役人から借りて、ぼくの身体を洗ってくれました。食物ももらって、食べさせてくれました。それから、姉さんは旅立ったのです」と答えました。竇皇后は、その話しを聞いたとたん、広国に走り寄り、固く抱きしめ、大声をあげて泣き出しました。

二人とも涙があふれてとまらない。左右に侍していたお付きの人びとも、皆もらい泣きして、床につっ伏していたのであった。-待御左右、皆、地に伏して泣き、皇后の悲哀を助く、と司馬遷は「史記」に書いています。皇后になった姉と奴隷だった弟の数奇な人生の果ての感動的な再会でした。

文帝とその子の景帝の四十年間の治世は「文景の治」(紀元前180-141年)と呼ばれます。秦末から漢初は戦乱に明け暮れ、民は疲弊していました。この間はひたすら民力の休養と農村の活性化に努めさせました。文帝の政策は、父の劉邦や孫の武帝に比べれば、地味で目立った業績はありませんでしたが、民衆にとっては社会が安定して歓迎すべき時代となりました。紀元前154年に諸侯王による「呉楚七国の乱」が発生し、大規模な反乱となりましたが年内に鎮圧されます。「文景の治」の時代は、食料が食べ切れずに倉庫で腐敗したり、長期間の保管により銭差し(銭の間に通す紐)が腐って勘定ができなくなったなどの逸話が残されています。

竇皇后は中年になり重病に罹って失明し、文帝はその後若い貴妃を寵愛したそうですが、子供が生まれなかったため皇太子は劉啓のままで即位して景帝となります。竇皇后は皇太后となり、孫の武帝の即位により太皇太后となりました。竇皇后は幼い頃から老子を愛好していたため、景帝を始め太子や一族の者はみな老子を読み、尊重せざるをえませんでした。それだけならまだ良かったのですが、一族離散という悲劇を味わったためた、竇一族を引き立て、薄姫と違って皇太后となってからは政治にもしばしば口を挟み、それは太皇太后になってからは一層拍車がかかったとも言われます。

竇皇后の死後、自由になった武帝は、文景の治の蓄積を使って宿敵匈奴の外征を開始することになり、前漢の最大版図を築いた武帝の治世は、前漢の全盛期と賞されます。しかし、全盛は退廃への第一歩となり、奸臣の跳梁や財政の悪化など、後半は悪政と批判されています。竇皇后といい武帝といい、最後まで賞賛される人生を全うするのは難しいことですね。

ちょっと奥様聞きまして!?PS4は明日発売ですってよ!2月22日…猫の日に発売っていうのは何か関連があるんでしょうか。アメリカでは昨年11月に先行発売されており、本当にソニーは日本企業なのかと小一時間…(ry。PS3発売が2006年ということで、8年ぶりの新機種な訳ですが、実はPS3も買ってなかったので、もうコンシューマー機はポータブル機しか買わないかも知れません。PS2まであった「互換性」って言葉はどこに行ったんでしょうねえ。

さて金曜日といえば楽しみにして下さる方もいるという中国美女列伝です。このコーナーではルックス最重視で、性格が悪かろうか国を傾けようが、美しければそれでいいとばかりに妖女・淫女も構わず紹介してきておりますが、前回素行も性格も評価が高い陰麗華を紹介しましたので、今回も心技体と三拍子揃った方を紹介ししたいと思います。ん?「心」「体」はともかく「技」って何だろう…。よくわかりませんが、深く考えない方がいいような。本日は長孫皇后です。

長孫皇后(601-636年)は唐の第二代皇帝である太宗・李世民(598-649年)の皇后です。李世民は、貞観の治と言う、唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君の一人と称えられる皇帝ですが、この人に一生敬愛されたのが長孫皇后です。

唐の前の王朝である隋の将軍長孫晟の娘として生まれました。8歳の頃に父が亡くなると、母方の伯父に引き取られ、613年に13歳で李世民の妻となりました。

618年に唐が建国されると、李世民が秦王に封せられたことで秦王妃となりました。李世民は、唐の初代皇帝にして父の李淵の次男で、長男の李建成が皇太子でした。李建成が父の傍にいたのに対し、李世民は武将として大活躍して隋末唐初に割拠していた群雄の平定で大きな功績を挙げました。

李世民は、戦功が報われていないことに不満を持つようになり、李建成との関係が不穏になっていきました。李建成は李世民の追い落としを図りましたが、いち早くそれを察知した李世民は先手を打って、626年に宮廷で李建成を殺害する事件を起こしました(玄武門の変)。

これにより李淵は李世民を皇太子とし、2か月後には皇帝を譲位し、李世民が即位します。こうしてあれよあれよという間に長孫皇太子妃から長孫皇后になったのでした。

長孫皇后は傾国の美女というほどの美貌ではなかったそうですが、人徳と才智を兼ね備えた皇后でした。太宗は重大な国事の決定など治世について皇后の意見をよく参考にしたそうです。太宗が治国のことについて皇后に尋ねると、「雌鶏が夜明けを告げると、家は窮乏します」と言って答えようとしませんでしたが、太宗がこれは乾政(女性が政治に口出しすること)には当たらないからと何度も説明すると、皇后はやっと自分の考えを言い出したそうです。

太宗の治世「貞観の治」は、中国史上でも最も良い政治とされますが、これを支えた長孫皇后の功績は高く評価されています。長孫皇后は、婦人の本分を厳しく守りながら太宗を支えたとされます。

長孫皇后の生活は質素で、華美な衣服は身に着けなかったといいます。臨終に際しても副葬品は金銀宝石の代わりに木と瓦にすると遺言しました。貴い身分でありながら富貴にこだわらない皇后の品行は、千古に一人のものであるに違いないと称えられました。陰麗華もそうですが、皇后なのに質素という点が中国では高く評価されるようですね。

長孫皇后は度量が広く、太宗の子を産んだ妃嬪が難産で亡くなると、その子を自分が腹を痛めた子のように育て、また別の妃嬪が病気になった時には、自分の薬を与えたそうです。嫉妬を見せない皇后の仁徳には皆が感服したそうです。皇后以下貴妃が暮らす後宮というところは、皇帝の寵愛を競い合う場所ですが、長孫皇后が治めていた時代の後宮は「風平浪静」と評されるほど平穏無事であったため、太宗は国事に専念することができたと言われています。

太宗には魏徴(ぎちょう)という臣下がいてしばしば諌言を行っていました。ある日、魏徴の諌言に憤慨した太宗は、長孫皇后のもとに来て「いつか魏徴を殺してやる」と言いました。すると皇后は部屋に入り、礼服に着替えて、ひざまずいて太宗を祝いました。

驚いた太宗が理由を尋ねると、「賢明な君主があってはじめて、忠実な臣下がおります。魏徴が死を覚悟して陛下に直諫するというのは、陛下に忠実な証拠です。彼がこのように大胆であることは、陛下が賢明な君主であることを意味しているのではないでしょうか。我が国にとってもこれほど幸運なことがあるでしょうか。祝賀しなくてはならないものです」と述べました。これを聞いた太宗は怒りをおさめました。

「貞観の治」は後世で理想の政治が行われた時代と評価され、「家々は(泥棒がいなくなったため)戸締りをしなくなり、旅人は(旅行先で支給してもらえるため)旅に食料を持たなくなった」と書かれています。

長孫皇后は634年に病の床に就くことに成り、636年に36歳の若さで世を去ることになりました。悲しみに暮れる太宗は、再び新たな皇后を迎えることはなく、皇后が葬られた昭陵を常に眺めることができる塔の建造を命じ、その塔に登っては昭陵を眺めては涙を流したそうです。

長孫皇后は優雅で知恵があり、人徳と寛容を兼ね備えた女性と称えられ、史上最良の皇后の一人とされます。皇后という位人臣を極めた身分の女性にとっては、人徳と寛容こそが真の美しさなのかも知れません。

長孫皇后亡き後の太宗の晩年は、長孫皇后の3人の息子達の間で立太子問題が発生しました。その結果、最も凡庸な末子の李治(後の高宗)が皇太子となりましたが、この立太子問題が後の武則天の台頭の要因となることとなりました。もし長孫皇后が健在であったなら、歴史はまた違ったものになったかも知れません。

次回も名皇后シリーズを続けたいと思います。


雪のバレンタインデー、いかがお過ごしでしょうか。クリスマスに雪が降ればホワイト・クリスマスなんて言って喜びますが、ホワイト・バレンタインデーなんて言葉はないですね。

雪のバレンタインデーにはホワイトチョコを贈ったらどうかなんて思いますが、大半は前の日までに買うか作るかしているので間に合わないことでしょう。

金曜恒例中国美女列伝も大詰めに近づいてきました。もうすぐネタ切れですが、もし「あの美女を紹介しろ」「かの美人を忘れてやしないか?」といったご意見があったらぜひご教示下さいますと大変ありがたいです。35回目の今日は後漢初代皇帝光武帝の后妃で、中国史上でも最も優れた皇后の一人と称えられる光烈皇后・陰麗華です。

光武帝(前6-57年)は劉秀という名で、南陽郡(現在の河南省と湖北省にまたがる)の出身です。王族である劉一族の一人なのですが、金枝玉葉といっても枝葉末節の方の人でした。幼少の頃は非常に慎重且つ物静かな性格だったといい、官につくなら執金吾(都の巡察・警備を司った完食で、官服が華美だったので憧れる者が多かった)、妻を娶らば陰麗華(地元南陽で美人と評判だった豪族の娘)という程度の希望を公言する、平凡な宗族の一人でした。

前漢から帝位を簒奪した王莽が国名を「新」として、現実を無視した政策を強行したため、人心は離れ、各地で反乱が相次ぎました。有名なものは眉を赤く塗った赤眉軍や緑林山を拠点とした緑林軍でしょう。この頃、劉秀も兄の劉縯とともに挙兵し、緑林軍に参加します。以後戦乱の中で自立し、赤眉軍を降して中国統一を達成、後漢王朝を建てました。

劉秀は謹直な人物と見られており、兄の劉縯が挙兵した際に一旦は協力を拒んだ者たちが、劉秀も挙兵することを知って改めてはせ参じたそうです。また光武帝に即位した後に故郷に行幸した際、宴席で宗族の諸母は「若い頃は慎み深くて、人と打ちとけて付き合う事がなかった。ただ生真面目で柔和なだけだった。」と言ったそうです。光武帝はそれを聞いて笑って「我は天下を治めるも、また柔の道にて行わんと思う」と言ったそうです。

一方陰麗華(5-64年)ですが、劉秀と同じ南陽郡出身の豪族陰氏の娘で、若き日の劉秀が「妻を娶らば陰麗華」と言って憧れた程、近隣では評判の美女でした。劉秀の願いは首尾良く叶い、挙兵後の23年に劉秀に嫁ぐことになります。

しかし劉秀は新妻陰麗華を置いて河北へ赴任していきます。陰麗華は事実上の人質として残されるのですが、劉秀は華北で郭聖通という女性を妻にし、さらにだめ押しするかのように劉秀は更始帝に反旗を翻し皇帝に即位し、実質的に陰麗華を見捨ててしまった形になります。郭聖通の一族は有力者で、中華統一を志す当時の劉秀としては政略結婚を行うほかなかったようです。この頃の陰麗華の気持ちや如何に。

25年に劉秀が光武帝として即位すると、陰麗華は貴人として洛陽に迎えられて再会を果たすことができましたが、この時郭聖通が先に男子・劉彊(りゅうきょう)を産んでいました。光武帝としては政略結婚の相手の郭聖通よりも昔から恋い焦がれていた陰麗華を皇后に擁立したかったのですが、陰麗華は「お子を産んだ方が皇后になるのが筋ではありませんか」と言って自ら皇后を辞退しました。この控えめさが彼女の魅力です。

そこで26年に郭聖通の子・劉彊が皇太子になり、郭聖通が皇后(光武皇后)に立てられますが、そうした中、光武帝の寵愛深い陰麗華は28年に劉荘(二代皇帝・明帝)を産みました。

上の画像が郭聖通です。彼女は名門出身ということでプライドが高く、わがままで親の威光をひけらかしてばかりいたため光武帝に疎まれるようになり、後漢も安定してきた西暦41年には、郭聖通を皇后から廃し、その子の劉彊からも皇太子の位を剥奪してしまいました。

陰麗華はその後皇后の地位につき、その子の劉荘も皇太子となります。光武帝の10歳年下の陰麗華はこの時36歳になっていましたが、なお光武帝は陰麗華に首ったけだったようです。

中国の美しい后妃というと、傾国の美女ばかりという印象がありますが、陰麗華は美人皇后としては珍しく、外戚である陰一族を政治に関与させることなく、文字通り陰の存在に徹しさせ続けたほか、自身も質素な生活を続けたそうです。

陰麗華についてはその行動が全て演技であり、計算尽くで周囲をマインドコントロールした魔性の女であるとの穿った見方もあるようですが、それにしては皇后になってからも質素に徹し、政治に介入することもなかったので、陰謀を張り巡らしてまで権力を手に入れる動機を持っていなかったように思われます。

57年に光武帝が亡くなると息子の劉荘が明帝として即位し、陰麗華は皇太后となりますが、陰麗華が明帝の皇后に推挙した馬皇后もまた一族を政治に関与させなかった賢夫人でした。こうして光武帝、明帝、そしてその子の章帝と続く後漢初期三代の時代は外戚勢力が抑制されたいたこともあり、安定した治世で後漢最盛期となりました。

陰麗華は美貌だけでなく聡明で性格も良かったようで、廃された郭聖通とも争った形跡がなく、和気藹々としていたので、臣下に長幼の序列をはっきりさせないのは儒教の礼に反するとお小言を貰ったりしていたほどだそうです。

陰という姓と麗華という名前が非常にコントラストくっきりというか、対照的だなあと思えるのですが、人柄は、仁慈孝行に厚く、思いやり深かったそうで、7歳のとき父を失ってから数十年も経ても、父が話題に上れば涙を流さないことはなかったそうです。

与謝野鉄幹の「人を恋ふる歌」の一節に“妻を娶らば才たけて、見目麗しく情けあり”というのがありますが、まさに陰麗華はこれにぴったり当てはまる理想的な女性だと思います。皇后と言わず、嫁にするならこういう人ですね。皆さん、決して美貌だけで選んではいけませんよ。

己の一族に政治に関与させないようにし、さらに次代の皇后にも同様に外戚勢力を台頭させない女性を推挙したことで、王朝の全盛期を築いた陰麗華。その聡明さから中国史上でも最も優れた皇后の一人とされています。光武帝はそこまで判っていて陰麗華を妻に熱望していたのかどうかは定かではありませんが、専制君主の傍にいながらハッピーエンドで生涯を閉じることのできた非常にチャーミングな女性であったことは間違いないでしょう。最後に女優さんが演じたリアル陰麗華でお別れです。




ちょっと奥様聞きまして?明日は大雪ですってよ!関東では去年の成人式くらいという話でしたが、いつの間にか「20年に一度」というレベルという噂も出ています。

去年の台風もそうでしたが、「猛烈な台風だと聞いていたが、それほどでもなかったぜ!」という感じで案外大したことなかったりして。降った当日よりも翌日の凍結が怖いので、あまり残らないといいですね。

さて金曜恒例中国美女列伝も残すはあと数回。美女はもっと沢山いるのですが、日本では知られていない人も多いし。はっきりした数字をまだ出さないのは、時々「あっあいつもいれよう」とか思い出す人がいるからです(笑)。

本日とりあげますは先週の薛濤に続いて唐代の芸妓にして女流詩人の魚玄機です。森鴎外が「魚玄機」という短編を書いていますので、それに沿って紹介したいと思います。

魚玄機(844-868年、一節に871年)は晩唐の女流詩人です。長安(陝西省西安市)の人で、字は幼微といいました。長安の遊里に生まれ、富豪の李億の妾に迎えられましたが、正妻の嫉妬に苦しんで、咸宜観の女道士になりました。咸宜観の「観」は仏教の寺に該当するもので、道教寺院と呼んでもはずれではないでしょう。

魚玄機は幼少期から非常に聡明で、5才の頃から白居易や元微之の詩を多く暗記していたそうです。13才で七言絶句を作り、15才の時には女流詩人として名を馳せていたそうです。絶世の美貌と才気に恵まれた魚玄機は、16歳の時に妓女となりましたが、金で男達に買われる暮らしを嫌い、出家を志していました。

詩を解する富豪の李億は魚玄機の詩を見て会いに行き、玄機を見て妾にすることを持ちかけました。両親はその金払いの良さに心を動かされ、18才の玄機は囲われ者になりました。

しかし妾にしたのに近づけば逃げ、迫れば号泣するということで李億はなかなか想いを遂げられません。では嫌われているのかといえば必ずもそうではなく、泣くときは李億に身をもたせかけて泣くのです。望みを叶えられずに悶々とする夫の様子に、妻は魚玄機の存在に気付き、実家に訴えたので李億は義父から叱責されて、仕方なく魚玄機を諦めることとしました。

李億は魚玄機に実家に帰るよう言いましたが、魚玄機はそれを拒否して咸宜観に入って女道士となりました。咸宜観で彼女は詩才をますます開花させ、長安の名だたる文士達に絶賛されました。

彼女が性を嫌悪していたため尼寺に入れて出家させたつもりだったのですが、魚玄機は道教を学ぶことによって忽然「女」となり,これまで知らなかった性の歓びを知るようになりました。女道士になって以降も、玄機の長い黒髪や顔の化粧に変化がなかったばかりか、むしろその美貌は益々輝きを増し、詩才にも一段と磨きが出ていたため、その詩名を慕って多くの人々が咸宜観を訪ねてきました。

彼女も学識ある士人が来ると喜んで迎え入れ歓待した。若く美しい魚玄機を男達は放っておきませんでした。風流を好む文士達は争って、魚玄機との交際を求め、魚玄機は降るような賞賛を受け、その行いは奔放なものになっていきました。

魚玄機には緑翹(りょくぎょう)という18才の女弟子がいました。緑翹は美人ではありませんが、愛嬌があって聡明でした(上の画像参照。凄い美少女だったという説も)。

当時魚玄機には陳某という年下の男がいましたが、緑翹が来てからこれと親しく会話するようになり、魚玄機はこれに嫉妬するようになっていました。ある日、魚玄機は隣の道観へ招かれて出かけましたが、出かける前に、緑翹に留守番を命じました。

夕方に魚玄機が帰宅すると、緑翹は「陳さんがおいでになりましたが、お師匠様がご不在だと知ると、帰って行かれました」と言いました。陳は魚玄機の留守中に来たことが度々ありましたが、いつも書斎で待っていたのになぜ今日は待たずに帰ったのか。魚玄機は、陳と緑翹の間に何かあるのではないかと疑います。

夜が更けてから猜疑と嫉妬はいよいよ深くなり、魚玄機は緑翹を寝室に呼び入れ、厳しく問い詰めましたが、緑翹は「存じません、存じません」と言うばかりです。魚玄機はそれが狡猾に感じられ、何故白状しないかと馬乗りになって両手で首を絞め続けました。魚玄機が気付いた時、緑翹はすでに死んでいました。

魚玄機は緑翹の死体を裏庭に埋めました。魚玄機は翌日もやってきた陳に「緑翹がゆうべからいなくなりました」と言って陳の顔色をうかがうと、陳は意に介さない様子でした。

ある日咸宜観に何人かの客が来て、そのうちの一人が裏庭に用を足しに出たところ、数十匹の青蝿が庭の一箇所にたかっていました。見れば地面からかすかに血がしみ出ています。客は何気なくこのことを従者に話したところ、下僕は衙卒(捕り物役人)をしている兄にこの話をしました。従者の兄はかつて陳が咸宜観から出てくる所を見て魚玄機から金をゆすり取ろうとしたのですが、相手にされなかったことがあり、魚玄機を恨んでいました。

そこで従者兄は緑翹の失踪との関連を疑い、同僚と共に咸宜観を捜索し、青蝿のたかっていたところを掘ってみると、緑翹の死体が現われました。

魚玄機は殺人の罪で捕らえられました。才能を惜しむ長安の名士達は助命を嘆願しましたが、魚玄機はその年の秋に斬刑に処せられました。魚玄機26才の時でした。

なお「唐宋伝奇集」では、魚玄機が緑翹を殺した際、魚玄機は緑翹を裸にして激しく鞭打ちにしたそうです。緑翹は泣きながら「あなたは男女の歓びが忘れられなくて、嫉妬から操正しい私にひどい濡れ衣を着せた。私はそんなふしだらなあなたを決してこのままにしてはおかない」と恨んで死んだということで、魚玄機が斬刑に処せられたのは、この怨霊によるものだということになっています。

今回詩人なのに詩を載せないのは、あまりにこのエピソードがインパクトがあったせいです。これほどの美貌と才知を持ちながら殺人を犯すとは……嫉妬って怖いですね。

こんばんは。朝は比較的暖かかったものの、夕方からしばれてきましたね。暖かいのを知るとぶり返した寒さがひとしを厳しく感じられます。

今日は帰りの電車で、つり革が右目に直撃してしまい、怪我はなかったのですが、コンタクトレンズが吹っ飛んでしまいました。長年コンタクトレンズを使っていますがこういうことは初めてでした。目玉の中でズレるだけならしょっちゅうなんですが……。買いに行かねば。

さて中国美女列伝も今日を入れておそらくあと4回です。本日は唐代の詩人にして妓女であった薛濤です。薛濤(768-831年)は長安の出身で、良家の子女でしたが、父が地方官として赴任するのに伴われて蜀(四川省)に移ったところ、14、5才の頃に任地で父が亡くなってしまいました。その後は貧窮し、生活苦から妓女となりましたが、その文才で女流詩人として名声を博しました。

蜀の節度使(地方防衛のために設置された役職で、地方軍と地方財政を統括)の韋皐(いこう)に愛され、召されて宴会で詩をつくり、女校書(じょこうしょ)と称されました。これは宮廷で文書を司る、”校書郎”の官職をもじったものですね。

妓女として浣花渓という店にいて、白居易・元稹・牛僧孺・令狐楚・張籍・杜牧・劉禹錫といった当時の錚々たる詩人・政治家達と唱和し、名妓として知られました。なかでも元稹(げんしん)と親しかったそうです。

薛濤が作った深紅の小彩がついた詩箋(色紙のようなもの)は、当時「薛濤箋」として持てはやされました。薛濤箋を製作するための水を汲んだという薛濤井は今も残っています。

薛濤は王羲之の書法を学んだ書家としても認められ、宋の宮廷に秘蔵されていたといいます。

薛濤は幼い頃から詩才があり、8歳の頃に父が「庭除市古桐、聳幹入雲中」と賦したところ、彼女が「枝迎南北鳥、葉送往来風」と即座に続けたという伝説があります。

張為は「詩人主客図」の中で、薛濤の詩を「清奇雅正」と評しました。また元の辛文房は「情は筆墨をつくし、翰苑崇高」と評しました。現代では胡雲翼のように「当時の文人名士と交流しその影響を受け、技巧は熟練しているが率直な感情の表出に欠ける」と評されています。薛濤は妓女として社交がメインの仕事だったので、詩作が芸術家というより職人になることは仕方がないのかも知れません。

それでは薛濤の詩を紹介しましょう。

春望詞 其一
花開不同賞 花落不同悲
欲問相思處 花開花落時

春を望む 其の壱

花が咲く時あなたと一緒に楽しめず、花が散る時あなたと一緒に悲しめません
あなたと思いを共にできるところはどこにあるのでしょう。花が開くときですか、花が散るときですか

送友人

水国蒹葭夜有霜
月寒山色共蒼蒼
誰言千里自今夕
離夢杳如関塞長

友人を送る

この水郷の国にある菰の葉にはまっ白く霜が降りています
月は寒々と、連なる山々の色とともに、青く冷えきっています
「今宵、千里の旅の別離」と誰もが言いますが
わたくしにとっては、万里の長城よりも、遙か遠いところへの旅立ちだと思われるのです

こんばんは。今日は確かにいつもと違います。寒気の牙がにぶいというか。花粉症なしの春の陽気なら素晴らしいことですね。
金曜日は中国美女列伝。しかしそろそろタマも切れ始めていますので、40回には届かないでしょう。32回目の今日は唐琬です。

唐琬は南宋時代の代表的詩人である陸游(1125-1210)の妻です。范成大・尤袤・楊万里とともに南宋四大家のひとりで、特に范成大とは「范陸」と並び称されました。現存する詩は約9200首を数え、その詩風には、愛国的な詩と閑適の日々を詠じた詩の二つの側面があります。南宋というのは宋(北宋)が女真族の国家である金に華北を奪われて、南遷して再興した国ですからね。

例の水滸伝は北宋第八代皇帝徽宗の時代の話ですが、この徽宗が勃興してきた金に対する外交政策に失敗し、金の大軍に攻撃されました。徽宗は帝位を長男の欽宗に譲り、領土割譲と賠償金支払いで一旦は和議を成立させましたが、その後金軍が撤退すると約束を反故にしたため、金を怒らせることとなり、首都開封は陥落し、徽宗と欽宗は捕虜になり、妃・皇女・縁戚の女性や女官、宮女達はことごとく金軍の慰安用に連行され、後宮に入れられた後、金の皇族・貴族を客とする娼婦になることを強いられたました。ほうら、梁山泊を大切にしなからだ、と言いたいところですが、歴史とフィクションを一緒くたにしてはいけませんね。

陸游は政治家でもありましたが、強硬な対金主戦論者であり、それを直言するので官界では不遇でした。政府からすれば戦ったら勝ち目がないのに戦争だ戦争だと呼号されてもかないませんからね。しかしその不遇ぶりが、独特の詩風を生むことになりました。
この陸游、20歳のとき(1145年)母方の縁につらなる唐琬と結婚しました。夫婦仲は睦まじかったそうですが、なぜか唐琬が陸游の母親(要するに姑)から嫌われてしまいます。一説には夫婦仲が良すぎたからとも、また子供が出来ず、それについて良くない噂を立てられたからとも言われます。

そういう訳でたった一年ほどで離縁させられてしまいました。互いに好き合っていたので、その後も内緒で家を借りて隠れて逢瀬を重ねていたそうですが、それも母親の見つかるところとなり,以後会うことができなくなってしまいました。
やがて唐琬は宋の帝室につながる趙士程と再婚し、陸游も王氏と再婚することになりました。そして十年の歳月が流れた1155年の春のある日、沈園という庭園を散歩中に二人は偶然再会します。唐琬は一緒に来ていた夫の許しを得た上で、酒肴を陸游のもとに届けさせました。そのおり悲嘆にくれた陸游が庭園の壁に書き付けたのが、「釵頭鳳」(さいとうほう、かんざしの意)という詞です。

紅酥手 黄縢酒
滿城春色宮牆柳
東風惡 歡情薄
一懷愁緒,幾年離索
錯錯錯
桜色をしたあなたの手が、黄藤の酒を汲んでいますね
町は春の盛りで塀際の柳が青々としています
春風(母親の指していると見られます)は意地悪で、二人の愛ははかない
胸は愁いにつぶれ、離ればなれとなって何年が過ぎたことでしょう
ああ、間違っていた、私は間違っていたのです

春如舊 人空痩
涙痕紅浥鮫綃透
桃花落 閑池閣
山盟雖在錦書難託
莫莫莫
春は昔のままなのに、人はむなしく痩せていきます
涙が薄絹のハンカチに染み渡り、赤い跡になって見えます
桃の花は散って、私は池のほとりの楼閣に佇んでいます
固い誓いは今でも忘れませんが、手紙でお伝えすることもできない
ああ、いけない。そんなことをしてはいけないのです

この陸游の詩は、沈園の壁に書かれたそうです。後日再び沈園を訪れた唐琬は、この陸游の詩を見て、返歌を詠じました。題は同じく「釵頭鳳」です。

世情薄 人情悪
雨送黄昏花易落
暁風干 泪痕残
欲箋心事独語斜欄
難難難
世の中はみんな薄情でした。そして人の情は私に辛いものでした
黄昏時に雨が降ると、折角咲いた花も落ちやすくなります
たとえ明け方に吹く風が雨露を乾かしても、涙の跡は残ってしまいます
私は心に秘めた思いを手紙にしようと思い、手すりにもたれて独りつぶやくのです
ですが、それはやはり難しく、とてもできそうにありません

人成各 今非昨
病魂常似鞦韆索
角聲寒 夜闌珊
怕人詢問咽泪粧歡
瞞瞞瞞
人はみな、各々別々の道を歩むもの。今日は常に新しく、昨日とは違う日です。
でも、貴方と別れて病んだままの私の魂は、振り子のように同じところを行ったり来たりしています
角笛の音は寒々と響き、時は過ぎ、夜明けを迎えようとしています
誰かに心の内を尋ねられるのが怖くて、泣きたい気持ちを隠して楽しそうに振舞っているのです
欺いているのです。他人の目を、そして自分の気持ちをも

「釵頭鳳」は元々曲なのだそうで、そのためメロディに載せるために詩の構成もとても似ていますね。10年経ってもお互いを想う気持ちは変わりなく、しかし決して他人に明かすことは出来ません。互いの苦しく切ない気持ちを吐露し合っている姿が美しくも悲しいです。

二人の詩は互いの愛情を表していますが、陸游の詩は繊細且つ直情的で、別れざるをえなかった元妻に対して別れたことが過ちだったと、ストレートに後悔を吐露しています。

一方の唐琬は「貴方を愛する気持ちに変わりないのだけれど、その気持ちは心の奥底に隠さなければならない。誰にも知られてはいけない」というように、より現実的な視点で自身の気持ちを押さえ込もうとしています。
「秒速5センチメートル」の貴樹と明里が、ラストシーンでもしあの踏切に残って想いを伝え合ったとしたら、このような感じになったのではないかなんて思ってしまいます。なので、唐琬は絶対に麗しい人でなければなりませんし、南宋きっての詩人を向こうに回して返歌を作るあたり、その才もまた素晴らしいと言わねばなりますまい。

なお、陸游の唐婉への思いは、後年折に触れ彼女のことを追憶する詩を作るほど深いものがありました。たった一年の新婚生活だった故に、陸游にとっては唐琬との暮らしは「理想の恋」になったのかも知れません。唐琬は「釵頭鳳」の詩を読んだ後、傷心のあまり世を去ったという説があります。また唐琬の詩は後代の人の贋作であるという説もあるそうです。

個人的には唐琬の詩であって欲しいですが、美人が若くして死んでしまうのはちょっとなあと思います(もったいないじゃないか!)。ただ、陸游は85才を越える長寿を全うしているのですが、老いた後も度々若き日の唐琬との思い出を回想しては詩を作っているので、唐琬は若くして無くなっていて、それがために陸游の中で永遠の女性となっているのかも知れません。
